『蟹工船』の紹介
『蟹工船』は、1929(昭和4)年、全日本無産者芸術連盟(ナップ)の機関誌『戦旗』5・6月号に発表された小林多喜二の代表作です。
本作は、当時、プロレタリア文学界、労働活動家のみならず、「1929年度上半期の最大傑作」(読売新聞)と一般の文壇からも高い評価を得ました。
また、2008(平成20)年に起きた『蟹工船』ブームにより、再評価された作品です。
ここでは、『蟹工船』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『蟹工船』――あらすじ
オホーツク海で蟹を捕獲し、缶詰を製造する「蟹工船」では、労働者は過酷な仕事を強いられていました。
蟹工船は、工場の船であって、「航船」ではないので、船の整備など守らなくてはいけない航海法の管轄外にあります。
また、長期間、海上にいるので、船でトラブルがあっても情報が本国に伝わりません。
こうした劣悪な環境の下で、さらに彼らへの重圧に拍車をかけたのが、労働監督浅川の存在でした。
国と会社の権力を傘に、浅川は労働者に虐待を加えていたのです。
物語の終盤、仲間の度重なる死を経験した労働者は、ストライキを決行します。
しかし、それは一瞬の勝利を得ただけで、即座に軍隊から鎮圧されてしまいました。騒動の首謀者とされた九人は、駆逐艦に護送されていきます。
残された労働者達は、以前にも増して過酷になった浅川の弾圧に耐えつつ、力を合わせて、もう一度闘うことを誓うのでした。
『蟹工船』――概要
主人公 | 労働者 |
重要人物 | 浅川、船長 |
舞台 | 蟹工船 |
時代背景 | 1929年ごろ(作品発表と同時期) |
作者 | 小林多喜二 |
『蟹工船』――解説
『蟹工船』は、プロレタリア文学の代表作としても名高い作品です。
1933(昭和8)年2月、著者である小林多喜二は、警視庁特別高等警察(特高)の拷問を受け死亡し、虐待された様子がわかる死体が、写真として公にされました。
彼の名は、労働運動の犠牲者の一人として、深く私達の心に刻まれています。
また、特筆すべきなのは、2008(平成20)年に起きた『蟹工船』ブームです。
同年1月の毎日新聞紙上で、若者の労働問題に関心が高かった、雨宮処凛と高橋源一郎の対談が掲載され、そこで、雨宮が『蟹工船』の世界と当時の日本の労働環境が似ていることを指摘しました。
この対談に注目した、1979(昭和54)年生まれの書店員長谷川仁美が、共感を得た世代として、「ワーキング・プア? ちょっと待って、この現状、もしや……『蟹工船』じゃないか?」とPOPを打ち、新潮文庫版を150部仕入れて完売に成功。この話題性もあって、各種メディアが『蟹工船』が持つ現代へのメッセージをテーマに取り上げ、「蟹工船ブーム」が全国化したのでした。
このように、『蟹工船』は、後世でも政治的、社会的なテーマとして、再読に足り得る作品です。
一方で、本作のジャンルであるプロレタリア文学は、それらに与えられる「芸術性に欠ける」という批判から逃れることは出来ません。
多喜二が師事していた志賀直哉は『蟹工船』に高評価を下しながらも、プロレタリア文学がもつ「主人持ちの文学」の限界を指摘しました。
「主人持ち」とはどういう意味でしょうか。いくつか考察があるのですが、「政治イデオロギー(多喜二の場合、共産党)が前提にある」文学というとわかりやすいかもしれません。
もう少し、読者目線で解釈すると、「小説に政治性が入ると、読みにくくなって、話が窮屈になる、息苦しくなる」ともいえます。政治的メッセージを、そのまま文章化しても、あまり興味を持って読む人はそれほどいません。プロレタリア文学は、ともすれば、政治的メッセージの代弁者となってしまい、文学への興味がそがれてしまう、そのリスクを常に背負っているのです。
確かに、文学における芸術性において、政治的メッセージをもつ『蟹工船』に弱点があることを指摘する人は多く、多喜二本人が、編集者にあてた手紙で、その欠点を認めています。
ただ、批判の多くは、起伏のないプロット運びであったり、固有名詞をなくし登場人物の個性をなくし集団化してしまった無機質な手法であったりと、指摘が概説レベルにとどまっている嫌いがあります。
