泉鏡花『活人形』泉鏡花の二作目!読者を惹きつける探偵小説

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泉鏡花『活人形』泉鏡花の二作目!読者を惹きつける探偵小説

『活人形』の紹介

『活人形』は、明治26年(1893年)に春陽堂から発行された泉鏡花の中短編小説です。

鏡花の2作目の商業作品であり、ジャンルは「推理小説(探偵小説)」です。

日本最初の推理小説は、黒岩涙香の『無惨』(明治22年(1889年)発表)と言われており、こちらも探偵を主役とした「探偵小説」でした。

涙香はそれまでにも、海外の推理小説を翻案した作品を何作か発表しており、『活人形』は、それらの作品に触発されたものと考えることができます。

この記事では『活人形』のあらすじ、解説、感想を紹介します。

『活人形』─あらすじ

探偵・倉瀬泰介は、毒を飲まされて病院に駆け込んできた青年・本間次三郎から、美しい姉妹が災難に遭っているという話を聞きます。

鎌倉に住む赤城得三という男が、次三郎の婚約者である下枝、その妹・お藤の養父が死んだあとに後見人として家に入り込み、下枝を妻として赤城家の財産を我が物にしようとしているというのです。

次三郎が自分に助けを求めて東京まで来たと知った泰介は、鎌倉にある赤城邸に乗り込むため、邸近くの旅店・八橋楼に入り、亭主・得右衛門から邸についての話を聞きました。

その頃、得三と懇意にしている高利貸し・高田駄平が赤城邸を訪れ、得三に貸した千円のカタとして、お藤を自分のものにしようとしていました。

泰介は赤城邸に侵入し、幽閉されていたお藤を一度は救出するものの、得三のピストルで撃たれてしまいます。

死んだふりをして得三たちを欺いた泰介は、追ってきた得右衛門と協力して、下枝とお藤の姉妹を助け出しました。

お藤を奪われた得三は駄平と諍いになって殺してしまい、自殺して果てるのでした。

『活人形』─概要

主人公 倉瀬泰介(探偵)
重要人物 赤城得三、高田駄平、赤城下枝、得右衛門
主な舞台 東鎌倉・雪の下村
時代背景 明治中期(作品発表時)と推測されます
作者 泉鏡花

『活人形』─解説(考察)

『活人形』は、難しく考えて読む小説ではありません。

ストーリーそのものは、単純な「お家乗っ取り」のお話と言えます。

その単純なストーリーの中に、虐待される女性、昔は大名が住んでいた荒れ邸、等身大の人形、といった鏡花らしい要素が散りばめられているのです。

発売時、『探偵小説第十一集』と銘打たれていた作品ではありますが、推理小説の黎明期ともいえる時代の作品なので、現代のミステリ小説と同列に語ることはできません。

しかし、スピーディなストーリー展開や鏡花らしい情景描写から、エンターテイメント小説として充分に成り立っているのです。

探偵「倉瀬泰介」

物語は、探偵が事件の現場となる赤城邸の門前に立つ場面から始まります。

「当時屈指の探偵なり」という泰介は「色白く眼清しく、左の頬に三日月形の古創あり」と、いかにも名探偵らしい容姿を持っています。

彼が東京から鎌倉へ来たのは、東京の病院に駆け込んで倒れた若い男(本間次三郎)の話を聞いたからですが、病院の医師も知らせを聞いてやってきた警官も、誰もが泰介のことを知っており、事件解決のためならと、彼の言うことを無条件で聞き入れました。

「探偵」という職業が庶民の口の端に上るようになり、憧れの目で見られることもあった時代をよく表しています。

ちなみに、江戸川乱歩が生み出した、日本の推理小説を代表する名探偵の1人・明智小五郎は、大正14年(1925年)発表の『D坂の殺人事件』で初めて登場しました。

泰介は、その40年ちかく前に姿を見せているわけで、そのころの世間の「探偵観」がどのようなものであったかを体現しています。

一例として、得三の手下、八蔵のあとをつけ、彼が入った旅店の亭主に話しかける場面では、最初は訝しげだった亭主が「泰介の顔を凝視しが、頬の三日月を見て慇懃に会釈して、二階を教え、低声にて「三番室。」」と答えるなど、意味ありげな魅力にあふれたやり取りが描かれています。

このやり取りは「三番室。」という科白で段落が切られており、頭の中で画面が切り替わる印象を受けるため、鏡花が映像的な効果をも狙って書いていることが解ります。

また、腕が立つ強者であることも「探偵観」の重要なポイントです。

八蔵に急襲されて反撃する場面では、「御用だ。と大喝一声、怯む処を附け入って、拳の雷手練のあてに、八蔵は急所を撲たれ、蹈反りて、大地はどうと響きけり」と講談調でテンポ良く強者ぶりが描写されています。

悪役の本拠地である赤城邸に単身乗り込んでいく、死んだふりで敵を欺いて美人姉妹を救出するといった行動からも、勇敢さや機知に溢れた好漢であることが伝わり、「探偵観」の具現化である泰介の名探偵ぶりを裏打ちしているのです。

