『眉かくしの霊』の紹介
『眉かくしの霊』は、大正13年(1924年)5月に雑誌『苦楽』で発表された泉鏡花の短編小説です。
大正時代に流行した「分身」や「自己像幻視(ドッペルゲンガー)」をテーマにした小説のひとつで、鏡花の幻想文学の代表作となりました。
同様のテーマで書かれた小説には、佐藤春夫『田園の憂鬱』(1919年)、梶井基次郎『Kの昇天──或はKの溺死』(1926年)などがあります。
ここでは、そんな『眉かくしの霊』のあらすじ・解説・感想をまとめました。
『眉かくしの霊』─あらすじ
作者は、この物語を友人の堺賛吉から聞いたとしています。
境は、奈良井宿の温泉宿に気まぐれの逗留を決めました。
宿で上客としてもてなされた境は、いつも開いている三つの水栓や誰も入っていないはずの温泉にいる女性の姿など、奇怪な現象を体験します。
境の話し相手に訪れた料理番の伊作は、前の年、お艶という柳橋芸者がこの部屋に泊まっていたと話します。
「代官婆」と嫁が住む「大蒜屋敷」に泊まった東京の画師が嫁と姦通したと責められたため、画師の妻から依頼を受けたお艶が助けに来たのです。
お艶は、自分ほど美しい女ですら愛人なのだから画師の妻はもっとすばらしい女性であり、その人を裏切ってまで、こんな田舎の女と姦通はしない、と主張するつもりでした。
「桔梗ヶ池」に棲む「奥様」と呼ばれる魔物の凄まじい美しさを知ったお艶は「奥様」のように眉を落とし、お歯黒をして伊作の案内で大蒜屋敷に向かいました。
その途中で魔物と間違われて射殺されます。
話を終えた伊作と境の前に、その夜の伊作とお艶の道行き姿が現れ、座敷は桔梗ヶ池の雪のように白く染まるのでした。
『眉かくしの霊』─概要
主人公 | 堺賛吉 |
重要人物 | 伊作、お艶(柳橋芸妓・簑吉) |
主な舞台 | 木曽街道・奈良井宿 |
時代背景 | 大正末期(発表時)、霜月半ば |
作者 | 泉鏡花 |
『眉かくしの霊』─解説(考察)
鶫を食べる芸妓の話から始まる怪異の物語
『眉かくしの霊』は、いくつもの怪異が集まって結末の大きな怪異へと繋がっていく物語です。
きっかけになったのは、境が芸妓から聞いた体験談でしたが、これは「怪異」というよりは「怖い話」程度のものでした。
客と一緒に冬山に鶫網を掛けに行った芸妓が、捕まえたばかりの鶫を「焚火で附焼にして、膏の熱い処を、ちゅッと吸って食べ」、口が血だらけになったのを見て案内の猟師が驚いたという話です。
百戦錬磨の猟師でも悲鳴を上げた、その状況は「暗い裾に焚火を搦めて、すっくりと立上ったと言う、自然、目の下の峰よりも高い処で、霧の中から綺麗な首が」口もとを血だらけにしていたと語られました。
境はおいしい鶫料理を振る舞ってもらった際に、ちょっとした話題として芸妓の話を出したのですが、これが料理番の伊作の話を引き出す事になりました。
ぱっと読んだだけでは酒の席での与太話という感触が強いエピソードですが、「然う云うのが、魔のさした猟師に、狙撃に二つ弾丸を食うんです」と、すでにラストシーンを示唆する伏線があります。
怪異の重なりが綿密に編まれている証拠ともいえる表現です。
止まらない水栓の音、湯殿にいるはずがない女性は現実の出来事なのか?