ここでは、本当に『蟹工船』は、芸術性を欠いているのか、欠いているとすればどこが問題なのか、テクストを個々に分析してから、全体の構造を解説していきます。
さらに、感想で、『蟹工船』における、政治と芸術の関係について整理し、なぜ、『蟹工船』が80年経って、新たに多くの読者を得たのかを、令和の今から再考し、「世代を超えた、『蟹工船』の芸術性をもつ魂の力」について論じていきます。
弱者への「虐待」と「死」を告発する―文学が成立する「悲劇」
『蟹工船』は、弱者への虐待と死が一貫して語られた物語です。昭和初期の蟹工船の労働者が犠牲になる話なのですが、江戸時代の農民でも、極端なことをいえば、西洋の庶民でもその対象を変換することが出来ます。
この弱者への虐待と死は、文学における大きなテーマの一つです。
まず、物語の初めに仕事が嫌になって隠れていた雑役夫が見つかり、労働監督の浅川に仕打ちを受けます。
本作では、多喜二が「個人」ではなく「集団」として、労働者を描くという試みをしているので、個性を表す「名前」がほとんどの登場人物に与えられていません。
しかし、例外的に彼は「宮口」と名がついています。
「(前略)便所紙の箱に頭を入れ、うつぶせに倒れていた宮口が、出されてきた。唇の色が青インキをつけたように、ハッキリ死んでいた。」
小林多喜二『蟹工船・党生活者』, 新潮文庫, 1953, pp39
宮口は、罰として、意識がなくなるまで、便所に閉じ込められていたのでした。
その彼に、浅川は追い打ちをかけます。
「昨夜(ゆうべ)出されたきりで、もの(、、傍点)も云(い)えない宮口を今朝からどうしても働かさなけアならないって、さっき足で蹴(け)っているんだよ。」
小林多喜二, 前掲書, pp39
浅川は、別の労働者で体調を崩した者に容赦ありません。
その労働者は、意識がないまま晒しものにされます。
「次の朝、雑夫が工場から下りて行くと、旋盤の鉄柱に前の日の学生が縛りつけられているのを見た。首をひねられた鶏のように、首をガクリ胸に落し込んで、背筋の先端に大きな関節を一つポコンと露(あら)わに見せていた。そして子供の前掛けのように、胸に、それが明らかに監督の筆致で、
「此者(このもの)ハ不忠ナル偽病者ニツキ、麻縄ヲ解クコトヲ禁ズ。」
と書いたボール紙を吊していた。」
小林多喜二, 前掲書, pp78
その他にも、船内の話とは別に、北海道で逃げようとした土工が、仲間の前で、見せしめのため土佐犬にかみ殺されたり、土工達は脚気で仕事が出来なくなれば生きたまま、港の工事現場に埋め立てられたりというエピソードが挿入されています。
やがて、労働者が体制に反抗するきっかけになるのですが、27歳の脚気になった漁夫が亡くなります。彼の死体はやせ衰え、臭気を放っていました。名を、本作の例外で「山田」と与えられています。
浅川は、仲間が死んだ山田を弔うのに、お湯を使って体を洗うことを許さず、海に流すために死体を包む麻袋も新品があるのに古いものしか使わせず、船長の弔詞を読む時間さえ与えませんでした。そして、乗務員の不満は、憤りへと変化するのです。
この傲慢な浅川の態度から、彼らは、第一の抵抗「サボタージュ」へ向けて足並みを揃えたのでした。
弱者が虐待され、その死が描かれること――「悲劇」は文学における大事な要素です。
もちろん、文学において、そういった表現には、様々な技巧を加えることがあります。この技巧の個性が、作家の「持ち味」として読者に判断されるのです。
さらに、芸術は美を映し出す鏡でありますが、それは人間性の奥底を照らすことでもあります。文学で描かれる人の虐待や死という「悲劇」は、そこにあった人間の灯が消えることを意味します。
そして、残された者が、その失われた灯を悲しみ、皆が根底から共感する――これが、人間の美となり「芸術」となるのです。
多喜二は、一見生々しい「身体」と「臭い」に拘り、その死を描写することで、彼の「文学的リアリズム」として、人間の「悲しみ」を打ち出しています。
『蟹工船』にはモデルがあります。実際にあった北洋漁業の博愛丸事件を題材に、多喜二は取材を重ねています。作品上の船の名前が「博光丸」であることからも明らかです。
本作が現実に起こった「悲劇」であり、しかもそのことが文学作品において、悲しみの芸術を作り上げたということが出来るのです。
