『聖家族』について
『聖家族』は、堀辰雄が1930(昭和5)年に発表した短編小説です。
敬愛していた芥川龍之介の自殺に衝撃を受けた堀辰雄は、芥川の死の3年後に本作を書き上げました。
実在の人物をモデルに、最愛の人の死を経験した人々のその後が描かれています。
『聖家族』のあらすじ
3月。河野扁理(こうのへんり)の師である九鬼(くき)の告別式は、弔問客で混雑していました。
渋滞する車の中から、一人の女性が現れます。
彼女は九鬼が生前親しくしていた、細木(さいき)という貴婦人でした。
5年ほど前、扁理と細木夫人は九鬼の紹介で顔を合わせていました。
微かな記憶を頼りに、挨拶を交わす二人。細木夫人の17,8歳になる娘・絹子(きぬこ)も加わり、3人の交際がスタートします。
ある日、細木夫人は扁理に、絹子が古本屋で見つけた本の話を聞かせます。
古本屋で見つけたラファエロの画集に「九鬼」のサインが入っていたこと。そして、絹子がその画集をひどく欲していること…。
その画集は扁理が九鬼から譲り受け、九鬼の死の数日前、貧しさのあまり古本屋に売り払ってしまったものでした。
その日、扁理の夢に九鬼が現れ、ラファエロの『聖家族』について言葉を交わします。
扁理はラファエロの画集を買い戻し、細木家へ持参するのでした。
交際が続くうち、絹子と扁理はお互いを少しずつ意識するようになります。
そこには、二人を近づけようとする細木夫人の意向もありました。
距離を縮めようとする絹子に対し、細木母子から距離を置き始める扁理。ついに扁理は都会を離れ、1年ほど旅に出ることを決心します。
知らない町で扁理が休息を感じているころ、絹子は病に倒れるのでした。
扁理への愛を自覚した絹子の顔は、細木夫人によく似ていました。
『聖家族』ー概要
物語の主人公 | 河野扁理 |
物語の重要人物 | 九鬼、細木夫人、絹子 |
主な舞台 | 東京 |
時代背景 | 近代 |
作者 | 堀辰雄 |
『聖家族』の解説
芥川と松村みね子 『聖家族』の背景
堀辰雄のほかの作品と同様に、『聖家族』は実在の人物をモデルにしています。
冒頭で告別式がおこなわれている九鬼は芥川龍之介、細木夫人は松村みね子、絹子はみね子の娘・総子、そして河野扁理は堀辰雄自身です。
松村みね子は、本名を片山ひろ子といいます。外交官の娘で、東洋英和女学院を卒業後、大蔵省勤務の男性と結婚しました。
みね子は才色兼備と謳われ、芥川と知性で格闘できる唯一の女性として知られていました。
みね子と芥川はどちらも伴侶を持ちながら、お互いの魅力に惹かれていきます。
芥川と親しかった堀辰雄は、二人の交際に気づいていました。
『聖家族』は九鬼の死後、それぞれ九鬼の特別な存在であった細木夫人と扁理の心理が描かれています。
芥川龍之介の死は1927年、『聖家族』の発表は1930年です。
最愛の人の死から少し経ち、ようやく堀辰雄自身の心の整理がついたときに書かれたのではないかと思います。
交わらない視線
物語の冒頭で、扁理は細木夫人に名刺を渡します。
扁理は自分の名刺を持っていないため、九鬼の名刺を裏返し、そこに自分の名前を書きました。
それを見た細木夫人は「扁理は九鬼を裏返したような青年だ」と思います。
5年ほど前に九鬼の紹介で扁理と顔を合わせたときも、細木夫人は「九鬼と扁理は親子のようによく似ている」と感じていました。
扁理は終始、九鬼と比較する形で人物描写がなされます。
九鬼とよく似ている点はもとより、九鬼とは似ていない点についても「九鬼とは異なる点」として書かれているのです。
もし九鬼がいなければ、それは扁理独自の性質として受け入れられていたはずです。
とくに、九鬼と特別な関係にあった細木夫人は、九鬼と扁理を同一視する傾向が強く現れています。
扁理と絹子の初対面は、九鬼の死後でした。しかし、絹子も「母(細木夫人)と付き合いのあった九鬼の愛した少年」という先入観をもって扁理と対しています。
ーーーそして彼女はいつしか自分の母の眼を通して扁理を見つめだした。もっと正確に言うならば、彼の中に、母が見ているように、裏がえしにした九鬼を。ーーー
堀辰雄『聖家族』
細木夫人にとっての河野扁理は、思い出の中の九鬼の愛した少年であり、九鬼を裏返した存在です。
それは、細木夫人が「河野扁理」という人間ではなく、九鬼の死後なお九鬼の面影をとどめる道具としての扁理を必要としていることを意味します。
一方の扁理も、細木夫人を「九鬼の特別な人」として見ています。
3人の交際は個人と個人の付き合いではなく、最愛の人を亡くした人々が、死者と再会するためのものなのです。
それぞれが相手を相手のまま、一個人として見つめることはありません。その視線は交わることなく、交際の中心にいる死者・九鬼に注がれているのです。
扁理はなぜ旅に出たのか
物語の後半、息苦しさを感じた扁理は細木母子と距離を置くため、踊り子と交際したり、旅に出たりします。
おそらくこの時点では、扁理もなぜ自分が苦しいのか、原因を突き止めてはいません。
ただし、この母子とは離れるべきだと感じていたのは事実です。
旅に出た扁理は、海辺の町を歩きながら考えます。
