『ナナ』の紹介
『ナナ』は1880年に刊行された、フランスの作家・エミール・ゾラの作品です。
男性を次々と破滅に追いやる魔性の女の一生が描かれている本作は、同時に、当時の社会のあり方をも示している非常に興味深い作品でもあります。
今回はそんな『ナナ』について、あらすじ・解説・感想までをまとめました。
『ナナ』―あらすじ
パリのヴァリエテ座で、新人女優のナナが壇上に登場します。
彼女は歌や演技は下手だがその美貌で多くの観客を魅了し、舞台はたちまち大盛況を博しました。
同棲していた俳優フォンタンに暴力を振るわれ、追い出されたナナは、伯爵の愛人となって次々と男性達を破滅させていくこととなります。
その中にはナポレオン三世の皇后宮侍従のミュファ伯爵、ヴァンドゥーブル伯爵、軍人フィリップ・ユゴンとその弟がいました。
また、娼婦サタンとは同性愛関係となります。
すさまじい浪費と奔放さで多くの人々を翻弄し、こうして彼女は高級娼婦として栄華を極め、パリで伝説的な存在になるのです。
しかし、普仏戦争の直前、彼女は若くして天然痘に感染してしまいます。最後は醜い姿で、ひっそりと死んでいきました。
『ナナ』概要
・舞台:第二帝政期・パリ
登場人物 |
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ナナ |
本名アンナ・クーポー、『居酒屋』主人公の娘。14歳で家出し、舞台女優となる。高級娼婦として上流階級の男達を破滅させていく。男達への罪悪感はないが、お人好しで自由奔放な性格。 |
フォンタン |
ヴァリエテ座の喜劇役者。ナナと同棲していた。 |
ミュファ |
ナポレオン三世の皇后宮侍従。ナナに魅了されて破滅し、最終的に辞職に追い込まれる。 |
サビーヌ |
ミュファの妻。貞淑だったが夫の浮気でナナに感化され、新聞記者と愛人関係になる。 |
ヴァンドゥーブル |
伯爵。持ち馬にナナと名づけて競馬で勝利するが、不正がばれて厩舎内で焼身自殺する。 |
フィリップ・ユゴン |
軍人。ナナのために公金を着服し、投獄される。 |
ジョルジュ・ユゴン |
17歳の青年。兄とナナの関係に嫉妬し、ナナの家で自殺を図る。 |
シュタイネル |
銀行家。 |
サタン |
下級娼婦。ナナと同性愛関係になる。 |
マロワール |
ナナの古い友人として居座る老女。 |
ルイ |
ナナが16歳の時に産んだ息子。病弱で、感染症にかかり幼くして亡くなる。 |
ルラ |
バティニョルで暮らすナナの叔母。ルイを預かっている。 |
『ナナ』―解説
モデルになった高級娼婦
ナナはクルチザンヌと呼ばれる高級娼婦でした。
彼女にはモデルがいるとされ、19世紀フランスの社交界で有名な高級娼婦、コーラ・パールがその一人とされています。
パールはロンドンからパリへ渡って宮廷の要人達を次々と虜にし、ギャンブル嗜好と浪費癖を呈する放埒な生活を送りました。
彼女の凄まじい贅沢ぶりは、プレゼントされたお菓子の包み紙が紙幣だったり、シャンパンで満たした銀の浴槽で入浴したりといった逸話が残されているほどです。
また、粗暴で激しい気性を持っており、後援者である金満家や貴族の男性をなぶりものにすることさえありました。
作中でナナがミュファ伯爵をなぶる場面と重なります。
パールはファッションリーダーでもありました。
上流階級の女性達は彼女のメイクやドレス・ヘアスタイルを真似していたといいます。
保守的な人々に下品だと非難されることもありましたが、彼女はあくまで自然体で振る舞っていたとされます。
従来の完璧主義な美女像に飽きていたパリの男性達は、その態度に惹かれたのでしょう。
天真爛漫であけすけな性格は、ナナの人物像に重なる部分でもあります。
パールを慕う若い男性が、彼女の屋敷でピストル自殺を図ったことさえありました。
これも言わずもがな、ナナを慕うジョルジュ・ユゴンの自殺未遂と重なるところです。
これがスキャンダルとなって、女優としてのキャリアを夢見ていたパールの夢は唐突に終わりを迎えました。
逃げるようにロンドンに帰った彼女でしたが、その栄光はかつての勢いを失い、最後は貧窮の中、大腸ガンで亡くなっています。
ファム・ファタル
ファム・ファタルとは「運命の女」を意味するフランス語です。
男たちを破滅へと導く魔性の女を指します。
フランスの作品では『ナナ』の他にも、『マノン・レスコー』や『カルメン』、『サランボー』などがファム・ファタル小説として挙げられます。
文学的モチーフとして、18世紀、19世紀ごろから20世紀にかけて人気の題材でした。
前項のコーラ・パールとの比較から分かる通り、ナナはその美貌と自由奔放な性格で男性達を惹きつけていました。