社会悪を政治用語で追及する―プロレタリア文学が陥る硬直化
本作が政治色を増すのは、この虐げられた労働者が対すべき相手の描き方にあります。
これは、物語上、浅川監督が、常に労働者に浴びせる怒号に集約されていました。
「日本帝国の大きな使命のために、俺達は命を的に、北海の荒波をつっ切って行くのだということを知ってゝ貰わにゃならない。」
小林多喜二, 前掲書, pp20-21
「いやしくも仕事が国家的である以上、戦争と同じ(、、、、、傍点)なんだ。死ぬ覚悟で働け! 馬鹿(ばか)野郎!」
小林多喜二, 前掲書, pp76
多喜二が、主張していたことの一つに「侵略戦争の反対」がありました。軍事拡大路線に走っていた、当時の日本に対抗していたのです。
『蟹工船』にも、このテーマがテクストに流れています。
しかし、使われる用語が限定されることで、表現の自由さが失われ、とたんに文学の世界が窮屈になるのです。
プロレタリア文学においては、絶対的に取り上げなくてはならず、脚色を許さない概念があります。それが「国家」「資本家」「権威」という社会悪であり、それに対すべき「労働者」がいて、「連帯」しつつ、手段として「サボタージュ」や「ストライキ」を用いて悪を正す、ことです。
例えとしては、同列にするのは安易かもしれませんが、時代劇のおける、「悪徳代官・商人」がいて、「庶民」が虐げられ犠牲となるも、それに憤った「正義の味方」が、多くは武力「成敗」するという、その様式美に近いものがあります。
悪を倒すのに、自力であるか、他力であるか、武力行使をしないのか、するのかという違いはありますが、この二つの構造は似通っています。
独自性を常に求める文学(芸術)は物語の定型化を嫌いますが、特に「国家・資本家VS労働者」というように概念を、ひねりもなく類型化し、固定化してしまうことは、個人の自由を謳う「文学の死」を意味します。
多喜二は、労働者が「如何に」惨めであるかではなく、「如何にして」惨めなのかに着眼していました。それは、労働者を内向きにさせず、外に目を向けさせて「敵」をわからせる、おかれた立場を客観視させる、ことを意味していました。
この啓蒙が、多喜二の創作活動の源だったのです。
『蟹工船』で労働者個人の性格設定を捨てて、集団化として捉えたのも、そうすることで、個人的な理由に流されることなく、彼らが「如何にして」惨めなのかを、政治的な概念として明確に出来ると考えたからでしょう。
しかし、それは、単なる政治的メッセージへ限りなく近づいてしまうのです。
『蟹工船』が文学性の観点から批判を浴びているのは、これが理由です。
後半から話の流れが典型的な労働運動となり、結局、結末がわかっている小説の名を借りた「共産党御用達の政治的メッセージ」と見られてしまう可能性を強めてしまったのです。
多喜二の葛藤が、テクストに刺激的な矛盾を生む――彷徨する『蟹工船』
本作が救われているのは、最初に指摘したとおり、労働者への「虐待」と「死」が、丹念な取材と多喜二本人の思いによって、「悲劇」としてテクストに宿っているからです。
多喜二は、「如何に」ではなく、「如何にして」惨めなことを伝えたかったので、物語の細部のリアリティにはこだわっていませんでしたが、労働者の悲惨さを描くタッチは、その自らの構想を良い意味で裏切っていたのです。
さらに、一方で、本作には、性欲に苦しみ、浅川の計略にはまって仲間の足をひっぱり、目先の生きる欲望に飢えている労働者の負の一面も隠さずに書かれています。
これにより、「如何に」労働者が惨めなのかは、本作から十二分に読者へ伝わりました。
しかし、政治的(共産党的)な使命を帯びた多喜二は、「ストライキ」に至る彼らの足並みを駆け足できれいに揃える必要がありました。現実をみれば、労働者も立ち位置によって、熱量が変わってくるはずですし、計画に裏切りがでることは十二分に考えられます。
本作では、「船長」という、管理側(労働監督浅川)と労働者の間にいる人物を設計していますが、物語を通じて終始管理寄りにおり、彼の葛藤が見られず、その立ち位置が生かされていません。
もし、労働者個人の造形に拘っていれば、話の展開の中で、労働争議における足並みはもっと乱れたはずです。ここの掘り下げがないため、終盤の「連帯」に向けて、ご都合主義的な展開が漂ってしまいます。これが、本作の構造的欠陥です。
