林芙美子『めし』未完のまま絶筆となった作品。ラストシーンを考察!

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林芙美子『めし』未完のまま絶筆となった作品。ラストシーンを考察!

『めし』紹介

『めし』は、林芙美子著の長編小説で、1951年4月から7月にかけて『朝日新聞』に連載されました。

本作は著者の遺作であり、およそ3分の2を書き上げたところで絶筆となりました。

倦怠期を迎えていた夫婦の仲が、奔放な姪の居候をきっかけに変化していくさまを描いた作品です。

ここでは、『めし』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。

『めし』あらすじ

結婚して五年、東京から大阪へ越して三年の、新婚夫婦である初之輔と三千代は倦怠期を迎えていました。

三千代は停滞した生活にはりあいを求め養子を迎える相談をするものの、初之輔は反対しています。

そんななか、縁談に嫌気がさして東京から家出をしてきた初之輔の姪・里子がしばらく居候することとなりました。

初之輔に甘えたがる里子とまんざらでもない初之輔の態度に三千代は嫌悪を感じ、里子を送る口実で、東京の実家へ帰ってしまいます。

三千代は東京で、かつて三千代に好意を寄せていた従兄弟の一夫と食事をしたり、職業案内所の前へ行ってみたりしながらも、初之輔からの手紙を何度も読み返し、大阪へ戻るべきかを煩悶しつづけていました。

(未完)

『めし』概要

主人公

岡本三千代

重要人物

岡本初之輔:三千代の夫。
岡本里子:初之輔の姪。縁談から逃れて大阪へ家出してきた。
竹中一夫:三千代の従兄弟。かつて三千代と縁談の話もあった。
富安せい子:三千代の女学校の同級生。お茶屋「ゆらのすけ」に嫁いだ。
堂谷小芳:三千代の女学校の同級生。独り身で生活に困窮している。

主な舞台

大阪、東京

時代背景

1950年代初頭

作者

林芙美子

『めし』解説(考察)

本作は林芙美子の遺作であり、当初の連載予定の約3分の2の分量で絶筆となりました。

三千代と初之輔の仲は戻るのか、二人で会う約束をした里子と一夫はどうなるのか、先の展開が気になるところで物語は途絶えてしまっています。

ここでは、描かれることのなかった残り3分の1の物語はどんな展開だったのか、成瀬巳喜男監督作・映画『めし』の結末も参考にしながら、考察していきたいと思います。

気になる伏線や展開

本作に残された先の気になる伏線や展開として、大きなものが3つあります。

  • 三千代と初之輔の仲は戻るのか
  • 三千代と初之輔は養子を迎え入れるのか
  • 里子と一夫の関係性はどうなるのか

三千代と初之輔の関係性

まずは、三千代と初之輔についてみていきたいと思います。

そもそも三千代が初之輔との生活に違和感を感じ始めたのは、専業主婦として炊事洗濯に追われるばかりの日々に嫌気が差したからでした。

作中にも登場するように、1950年代初頭は「糸へん景気・金へん景気」という好景気によって、労働力需要が増し、女性も仕事に従事することが増えた時代です。(※)

世の中全体の空気感として、専業主婦以外の選択肢を考えられるようになったからこそ、三千代は専業主婦としての自身の生活に不安を感じはじめたのです。

一方で、女性一人で生きていくにはまだまだ難しい時代でもありました。

例えば、三千代の友人の堂谷小芳は、未婚で、母と妹と女三人で暮らしていますが、かなり困窮した生活を送っていました。

三千代が家を出て働きたいという思いを抱えつつ一歩踏み出せずにいるのは、そうした生活への不安も大いにあるでしょう。

気持ちの面でも、三千代は完全に初之輔を断ち切れていません。

東京へ家出してからも初之輔からの手紙を何度も読み返すなど、夫婦仲の回復を迷っている様子がうかがえます。

初之輔はというと、三千代が不在の間、近所の金澤りうや三千代の友人である富安せい子などに構われ、当惑している様子が描かれます。

家事がままならず三千代の不在に参っている様子は垣間見えますが、かといって自ら大阪へ迎えにいくなど、具体的な行動を起こそうとする気配はみられません。

二人の関係性はまさに膠着状態です。
終盤の3分の1で、一気に動き出すはずだったのかもしれません。
はたしてどちらが行動を起こし、夫婦の関係性はどう変化していく予定だったのでしょうか。

岡本家へ迎える養子

里子が居候する少し前、三千代と初之輔の間には養子を迎えるかどうか、という問題がありました。

子供を迎えたいと申し出たのは三千代で、初之輔はそれに反対していましたが、物語が進むにつれて二人の意見は反転していきます。

三千代は、実際に子供に対面すると大きな違和感を感じたのでした。

 