役回りは探偵助手「赤城下枝」

下枝と妹・お藤の姉妹は、母を亡くしたのち、赤城家に嫁いだ叔母に育てられました。

下枝は次三郎と結婚して赤城家を継ぐはずでしたが、義叔父の死後、赤城家の後見人を名乗った得三は叔母を毒殺、次三郎を追放して下枝を自分の妻にし、赤城家の財産を我が物にしようとしました。

もちろん、下枝はそれに逆らいましたが、邸の高楼の鉄壁で囲まれた部屋に幽閉され、お藤も別の部屋に閉じ込められました。

次三郎が追放されて3年が経ち、すべてに絶望した下枝は、額を鉄壁に打ち付けて自殺しようとしますが、「ひしと額を触れけるに、不思議や壁は縦五尺、横三尺ばかり、裂けたらむがごとく颯と開きて、身には微傷も負わざりけり」と、隠し通路を発見することになります。

この通路については後に触れるとして、ここからの下枝は、3年間も幽閉され、虐待されつづけてきたとは思えない活躍をします。

まず、泰介が宿を取った旅店・八橋楼へ逃げ込みますが、妹が高利貸し・高田駄平と結婚させられるのを阻止して助け出そうと、再び赤城邸へ取って返しました。

しかも、「多くの人に怪ませて、赤城家に目を附けさせなば、何かに便よかるべしと小指一節喰い切って、かの血の痕を赤城家の裏口まで印し置きて」という念の入れようです。

こうした行為は、のちに鏡花が描く様々な幻想小説の女性像に重なるものがあります。

鏡花の作品で、こうした立ち位置に置かれるのは、ほとんどが女性で、彼女たちは自らを痛めつけ、犠牲にすることによって道を開く(=ストーリーを進める)役割を負っているのです。

『活人形』では、下枝の残した血痕を追って赤城邸まで来た八橋楼の亭主・得右衛門が、最終的に泰介の救出劇をサポートするので、下枝も間接的に探偵助手という重要な役割を果たしています。

また、泰介が初めに赤城邸へ潜入した際、浴衣の裾を引き裂き、布に小指の血で「助けて」と書いて礫に包んで投げつけるといった機転が利く面もあり、これもストーリー展開のサポートとして作用しているのです。

探偵小説の舞台「赤城邸」

本格推理小説と呼ばれるジャンルの定番に「館もの」があります。

外界から遮断された大きな屋敷を舞台に事件が起きるもので、綾辻行人さん、島田荘司さんなど、多くの推理小説作家が魅力的な作品を世に送り出しています。

この小説の舞台である赤城邸は大名が住んでいた屋敷で、邸内には仕掛け扉や隠し通路が存在しており、謎の解決(=下枝の脱出など)に一役買っているので、「館もの」とも分類できるでしょう。

屋敷の仕掛けは、特定の場所を押すと扉が開いて隠し部屋や外部への間道に出られるという有りがちなものですが、仕掛けの場所がいかにも鏡花好みです。

お藤が閉じ込められていたのは三畳ほどの小部屋ですが、そこへ入るには等身大の人形の懐に入り込み、扉を押し開ける必要がありました。

下枝とお藤が「母様」と呼び、幼いころから親しんでいた等身大の人形です。

この人形から入れる隠し部屋と、下枝が閉じ込められていた鉄壁の部屋は間道で繋がっていました。

お藤が手籠めにされかけたとき、隠し部屋に辿り着いた下枝が「お待ち!」と叫び、人形が活きて叫んだかと思った悪党たちが硬直している間に泰介がお藤を助けて逃げ出すという場面は、隠し部屋の入り口である人形を充分に活かしたものといえるでしょう。

物語の要「活人形」

ほかの重要な場面でも、この人形の存在が活かされています。

等身大の人形の懐に隠し部屋への扉があるというのは、物理的に考えて少々無理がある話なのですが、人形が活きた使い方をされることで、細かい無理はどうでもよくなる説得力が出るのです。

得三は下枝をいたぶるために人形の脇の柱に立ち姿で括りつけていますが、これは得三の嗜虐趣味を強調するとともに、泰介が下枝と人形を入れ替えてごまかすための伏線にもなっています。

泰介は、得右衛門を使って得三を部屋からおびき出し、その間に下枝と人形とを入れ替えたのです。

そのため、得三の兇刃は下枝ではなく、人形を刺すことになり、彼女の身は守られました。

まさに、姉妹が「母様」と呼んでいた人形ならではの役どころです。

ラストシーンでは、この小部屋で得三が自殺しており、「人形の瞳は玲瓏と人を射て、右眼、得三の死体を見て瞑するがごとく、左眼泰介を捉えて謝するがごとし」と描写されています。