せっかく蓄えた本作の「悲劇」の芸術性が、詰めで失速し、政治的イデオロギーに則った筋書きに負けてしまう結果を生んでしまったわけです。
それでも、多喜二も、作家としての理性がありました。これでストライキを成功させるという、安易なハッピーエンドを選ぶわけにいきませんでした。まずは国家権力の介入により失敗に終わらし、最後は、あくまで、残った労働者の希望的な意志に託すという着地にしたのです。
本作は、物語上、これで終わって良いはずでした。しかし、多喜二は、更に「附記」を追加します。ここに本作は、記録として、「残った労働者のサボタージュが成功したこと」「博光丸以外でも労働運動が起きていたこと」「浅川が失脚したこと」「闘争の思想が日本で広がったこと」が残されたのです。
結末を曖昧にして、読者の想像に任せることとする、文学の芸術的な味わいという観点からすると、これは完全なる「蛇足」です。もちろん、多喜二にも、わかっていたはずです。
彼のこの行為は、次のように考えるとよいでしょう。
『蟹工船』に限らずプロレタリア文学は、「知識人への共感」と、「労働者への啓蒙」を目的としています。労働者の現状が「如何に」悲惨なのかを伝える、これは前者にあたり、掘り下げると文学性(芸術性)を増すことになります。労働者は「如何にして」悲惨な現状から立ち上がらなくてはいけないのかを指導する、これは後者で、説明を加えていけばいくほど、政治的メッセージ色が強くなります。
多喜二は、この二つを両立させるために葛藤していたのでした。
多喜二本人は、純粋に芸術にも傾倒している人間です。プーシキン、バルザック、ディケンズ、チェーホフなどを愛読し、政治的な立場は異なる志賀直哉に師事していたのです。
附記を加えたのは、芸術性を失う行為であることは十分わかりつつ、政治を優先させた結果でした。
このように、テクストをテーマによって細分化してから、構造を分析すると、『蟹工船』は、労働者に向き合った「文学としての芸術性」をもつと共に、プロレタリア文学に宿命づけられた政治的メッセージが込められた面が色濃く残った作品です。
附記のように、多喜二の葛藤の痕跡もあることから、両者の融合が成しえていない発展途上、未完成の小説だったといえます。
ただし、現代の私達からすると、着地出来ずに彷徨っている『蟹工船』のアンバランスさが、刺激的な読解へと進めてくれ、「蟹工船」ブームを起こしたことに注目したいのです。
次の感想で、文学における政治と芸術との関係をテーマに、現代から本作を読み解く楽しみについて話を深めていきます。
『蟹工船』――感想
今回のテーマ、文学における「政治と芸術」の問題ですが、令和の現代からすると、なぜ、当時、彼らがこれほど拘っていたのか不思議に思う人もいるでしょう。
これに答えるには、小林多喜二が活躍した時代背景について触れなければなりません。
『蟹工船』が発表された雑誌『戦旗』を創刊した、全日本無産者芸術連盟(ナップ)は、「政治が全ての活動において優位性を保つ」と主張していました。
例えば、芸術にしても、文学にしても、政治活動の中でこそ、為しうる文化活動であり、逆に言えば、彼らからすると、政治的なテーマのない文学は、ブルジョワ的な、破棄すべきものであったのです。
ナップは、作家のみならず、演劇、映画、美術、音楽などの左翼的な文化活動の団体を統括していたので、この主張は非常に力を持っていました。
本来は多喜二もこの考えを支持する立場にいたのです。
しかし、彼が、芸術を軽んじていたということはありません。そうであれば、志賀直哉との交流もありえなかったし、プロレタリア文学派と対抗する立場にいるとされていた、新感覚派の川端康成が多喜二の『蟹工船』に好意を寄せるメッセージを送っていることもおかしなことになってしまいます。
解説で分析したように、『蟹工船』は人の「悲劇」を捉えた芸術性のある文学であると同時に、政治性を伴ったプロレタリア文学です。多喜二も当然、その両面性をもっていました。
そして、この特徴があったからこそ、2008(平成30)年の「蟹工船」ブームがおこり、本作を「読み直す」運動につながったのです。
「蟹工船」ブームの若い世代が『蟹工船』を再構築