 子供は、一度も、三千代の顔を見ようとはしない。三千代は、ふびんな子供だとは思ったが、少しも好きにはなれなかった。こうした見合いは、むずかしいものだと、自分の、軽々しい気まぐれを、三千代は、はらのなかで、反省している。

林芙美子『【復刻版】林芙美子の『めし』――大阪の美男美女の夫婦の倦怠期』,響林社文庫,84頁

子供をもらうことに後ろ向きな感情を感じた途端、「三千代は、すべてのものを、失った気がした」と語られています。

停滞した生活の、唯一の突破口が絶たれたように感じたためでしょう。

一方で、養子に反対していたはずの初之輔は、子供に会うとむしろ好感を抱いています。

(前略)初之輔はがつがつしていない、子供の素直さが、気にいった。急に、このぐらいの子供が、自分の家庭にいてもいいような、気がして来る。
子供なき夫婦の、味気なさが、このごろ、しみじみと感じられていたのだ。

林芙美子『【復刻版】林芙美子の『めし』――大阪の美男美女の夫婦の倦怠期』,響林社文庫,168-169頁

初之輔もまた三千代と同じく、子供に夫婦生活の「味気なさ」を打破してくれることを望んでおり、二人は互いに生活の停滞を感じていたのだということがわかります。

二人の立場が反転した後、夫婦はどういった結論をくだすのでしょうか。

もし養子を迎えるのであれば、それによって二人にどのような変化がもたらされるのでしょうか。

里子と一夫の約束

最後に気になるのは、二人で会う約束をした里子と一夫のその後です。

彼女が一夫との約束を取り付けた直後には、こんな一文がありました。

 里子は、どこへでも、好きなところへ出て行っていいよと、耳もとで、神さまが、ささやいているような気がした。

林芙美子『【復刻版】林芙美子の『めし』――大阪の美男美女の夫婦の倦怠期』,響林社文庫,208-209頁

これは、前の場面で父親に告げられた「どうしても、逃げて行きたいのなら、里子の好きなところへ、行ってみるさ……」という台詞を伏線にしたものと思われます。

里子はそれまでにも、初之輔に甘えたり芳太郎に思わせぶりな態度を取ったり、なにかと男へちょっかいをかけていますが、こうした行動の裏には「本当の愛情が判らない」「どこか遠くへ行ってしまいたい」という彼女なりの苦悶があったのでしょう。

人生に思い悩んでいる里子は、一夫との時間で何かを得ることができたのでしょうか。

そもそも、二人は無事に約束を果たすことができたのでしょうか。

その後が気になる展開です。

映画『めし』に描かれた「女の幸福」

次に、原作の連載終了から半年後に公開された成瀬巳喜男監督作、映画『めし』では物語がどのように締めくくられているのか、みていきたいと思います。

三千代の見出した幸福とは

映画の結末は端的にいえば、初之輔が出張で東京へやってきて、三千代を竹中家まで迎えに来るというものです。

三千代と初之輔を見守ってきた観客らがもっとも期待する形の、いわば無難な締めくくり方といえるでしょう。

夫婦が二人並んで電車に揺られるラストシーンで語られる、三千代のモノローグが非常に印象的です。

私のそばに夫がいる。目を瞑っている平凡なその横顔。生活の川に泳ぎ疲れて、漂って、しかもなお闘って、泳ぎ続けている一人の男。その男のそばに寄り添って、その男と一緒に幸福を求めながら生きていくこと。そのことは、私の本当の幸福なのかもしれない。
幸福とは、女の幸福とは、そんなものではないのだろうか。

成瀬巳喜男監督『めし』1951,東宝

生活の川を泳ぎつづける夫に寄り添いつづける――三千代は、専業主婦としての幸福を改めて見出した形です。

「男と一緒に幸福を求めながら生きていくこと」を「女の幸福」と語るのは昭和的な感覚といわざるを得ませんが、当時は名作として多くの人々に受け入れられました。

倦怠期を迎えた夫婦が互いの大切さに気付かされよりを戻す、平和でロマンティックなラストシーンといえるでしょう。

では、原作も似通ったラストになっていたでしょうか。

原作を細かく読んでいくと、そうは思われない部分が多々あります。

映画版ではカットされている、三千代以外の女性のエピソードに着目してみると、それがよく分かります。

里子の抱える不安

原作でも映画版でも、里子は苦労を知らない奔放な若い女性として描かれていますが、特に映画版ではその裏にある彼女の苦悩が捨象され、ただ三千代を苛立たせ、脅かす存在として描かれています。