人形を「活人形」とし、姉妹の「母様」として讃える鏡花の視線ならではの描写だと言えるでしょう。

『活人形』─感想

読者ウケを考えた泉鏡花

『活人形』は、鏡花にとって『冠弥左衛門』に次ぐ、作家として2作目の小説です。

『冠弥左衛門』に対する世間の評価はあまり良いものとは言えず、師匠である尾崎紅葉の助けがなければ、未完のままで終わっていたかもしれません。

作家として立つことを考えた鏡花が、デビュー作の評価をかえりみて「ウケる作品」を書こうと思い立っただろうことは容易に想像できます。

『活人形』の次は少年小説である『金時計』を発表していますし、一般ウケする解りやすい作品を書こうと試行錯誤していた時期なのではないでしょうか。

実際、『活人形』では「探偵」を主人公にすることで読者の興味を引き、お家乗っ取りを企む悪人や薄幸の美人姉妹を登場させ、「妖物屋敷」と噂される古い邸を舞台にし……と、あの手この手でウケを取りに行っている感じがします。

鏡花のすごいところは、それらがスベることなく、読者を惹きつける要素としてきちんと作用している点です。

先にも書いた泰介の聞き込みの様子などにある、映像的な効果を意識して狙った描写が頻繁にあるのも、その作用を起こすためでしょう。

ことに終盤の山場、得右衛門が陽動で得三をおびき出す場面では、遠く近く「アカギサン、トクゾウサン」「あかァぎさん、とくぞうさん」「赤城様、得三様」「赤、赤、赤、赤」「赤得、赤得」と言葉を変えつつ呼ばわる様子をしつこく描写して、読者の脳内に得三が追い詰められていく映像を浮かび上がらせていいます。

これは、のちの幻想小説における映像描写のはしりとも言えます。

鏡花は、文章から映像や音声を浮かび上がらせる才能の持ち主であり、ごく初期の作品からその才能を発揮させていたのです。

鏡花は「短銃」をどこまで知っていた?

得三は悪党らしく「短銃」を持っています。

泰介が最初に潜入してお藤を助けて逃げようとしたとき、高楼の上から三発撃って当てているので、そこそこの名手とも言えます。

『活人形』が発表された明治26年、大日本帝国陸軍は制式銃として独自開発した二十六年式拳銃を採用しました。

ベルギーで開発された「ナガンM1895」という回転式拳銃をモデルにした銃なので、鏡花の短銃の知識も、この「ナガンM1895」が基本なのではないかと思います。

さて、得右衛門の陽動作戦に踊らされた得三は、有力な武器である短銃を、とんでもない方法で使用します。

「短銃を発射間も焦燥しく、手に取って投附くれば」

撃つ間も惜しんで投げ附けるって、絶対に撃ったほうが速いと思うのですが、それだけ得三が焦っていたということなのでしょう。

しかし、簡単に投げられるものかどうか。

「ナガンM1895」は重量が750gあります。

腰から抜いた750gの物体をいきなり投げるというのは、かなりの無理がある行為だと思うのです。

しかも、投げ附けられた得右衛門が「ひらりとはずして」いることから、かなり正確に飛んでいっていることがわかります。

これはあまりにも現実味のない描写ではないでしょうか。

おそらくですが、鏡花は実際に短銃を手にしたことがなかったのだと思います。

たしかに、警官や軍人ででもなければ、短銃を持つ機会など無いでしょうが、軽々と投げられるものかどうかを確かめなかったのか、という疑問が出てきます。

そうした些末な事実には興味がなかったのか、ストーリー展開のために敢えて無視したのか、どちらなのかはわかりませんが、現代の推理小説でこれをやったら酷評されるのではないだろうかと思ってしまいました。

余談ですが……「拳銃は最後の武器だ」という名科白があります。

『忍者部隊月光』という特撮番組(昭和39~41年放映)の中で、忍者部隊の隊長が拳銃を発射した隊員に向かって言った科白です。

仲間を助けるため、正式な武器として装備していた拳銃を使っただけなのに、「バカ!撃つやつがあるか。拳銃は最後の武器だ。我々は忍者部隊だ!」と叱責されるのですから、忍者とは大変な職業だと思わざるを得ません。

この科白の真意として、一部の特撮ファンの間では「手裏剣が無くなったら銃を撃つ、弾丸が無くなったら、鈍器として使うんだろう」「いや、最後の武器として投げるんじゃないか」などと言われていました。

そのため、初めて『活人形』を読んだとき、明治~大正期の作家である鏡花が昭和の忍者部隊の先を行っていたのか、と馬鹿げた感想を抱いた記憶があります。

転じて、最初に「投げる」と言った特撮ファンは鏡花を読んでいたのかもしれないなどと考え始めてしまい、それからしばらくは、古い推理小説(探偵小説)のうちでも拳銃が出てくる作品を探したりしたものです。

そのおかげで知った作家や作品があることを思うと、読書の幅とは何がきっかけで広がるかわからないものだなと感慨深く思われます。

以上、『活人形』のあらすじ、考察、感想でした。

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みやこ

月に10冊ほどのペースで、かれこれ半世紀以上さまざまな本を読んできました。どんなジャンル、作家の本であっても、食わず嫌いはせずに一度は読んでみるようにしています。還暦を目の前にした今でも、日ごと新しい面白い本に出会えるのを楽しみに過ごせることがありがたいです。好きな作家は、福永武彦、吉川英治、池波正太郎、清水義範、宇佐見りん。「自分が読みたい文章を書く」ことを念頭に記事を執筆しています。