そして彼らから経済的援助を受け、吸い取るように財産を貢がせて、経済的破綻だけでなく夫婦関係や兄弟関係の破綻、人生の破綻さえももたらすのです。
ここでポイントとなるのは、ナナ自身決して悪意があったわけではないという点です。
彼女は、男性達が破綻して転落の道を辿っても、それに罪悪感を覚えませんでした。
なぜならそれは、わざとやったことでも計算してやっていることでもなかったためです。
ここがナナの、ひいてはファム・ファタルの恐ろしいところであり、憎めないところなのでしょう。
作家達は、ファム・ファタルという一種の偶像に憧れ、一部のものは彼女たちに破滅させられたいとさえ願っていました。
そして女性のなかには、ファム・ファタルを演じるものもいました。
アメリカのゼルダ・フィッツジェラルドとスコット・フィッツジェラルドの夫婦関係が、この「ファム・ファタルごっこ」にあたると言われています。
この偶像は作家ごとに少しずつ定義が変化していますが、ゾラにとってはナナが、フィッツジェラルドにとっては妻ゼルダが、それぞれ理想的な「宿命の女」だったのかもしれません。
ナナの生まれ|フランス第二帝政期
ナナはナポレオン三世のクーデターの年に生まれ、普仏戦争開戦前夜に亡くなります。
これはすなわち、彼女の人生が、第二帝政の勃興と崩壊を表すことを示しています。
第二帝政はその名の通り、フランスが皇帝によって治められていた時代です。
ナポレオン=ボナパルトの甥であるルイ=ナポレオン(のちのナポレオン三世)が1851年にクーデターを起こして議会を解散させ、新憲法を制定して国民投票で皇帝の座を勝ち取りました。
ナポレオン三世はパリ大改造計画を命じて都市を現在に近い形に整備したほか、クリミア戦争でロシアを下し、叔父ナポレオンの雪辱を果たすなど活躍しています。
しかしその後の外征失敗で権威を落としてしまいました。
歴史上、君主としてあまり評価されなかった存在でしたが、現在ではその能力や政策を再評価する向きもあるようです。
普仏戦争は1870年、フランスがプロイセンに宣戦したことで始まりました。
ナポレオン三世は自ら戦場へ赴きますが、最終的に捕らえられて捕虜になってしまいます。
捕虜になった皇帝に激怒したフランス国民は彼を廃位させ、こうして第二帝政は崩壊。
普仏戦争はパリへの砲撃を許したフランスの敗北で幕を下ろしました。
ナナが破滅させた男性達の中には、貴族や軍人がいました。
彼女が受けた恩恵は、第二帝政で築かれた富や名声が元手になっています。
そして彼女は、プロイセンへの怨嗟を叫ぶ民衆の声の中で息を引き取りました。
部屋はがらんとしていた。絶望的な大きな吐息が大通りから昇って来て、カーテンを膨らました。
―ベルリンへ!ベルリンへ!ベルリンへ!
『ナナ』,ゾラ作/川口篤・古賀照一訳,新潮文庫,p.712
皇帝政治のロマンの中に酔いしれていた貴族や既得権益を持つ人々が、大きな動乱を機に衰退へ向かっていく。
そして社会は、また新たな姿へと形を変えていく。
ジャーナリスティックな視点でこういった状況を目にしていたゾラは、第二帝政期の社会のあり方そのものを、ナナに仮託して描いていたのかもしれません。
『ナナ』―感想
金蠅という揶揄
ナナは美しい女性であり、無知な貧民であり、稀代のファム・ファタルであり、母親であり、様々な顔を持っています。
そんな彼女は作中で、新聞記者に「金蠅」と呼ばれ揶揄されています。
ゾラが『ナナ』の前に書いている『居酒屋』で、破滅した主人公ジェルヴェーズが、彼女の母親です。
貧しい出身である彼女は、まるで蠅のように飛び回る奔放な少女でした。
それが美しく成長し、やがては男性達を虜にして、上流階級の家庭を次々と崩壊させていくのです。
ゴミ溜めで生まれ、家々の窓から入り込み、疫病をばらまいていく金蠅そのものです。
一方でこの揶揄は、どれだけ繁栄しようと「蠅」という身分からは抜け出せない、という悲哀をも感じさせます。
彼女はいつまでも無知なまま、最後に待っている破滅へと突き進むしかありません。
『ナナ』は、貧困や病気、そしてアルコール依存といった負の遺伝を描いている『ルーゴン=マッカール叢書』のシリーズ第九巻にあたります。ナナは一見貧困から抜け出した一族の希望に見えて、結局は宿命的な遺伝子の犠牲になっていくのです。
この作品は以上のような意味合いで、ただのファム・ファタル小説にとどまることはなく、また、ただの社会風刺作品にとどまることもなく、多様な解釈ができる小説です。
ナナの生き様に、彼女を取り巻く社会に、私たちはそれぞれ何を思うのか。
作者ゾラが、読者にそう投げかけているようです。