「蟹工船」ブームは、読者論としても興味深い現象でした。ネットカフェ難民、非正規雇用者など、定職につけずに待機労働者として生きている若い世代が、共鳴し、『蟹工船』ブームを支えたと言われたのです。
多喜二の出身校小樽商科大学と白樺文学館多喜二ライブラリーが共催して、2008(平成30)年に発行された『私たちはいかに「蟹工船」を読んだか』(遊行社刊)には、当時14歳から34歳までに亘る、選ばれし17編のエッセイが掲載されています。
興味深いのは、「『蟹工船』はプロレタリア文学ではない」とし、政治的なメッセージとしては受け取らず、労働者の切迫した労働環境を純粋に現代と同一視し、国家・資本家と労働者との階級問題は普遍的な社会病理として解釈している論調が多かったことです。
結果的に、解説で分析した多喜二の弱者への眼差しは、80年以上経っても届き、ただし、彼の政治的(共産党的)メッセージは当時の固有のもとしていったん置かれ、階級問題というテーマは普遍性をもって解釈されたということになります。
これは、プロレタリア文学において、芸術が残って、政治が負けたという単純なものではなく、まず芸術は共感をもって貫かれ、時代特有の政治的メッセージは形式論としていったん取り除かれたものの(つまり、「蟹工船」ブームは労働者運動を引き起こすムーブメントとはならず)、つきつけられていた階級問題に関しては普遍的なものとして昇華されたと捉えるべきでしょう。労働者と管理・経営者側の階級問題という政治的テーマは、読者に捨てられてはいないのです。
ただし、こうした問題が社会に顕在化するのは、労働者の貧困に焦点があった時で、まさに、2008年(平成30)年の社会状況がそれに当たりました。この時、『蟹工船』がバイブルとして扱われたわけです。
なぜ、『蟹工船』だったのでしょうか。きっかけは、雨宮処凛と高橋源一郎との対談であり、それに共鳴した一人の書店員の行動だったにしても、ここまで影響を与えることが出来たのは、『蟹工船』に労働者の「悲劇」を訴えるという、「芸術」の魂があったからです。
ある詩人が、「蟹工船」ブームをみて、「現代の表現者たる自分達が、この貧困で苦しんでいる状況下で、強いメッセージを出せていなかった」と嘆いていましたが、確かに、本来ならば同時代に寄り添わなくてはいけない現代文学は、『蟹工船』よりも心に刺さる「芸術性」を備えていなかったことになります。
ただ、私は、『蟹工船』がこれほどまでの支持を得た要因は、現代文学が劣っているわけではなく、悪くいえば、怪我の功名であったとも考えられます。
その話を進める前に、一つ、紹介したい本があります。
文学における「芸術性」の多様性~政治と距離を置いた事実の錬成
『蟹工船』のコンセプトを整理していきましょう。
労働者にとって、
- 命の保証がない状況
- 連絡がとれない閉鎖空間
- 過酷な自然
- 国家、資本家、あるいはその手先の重圧
という4点が主に上げられます。
温度に違いがありますが、実はこの4点を備えた小説があるのです。
1967(昭和42)年に出版された、高村昭の『高熱隧道』(新潮社刊)です。
この本は、発電所の電源開発工事のため、黒部のトンネルを貫通させるために1936(昭和11)年8月から1942(昭和15)年11月までの4年3ヵ月に亘った工事を、取材と調査で追った重厚な記録文学です。
『高熱隧道』には、『蟹工船』の浅川監督のような非人道的な人物は現れませんが、日中戦争は既に始まっており、電力確保にあせる国家の圧力が背景にあり、舞台は連絡には不利な条件である山岳地帯で、この工事による犠牲者は300余名を数えました。書こうとすれば、山版『蟹工船』が出来る要素があったのです。
しかし、著者の吉村は、主人公に冷静な判断をもつ技師(監督)を置き、事故による人的犠牲者の描写は必要最低限に止め、ひたすらに工事の進捗を辿っていきます。また、政治的メッセージは、『高熱隧道』ではほとんど取り上げられませんでした。同書における人間が対峙すべき大きな敵は、「自然」そのものだったのです。
似たような題材を手に取っても、書き手によって大きく風景が変わります。
吉村昭は文学者として名高く、彼の評伝や特集した雑誌など多数を抱える大家です。政治的な色は出さず、より事実に即して書くのがスタイルですが、内容がつまらないのかというと、もちろんそうではありません。