ーーーそうして扁理はようやく理解し出した、死んだ九鬼が自分の裏側にたえず生きていて、いまだに自分を力強く支配していることを、そしてそれに気づかなかったことが自分の生の乱雑さの原因であったことを。ーーー
堀辰雄『聖家族』
これまで九鬼の影響下に生きてきたこと。そして九鬼の死後、自分は自分として生きなくてはならないこと。
九鬼とその影響下にあった人々から物理的に距離を置いたことで、扁理はようやく河野扁理として生きる人生を手に入れたのです。
この思索のあと、扁理は生き生きとした自分の鼓動を感じています。
おそらく扁理は無意識のうちに、九鬼の裏返しとしての人生ではなく、「九鬼との本当の別れ=自分として生きること」を選んでいました。
それは、細木母子と距離を置こうとしたときに、すでに芽生えていたのだといえます。
扁理が旅に出たあと、絹子は病に倒れます。なぜ扁理は自分から離れていったのかと、病床で自問自答するのです。ある日、絹子は母に問いかけます。
ーーー「河野さんは死ぬんじゃなくって?」
(略)
「……そんなことはないことよ……それはあの方には九鬼さんが憑ついていなさるかも知れないわ。けれども、そのために反ってあの方は救われるのじゃなくって?」ーーー堀辰雄『聖家族』
このやり取りから、細木夫人は娘が扁理を愛していることを悟ります。
ーーー娘は誰かを愛している。自分が、昔、あの人を愛していたように愛している。そしてそれはきっと扁理にちがいない……ーーー
堀辰雄『聖家族』
ここでも、細木夫人の世界には九鬼と自分しかいません。
ただし、この後の文章から、扁理の人生に九鬼が深い影響を及ぼしているがために、扁理が苦しんでいることには気が付いている様子です。
「死があたかも一つの季節を開いたかのようだった。」という文から始まる『聖家族』。
死が開いた新しい季節とは、河野扁理としての人生の始まりなのではないでしょうか。
九鬼の死によって、扁理の自立の時期が来たのです。
親が子に強い影響を及ぼすように、そして子が親元から離れていくように、九鬼と扁理の関係は家族の姿を連想させます。
絹子が察するとおり、細木母子が知っている「九鬼の裏返しの少年」は旅先で死にます。
扁理が死者の影響から離れ、自分を取り戻すための生まれ直しの手段が「旅」だったのです。
『聖家族』の感想
「誰かの代わり」は生きられない
九鬼の影響下を生き、九鬼の死後も九鬼の裏返しとして必要とされていた扁理。
「誰かの代わりに誰かを必要とする」という構図は、『源氏物語』とよく似ているのではないでしょうか。
桐壺帝が桐壺更衣の代わりに藤壺中宮を求め、さらにその身代わりに光源氏が紫の上を求めたように、誰かの記憶の依り代として生きることを求められるケースが『源氏物語』では多く見られます。
誰かの代わりとして生きることは、本来の自分を手放すことを意味します。
本来の自分が求められているのではなく、自分に似た誰かが求められていて、手に入らないその人の代わりに、手に入りやすい自分が利用されている。
その事実に気が付いたとき、失望しない人間がいるでしょうか。
人によっては、身代わりを強制した相手に憎しみすら感じる可能性があります。
ただし、最愛の人を亡くした細木夫人の気持ちはよくわかります。
死を受け入れる時間には個人差があり、細木夫人には死者と向き合う時間がまだ必要なのです。
細木母子に違和感を抱きつつも「旅」によって距離を置いた扁理の行動は、バランスの良い上品な選択であるようにも思えます。
扁理は『聖家族』のどこにいるのか
聖家族とは、聖母マリアとイエス・キリスト、養父ヨセフのことです。
ラファエロは聖家族をテーマにした絵画を多く残しているため、どの絵画が作中で取り上げられたものなのかはわかりません。
作中では細木夫人は聖母マリアに、絹子は聖母マリアが抱いている幼子のイエス・キリストに似ていると書かれています。
聖家族に登場人物を当てはめるのであれば、養父ヨセフは九鬼が該当するのでしょう。
絹子の実父はすでに亡くなっているため、母の恋人である九鬼が養父だといえなくもないのです。
聖家族はこの3人で完結し、画面上に扁理の居場所はありません。
しかしラファエロには『聖母子と幼き洗礼者ヨハネ』という作品があります。
タイトルのとおり、聖母マリアと幼いイエス・キリスト、同じく幼い洗礼者ヨハネが描かれた絵画です。
こちらの絵画には、養父ヨセフは登場しません。洗礼者ヨハネはたびたび聖家族と同じ画面に描かれる預言者で、サロメの要望により首をはねられ死亡します。
オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』では、サロメは自分の意志でヨハネ(ヨカナーン)の首を求めます。
しかし、新約聖書のサロメ(へロディアの娘)は母にそそのかされ、ヨハネの首を所望するのです。
絹子と扁理を近づけようと画策したのは、母である細木夫人でした。
物語の本来の読みからは外れてしまいますが、扁理=洗礼者ヨハネ、細木母子をサロメとその母に置き換えると、魅力的な女性たちの手から扁理が逃げる物語として楽しむこともできるかもしれません。
以上、『聖家族』のあらすじ・解説記事でした。