宿に滞在している間に、境はいくつかの怪異を体験します。
何度しめても、いつの間にか開かれている三つの水栓、空いていると言われた湯殿に女性がいる、といった出来事です。
境は現実主義者として描かれており、これらの出来事に遭っても「怪異」だとは思いません。
何度水栓をしめても誰かが開けていると思いますし、空いているはずの湯殿で二度も女性を見かけていながら「女中の思い違い」だと考えます。
同じ出来事でも、人によって「現実の出来事」にも「怪異」にもなり得るのです。
実際に境は、三つの水栓や湯殿の女性のことを温泉宿ならよくある話、くらいに受け止めていて、さらに大きな怪異に引きずり込まれようとしていることに全く気づいていません。
現実主義の読者は「それがどうした」という思いで、怪異を信じる読者は「何の前触れだろう」という不安と期待で、それぞれ物語を読み進め、もろともにラストシーンへと連れ込まれます。
鏡花の表現力のたまものです。
満を持して現れる「眉かくしの霊」
始めのうちは、自分の見聞きしたことを誰かの思い違い程度に考えていた境ですが、次第に「これは現実の出来事ではないのでは」と思うようになります。
いきなり消える電灯、誰も使っていないと言われた湯殿にいる女性、立ち去る伊作のかたわらにふわふわと浮く提灯、そして、ついには美しい女性が居室に現れました。
──気の籠った優しい眉の両方を、懐紙でひたと隠して、大な瞳で熟と視て、
「……似合いますか。」
と、莞爾した歯が黒い。
このように描写された女性は、無論この世の存在ではなく、彼女の口にくわえられた境の「手足はいつか、尾鰭に成り、我はぴちぴちと跳ねて」魚の姿にされたうえ、「水の音がして、もんどり打って池の中へ落ちると、同時に炬燵でハッと我に返った」という目に遭います。
そして、青息吐息となった境のところへ伊作がやって来て、前年にこの部屋に泊まったお艶という芸妓の話を始めるのです。
伊作が、どういう経緯で話を始めたかという描写はありませんが、ただならぬ顔色になっていたであろう境の様子から事情を察して、自分から話し出したのではないでしょうか。
伊作自身、誰かに聞いてほしかったというのもあるでしょう。
つい今しがたの経験のせいで、境は伊作の話──自分がいつの間にか取り込まれていた怪異の次第を、すんなりと受け入れることになります。
現実主義者である境が、怪異の話を素直に聞くまでになる事象の積み重ねは非常に丹念です。
三つの水栓と湯殿の女性、電灯が消えるといった描写を何度も繰り返すことで、境は怪異を認めるようになっていきます。
この過程をねっとりと描写することによって、鏡花は現実主義の読者をも怪異の中へと取り込んでいくのです。
伊作はお艶の死の遠因を作ったことに怯えていた
ラストシーンで、境と伊作は、射殺された夜のお艶と伊作の姿を見ます。
「……あ、あ、ああ、旦那、向うから、私が来ます、私とおなじ男が参ります。や、並んで、お艶様が」と取り乱す伊作を、境は「怨まれるわけはない」と力づけました。
伊作は何故このように取り乱したのでしょうか。
お艶が射殺されたのは、桔梗ヶ池の「奥様」と間違われたためです。
「奥様」の凄いほどの美しさをお艶に教えたのは伊作でした。
美しい愛人と妻を持つ画師が姦通するわけはないと説得しに来た以上、お艶はこの土地の誰よりも美しくなければなりませんでした。
「奥様」が眉を落としていたと聞いたお艶は、人妻らしくお歯黒をし、眉を剃って「奥様」を模倣します。
その結果、お艶は射殺され、伊作は「奥様」について話してしまった自分のことを、ずっと責めていました。
そんな伊作にとって、三つの水栓から流れる水は、死に際にお艶の口から流れた「三条に分かれた血」であり、しばしば消える電灯は、あの夜お艶を案内したときに不注意で消してしまった提灯に他ならなかったのです。
境の話を毎日のように聞くうちに、伊作はどんどん追い詰められていたに違いありません。
そのため、目の前に現れたあの夜のお艶のそばに自分を見てしまったのです。
射殺されたお艶が自分を道連れにすると思ったのでしょう。
伊作の自責の念は、連れて行かれる「自己像を幻視」する=ドッペルゲンガーを目のあたりにするほど強いものでした。
境にもその恐怖は伝播しました。
「怨まれるわけはない」という言葉は、伊作を力づけるのと同時に境自身を安心させるためのものでもあったのです、