事実の積み重ねに過ぎないはずなのに、なぜかその文章に引き込まれる、「誠実さの毒」とでも形容すべき魔力を持った作家でした。記録文学における吉村もまた、多喜二とは全く異なりますが、ルポルタージュ的なアプローチから人間の根底を照射する「芸術性」があったと言えます。
閉塞した時代に受け入れられた、『蟹工船』の危うさ
この『高熱隧道』と『蟹工船』を比較すると、小説の完成度では、圧倒的に前者の方が勝っています。そもそも、『高熱隧道』には、政治メッセージを送ろうという余計な力みがないので、一般読者に馴染むのです。
一方、『蟹工船』は、プロレタリア文学として非常に肩に力が入った作品です。読みやすさでいえば、マイナスの評価といえるでしょう。解説で指摘したように、知識人の共感と労働者の啓蒙の両方を獲得しようとする余り、両者が反発する結果を生んでしまい、構造的に失敗しています。
『蟹工船』は、最初のシーンでは擬音などを駆使した、映画的な表現を用いて、読者を引き込もうと技巧を施しているのですが、これを一貫することはなく、労働者の悲惨なエピソードがゴツゴツと入ってきて、文章としての味わいが薄れていきます。
また、時には『高熱隧道』のように、人間に立ちふさがる強者としての自然の描写が見受けられるのですが、このテーマはあっという間に労働運動の展開により追いやられ、せっかく施した文章は、読者の記憶から消し去れてしまいます。
『蟹工船』には、文学的技巧も、芸術も存在するものの、最終的な政治的メッセージへ集約される中で、政治闘争の渦に全て巻き込まれてしまう、非常に凸凹が多い、ごった煮ともいえる作品なのです。
しかし、その不安定な危うさが、80年後、再ブレークする力となったのも事実です。
読者の読みやすさを妨げる作品の構造的欠陥を超えて、労働者の悲惨さを、愚直なまでに何度もぶつけていったのが、現代の読者が共感できる大いなる刺激として捉えられたのでした。つまり、完成されていない、魂の叫びの集約ともいうべき『蟹工船』のスタイルだからこそ、ブームを呼んだとも言えるのです。
こうした読みやすさを捨てて、目をそらしたい人間の悲惨な現実を言語でもってあえてぶつけ続けることに舵を切った作品ですと、最近では、辺見庸の『月』(角川文庫刊)もあげられます。これは、相模原市の障害者施設で起こった殺人事件をテーマにし、政治的問題と対峙した作品です。
ここで、完成された小説の価値を否定するわけではないのですが、『蟹工船』や『月』のようにメッセージ性が強くて「読みにくい」「窮屈になる」「危うさを含んだ」作品もまた、いや時代によっては、むしろ読者を惹きつける可能性があると言えます。『蟹工船』は、まさにそれを具現化したのです。
一方で、もしかしたら、労働者の貧困が現出されなければ、「蟹工船」ブームは起きなかったかもしれない、「怪我の功名」なのでは、という評価も出来ます。しかし、労働者の貧困を徹底的に描かなければ、いつの時代であっても光が当たることはありません。他のプロレタリア文学が、ここまでの『蟹工船』ほどの再評価を得られなかったのは、「迫力」に欠けていたからではないでしょうか。
多喜二の『蟹工船』は、典型的なプロレタリア文学とは違った実験的作品であり、その構造上の弱点も含めて、多くの人に愛されるべき作品であり、労働者の悲惨さを究極的に描いたことに関しては、「世代を超えた、『蟹工船』の芸術性をもつ魂の力」をもった作品なのだと、繰り返し語ることが出来るでしょう。
★参考文献
ノーマ・フィールド『小林多喜二――21世紀をどう読むか』、岩波新書、2009年
『KAWADE 道の手帖 小林多喜二と『蟹工船』』、河出書房新社、2008年
『私たちはいかに「蟹工船」を読んだか』、白樺文学館多喜二ライブラリー、2008年
島村輝『臨界の近代日本文革』、世織書房、1999年
島村輝『小林多喜二の代表作を読み直す』、かもがわ出版、2021年
荻野富士夫編『小林多喜二の手紙』、岩波文庫、2009年
吉村昭『高熱隧道』、新潮文庫、1975年
『KAWADE夢ムック 文藝別冊 総特集 吉村昭』、河出書房新社、2013年
柏原成光『人間 吉村昭』、風濤社、2017年
辺見庸『月』、角川文庫、2021年