しかし、原作における三千代は里子に対して、もう少し複雑な感情を抱いていました。

里子に反感を抱きつつも、彼女の姿に思わず自身を重ねてしまう場面があるのです。

例えば、父親に怒られるのが嫌だから竹中の家に泊めてほしいと頼む里子に、信三が苦言を呈した場面です。

「泊まっちゃいけないって、ぼくは云いませんよ。だけどね、感情をべたつかせて、人に、無意識に、迷惑をかける人間は、大嫌いなンだ」
三千代は、背筋が、ぞっとするような気がした。その皮肉は、自分にも浴びせられているようだったから……。

林芙美子『【復刻版】林芙美子の『めし』――大阪の美男美女の夫婦の倦怠期』,響林社文庫,188頁

家出をして大阪の自分たちを頼ってきた里子と、東京の実家を頼った自分とを重ね、三千代は身につまされる思いがしています。

さらに、銀座の街を歩く華やかな女性たちに劣等感を感じる場面でも、三千代は里子への同情を感じていました。

 銀座の通りは、何のくったくもなさそうな、美しい女ばかり歩いているようだ。いったい、彼女達は、どうして、あんなに、着飾れるものなのだろう…‥。どうした経済で、どんな環境なのだろうか……。三千代は不思議だった。
真面目に暮らしているものが、損をしているような気がしてくる。少しばかり、里子の心が判るような気がしてきた。

林芙美子『【復刻版】林芙美子の『めし』――大阪の美男美女の夫婦の倦怠期』,響林社文庫,202頁

原作において、里子は三千代を脅かすだけの存在ではありません。

三千代の不安をあおったのは里子の無邪気さでなく、里子が自身と同じ不安を抱えていることだったのではないでしょうか。

それはすなわち、自分の人生の行く先を見失っていることへの不安です。

 里子は、机の本の上を、黄色いまだらのある、圓い蟲が、ゆるゆる、はっているのを、眺めていた。里子は辛らかった。
自分でも、自分の気持ちが、はっきりしないのだ。ただ正直に、自分の気持ちを、いってごらんといわれたら、「もっと、なにか、違った世界へ、飛びこんでみたいの」と、いう気持ちである。

林芙美子『【復刻版】林芙美子の『めし』――大阪の美男美女の夫婦の倦怠期』,響林社文庫,197頁

三千代は、縁談という用意された人生に違和感を感じ逃げ出してきた里子に強い共感を覚えたからこそ、かえって嫉妬や反発を感じたのではないでしょうか。

二人は敵対しているのでなく、むしろ同志に近い存在だったのかもしれません。

女学校の同級生たちの苦難

映画版では、三千代の女学校の同級生たちの境遇についても大幅にカットされています。

例えば、富安せい子は映画版でも何度か登場しますが、彼女の抱える苦悩については一切触れられていません。

大阪のお茶屋に嫁いだ彼女は、同窓会の様子からも順風満帆な生活であるように思われていましたが、実は姑からの辛辣ないじめにあっていたことが後に明かされました。

偶然、東京で三千代と遭遇した彼女は、離婚の訴えをして家出してきたのだと語るのです。

また、同じく三千代の同級生である堂谷小芳は、同窓会で皆から身軽な独り身であることを羨まれますが、実は生活に困窮していて明日の生活も危うい状況であることが明かされます。

「ここまでいったら、親子三人が、飢え死にしなきゃならないとこまで、来てるのよ」とまで語り、二束三文の品をどうにか高値で買ってくれないかと友人らに訴えるのです。

富安せい子や堂谷小芳についてのこうしたエピソードは、三千代が自身の幸福に気づくための伏線であるように考えられます。

しかしそれ以上に、結婚すれば、子供がいれば、独り身であれば、といった条件で幸せが決まらないことを示しているとも考えられないでしょうか。

映画『めし』の中で、三千代は妻としての幸せを「女の幸福とは、そんなものではないのだろうか」と語りました。

しかし、原作の描かれ方をみればむしろ、妻としての幸せだけが「女の幸福」でないからこそ、三千代や里子をはじめとした女性は人生に迷いを感じているように思われるのです。

原作の三千代がたどり着くべき幸福とは、「女の幸福」という広義のものでなく、彼女だけが見出すことのできる「自分だけの幸福」なのではないでしょうか。

ラストの展開に関する考察

最後に、映画『めし』との比較をふまえて、原作における今後の展開はいかなるものだったのかを独自に考察していきたいと思います。

三千代と初之輔の行く先

原作の三千代がたどり着くべき先が「女の幸福」でなく「自分だけの幸福」だとすれば、たとえそれが妻としての幸せに帰結するとしても、初之輔との和解が受け身なものであってはならないでしょう。