「似合いますか」と問いかけるお艶の真意は「確認」にあった
お艶のこの問いは、何度も繰り返されます。
最初に「奥様」を模倣したとき、境の居室に現れたとき、そして、ラストシーンの登場はこの問いかけの為でもありました。
お艶は答えを求めていたわけではありません。
「似合いますか」は確認の言葉に過ぎず、肯定の回答を欲してのものではないのです。
「奥様」と間違われて射殺されたことで、お艶は自分がこの世ならぬ存在と同様に美しくなったことを知りました。
画師の姦通疑惑を晴らす前に銃弾に倒れたお艶は、死後になお自分の美しさを確認しなければなりませんでした。
伊作を連れて現れたのも、彼を責めるためではなく、画師を救いに行く時の状況を再現したかったからでしょう。
鏡花は、木曽の田舎では見ることのできない、東京住まいの芸妓ならではの矜恃を「似合いますか」と表現することで、ラストシーンの怪異に凄みを持たせたのです。
『眉かくしの霊』─感想
妻と妾の間に互いへのリスペクトがあった時代
私は昭和生まれですが、この話で語られる妻と妾の関係には驚かされました。
夫が姦通(浮気)をしなかったことを証明するには、夫が田舎者を相手にするはずがないということを知らしめれば良い。
それには自分よりも妾(愛人)のあなたのほうが適役だからと、姦通相手のところへ行ってくれと妾に頼む妻、二つ返事でそれを引き受ける妾。
この関係は、令和の時代ではちょっと考えられないものだと思います。
妾であるお艶には、柳橋芸妓・簑吉としての立場とプライドがあり、画師の正妻にも負けない美貌や女性的な魅力を持っていると自負していたことでしょう。
それでも、お艶は正妻を立てて「こんなに美しい自分でも妾に過ぎないのだから、正妻である奥様はもっと綺麗な方ですよ。だから、そちらのような田舎の人と浮気などあり得ません」と伝えに行ったのです。
それが妾である自分の役どころと心得てもいたのでしょう。
正妻のほうも、けっしてお艶を自分より下の者とは見ておらず、「貴女ほどお美しければ、「こんな女房がついて居ます。何の夫が、木曾街道の女なんぞに」と言って遣る」と、あくまでもお艶の美貌頼りだと明言しました。
ふらふらと姦通騒ぎなど起こす画師の妻と妾にしておくには勿体ないほどの女衆だと思います。
もっとも、この作品の時代背景(大正時代)を考えれば、彼女たちがこういう行動をするのは、日本人女性として当たり前のことなのでしょう。
鏡花もまた、ごく自然に二人の描写をしたのだと思います。
お艶も本当は「正妻」になりたかった
鏡花は、お艶をただの「美しい芸者」で終わらせはしませんでした。
奈良井宿に着いたお艶は、「念のために土地の女の風俗を見ようと」あたりを歩き、桔梗ヶ池の「奥様」という美貌の存在を知りました。
「自分の容色が見劣りがする段には、美しさで勝つ事は出来ない、という覚悟」をしたお艶は、「奥様」の容貌について詳しく聞き、模倣しました。
土地で美しいと評判の「奥様」よりも美しくあろうという気持ちはもちろんですが、「奥様」と呼ばれる存在に対する意地もあったのではないでしょうか。
先にも書きましたが、お艶は妾という立場を自覚しており、あくまでも画師の正妻の代理として奈良井宿に赴きました。
しかし、正妻よりも美しいという自信は持っていたでしょうし、実際、売れっ子の柳橋芸妓であれば、素人の女性より美しくても不思議はありません。
それでも「奥様」という立場ではないため、お歯黒をしたり眉を剃ったりということはできませんでした。
(江戸時代からの町民文化として、結婚した女性はお歯黒をする、子を産んだ女性は眉を剃る、という風習がありました)
桔梗ヶ池の「奥様」を模倣して歯を染め、眉を剃ることは、お艶にとって姿形だけでも「正妻」になるための儀式だったのです。
それでも「奥様」としての自信がなかったのか、初めて眉を剃った時は剃り跡を懐紙で隠した顔を伊作に見せて「似合いますか」と尋ねました。
伊作に「奥様」よりも美しいと太鼓判を捺されたお艶は、嬉しかったことでしょう。
眉を落とし、歯を染めた姿が美しいのならば、大蒜屋敷に乗り込んで「画師の妻です」と名乗っても構わないという自信を持てたに違いありません。
その時の嬉しさと自信とを何度も確かめたいがゆえに、お艶は眉を懐紙で隠した姿で現れて「似合いますか」と問いかけるのだろうと思いました。
以上、『眉かくしの霊』のあらすじ、考察、感想でした。