三千代が「自分だけの幸福」はここにあるのだと固く信じることができてはじめて、本当の意味での初之輔との和解が成立するのではないでしょうか。

とすれば、映画では初之輔が三千代を迎えに来る形でしたが、三千代が決心をして大阪へもどる展開もあり得たのではないでしょうか。

最後の節には、竹中の叔父と会う約束をしていると語られていたので、それがきっかけとなって三千代の気持ちが動いていく、という展開は大いに考えられるでしょう。

養子を迎えないという選択

養子は、三千代にとって変化を求める気持ちの表れ、夫婦生活に対する不満を示すものでした。

子供もいいかもしれない、と心変わりした初之輔に関しても、理由は同じです。

とすると、もし三千代が夫婦生活のうちに「自分だけの幸福」を見出すことができれば、養子を迎える必要はなくなります。

養子を迎えるという決断でなく、養子を迎えないという選択が大きな意味をもつ可能性もあるのではないかと思われます。

作中、三千代がまだ出産を諦める年齢ではないことも語られていました。

初之輔との生活について決心がついたのなら、養子でなく二人の子供を作るという展開もあり得たかもしれません。

里子と一夫のその後

里子がしきりに男に甘えるのは、三千代にとっての養子と同じく、男の存在に停滞した生活の突破口を求めているからと推測できます。

しかし、もし里子もまた彼女なりの幸福をみつけたいのであれば、本質をみつめなおし、男へすがる以外の選択肢を模索する必要があります。

また、三千代とも決して一線を越えようとしなかった堅実な一夫が、若い里子を遠くへ連れ出してくれる人物であるとは考えにくいでしょう。

映画版では、里子の口から二人で甘いひとときを過ごしたことが語られていましたが、それでは里子が停滞から脱することはできなかったということになります。

二人がもし無事に約束を果たしたとしても、それが恋仲に発展する可能性は低いのではないでしょうか。

ただ、懐の深い大人な一夫から、里子が何かしらの刺激を受けることは考えられます。

この二人の約束が、里子のその後を大きく動かす契機であったかもしれません。

感想

令和も変わらない女性たちの迷い

本作を読んで驚かされたのは、女性たちの自立心の強さでした。

自ら家を出て働きたいと望んだり、独り身の友人を羨ましがったり、結婚などしたくないと家出をしたり、家庭に入ることに強烈な違和感を覚えている女性たちの姿を意外に感じました。

戦後まもない頃の女性は、まだまだ家庭に入ることが幸福とされているものと思っていたのです。

結婚が本当に幸せの道なのか、家事に追われて一生を終えるなんてまっぴらだ、そんな女性たちの自立心は、令和でも通用するのではないかと思われるほどです。

この頃の女性の作家は「女流作家」と呼ばれていました。

女性は最低限の教育でよいとされていた時代、文壇は男の世界でした。

さらにいえば、戦前の作家には学問を十分に受けられるほどの裕福さも求められていたはずです。

女学校を卒業したとはいえ、その日暮らしで貧困にあえぎながら詩や小説を書き続け、作家デビューを果たした林芙美子は文壇の中でも特異な立ち位置だったでしょう。

女中も雇わず専業主婦として家のことをこなし続ける侘しさ、壺を高額で売りつけないことには生活が立ち行かないというみじめさ、貧しい暮らしも経験してきた林芙美子だからこそ、そうした生活者としての女性を生々しく描くことができたのではないでしょうか。

解説でも取り上げたように、映画『めし』では男と添い遂げることを「女の幸福」とするモノローグがありました。

1951年当時、これはロマンティックで心温まるラストだったのでしょう。

実際、映画『めし』は数々の賞を受賞し、名作として語り継がれています。

しかし、女としての苦しみや惨めさを散々に味わい、這い上がってきた林芙美子には、一読者としてつい別角度のラストを求めずにはいられません。

70年以上も前の作品に令和と変わらない女性の抵抗を見出すことは、時代の進歩のなさに悲しさを抱きつつも、心強い同志を得た気分にもさせられました。

現代の私たちは、三千代や里子の迷いをいまだ受け継いでいるのかもしれません。

(※)一般財団法人 女性労働協会「第4期 戦後の改革と女性たち<1945 年 - 1955 年>」

以上、『めし』のあらすじ、考察と感想でした。

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キノウコヨミ

早稲田大学 文化構想学部 文芸・ジャーナリズム専攻 卒業。 主に近現代の純文学・現代詩が好きです。好きな作家は、太宰治・岡本かの子・中原中也・吉本ばなな・山田詠美・伊藤比呂美・川上未映子・金原ひとみ・宇佐美りんなど。 読者の方に、何か1つでも驚きや発見を与えられるような記事を提供していきたいと思います。