『陰獣』の紹介
江戸川乱歩作推理中編小説『陰獣』には、江戸川乱歩自身をモデルとした大江春泥とライバルであった作家・甲賀三郎がモデルとなった寒川という2人の推理小説家が登場します。
作風が異なる2人の探偵作家が出てくる今作は、登場人物が探偵作家だからこそ生じた、謎に満ちた奇妙な事件が描かれています。
『陰獣』のあらすじ
探偵小説家寒川は小山田氏変死事件を経験して大分月日が経った後も、恐ろしい疑惑を持ち続けていました。
その事件の最初のきっかけは、上野の博物館でたまたま出会った実業家の小山田六郎氏の夫人小山田静子と出会うことから始まります。
寒川は、静子の容姿の美しさはもちろん、うなじに赤痣の様なみみず腫れがあることに気づくといっそう強く興味を惹かれるようになりました。
静子は探偵小説が好きで寒川の作品も好きだということで文通する仲になります。
数ヶ月文通でのやりとりを重ねていたある日、静子から相談したいことがあると悩みを打ち明けられます。
静子は行方不明になった大江春泥という探偵作家の男から奇妙な手紙をおくられていました。
大江春泥というのは作家の名前で、本名は平田一郎という静子の元恋人だというのです。
その手紙は妙なことにまるですぐ近くで見ていたかのように小山田邸で過ごす静子の行動を細部まで書かれていました。
平田一郎は昔自分を捨てるように別れた静子を恨んでおり、復讐の計画を果たすつもりであることを手紙で伝えてきます。
その復讐から静子を守るために大江春泥を探しますが一向に見つからず、遂には小山田六郎氏が殺されてしまう事件が起きてしまいます。
その事件後、夫を亡くした静子と寒川は仲を深めていきますが、一方で小山田六郎氏の死について推理を続けていた寒川は、「本当の犯人は静子ではないか」という恐ろしい疑惑を抱きます。
静子が寒川との出会いから、大江春泥からの脅迫文、小山田六郎氏の殺害まで全て自作自演していたのではという推理を静子自身に詰め寄るも、彼女は泣くばかりで真実は語らず、次の日に自殺してしまいます。
寒川は彼女の死こそが、自身の推理が正しかった証拠だと考えますが、一方で明確な証拠はなかったため、彼女の死は夫の死後頼りにしていた恋人に犯人扱いされたショックで死んだ可能性があることを考えてしまいます。
さらには、大江春泥は本当に実在していて、犯人はやはりその大江春泥だったのかも知れないという疑惑は、事件が終わり月日が経つにつれてもずっと寒川を苦しめ続けていくのでした。
『陰獣』ー概要
主人公 | 寒川(探偵作家) |
重要人物 | 小山田静子(寒川が惹かれている女性) 小山田六郎(静子の夫で実業家) 大江春泥(寒川とライバルの探偵作家) |
主な舞台 | 東京 |
時代背景 | 大正〜昭和 |
作者 | 江戸川乱歩 |
『陰獣』の解説
ずばり『陰獣』の見所は、寒川が小山田六郎氏変死事件の真犯人の推理場面〜ラストシーンにかけてです。
寒川ははじめ小山田六郎氏こそが大江春泥であり、犯人だと推理しました。
しかし、違和感を感じて改めて推理した結果、静子こそが大江春泥であり、真の犯人ではないかという答えに至りました。
静子は寒川が好意を抱いていた相手で、大江春泥から殺意が書かれた脅迫状を送りつけられた被害者でした。
その静子を犯人と推理するのは、余程確信がないと出来ないことでしょう。
ここではその推理について解説していきます。
・小山田六郎氏変死事件についての寒川の推理
第一の推理 [六郎氏=大江春泥]
はじめ寒川は六郎氏自身が大江春泥になりすまし、静子を脅かして愉しむ変態趣味の持ち主で、脅迫状を送ったり、屋根裏から覗いたりして怖がらせて楽しんでいたと考えていました。
そして六郎氏が死んだ日も静子を脅かすために友人の家に出かけるフリをした六郎氏が自身の邸の2階の窓から静子を覗こうとした際に足を滑らせて、邸の側に流れる川まで転落した事故死だと推理しました。
この推理を裏付ける証拠として、
- 覗いていたとされる屋根裏に落ちていたボタンが六郎氏の愛用していた手袋のものだったこと
- 六郎氏の死とともに平田一郎(大江春泥)からの脅迫状が止まったこと
- 六郎氏の書斎にあった鍵のかかった本棚の戸の中に、大江春泥になりすますために使ったとされる証拠があったこと。
などがありました。
以上のことから六郎氏が大江春泥の筆跡を真似て脅迫状を書き、窓から覗いて静子を脅かそうとした際に不慮の事故で命を落としたと推理しました。
ですが、上記の証拠を用意することや、脅迫文を自作自演で行うことができた人物がいました。それが静子だったのです。
そのことに考えが至ったのは、手袋のボタンが落ちた時期の違和感に気づいたから。
屋根裏から六郎氏が静子を覗いた際に手袋からちぎれたとされていたボタンは、実はそのだいぶ前に手袋からなくなっていたのです。
そうなると、誰かが態とそのボタンを置いたとしか考えられなくなります。
ボタンを屋根裏に置いて、六郎氏に罪を着せようとした人物が存在することに気付いたのです。
第二の推理 [静子=大江春泥]
夫の六郎氏に罪を被せて殺すことは妻の静子にとっては容易にできたことでしょう。
逆に、六郎氏は肌身離さず本棚の鍵を持っていたため、妻の静子以外の第三者が鍵を取り、使用するのは難しく犯行はほぼ不可能だと考えられます。
また、静子が大江春泥としか考えられない2つの点がありました。
1.時期の一致
大江春泥が行方不明になった時期と、夫の六郎氏が外国から帰国した時期が一致。
2.距離
大江春泥は引っ越しを繰り返していて、その引っ越し先を線で結ぶと円ができ、その中心には静子が住んでいる小山田家があった。また、家の距離はどれも自転車で十分以内の通える位置ばかりだった。
上記によることから、夫が外国に行っている2年間、平田一郎の名を使って家を借り、その家に茶の湯と音楽の稽古に行くという口実で通い、大江春泥として探偵作家活動を行うことが可能だったと推測できます。
つまり、静子こそが大江春泥であり、平田一郎であり脅迫文は自作自演で、夫の六郎を殺した犯人だと推理したのです。
大江春泥の正体
大江春泥と寒川
大江春泥と寒川は2人とも同時期に世に出てきた探偵作家で、ライバルのような関係でした。
大江春泥は江戸川乱歩自身をモデルにした作家とされていて、その作風は暗く、病的で、ネチネチとしていて犯罪に興味を持ち犯人側の残虐な心理を書く様な作家でした。
対して、寒川は正反対な作風で理知的な推理に興味を持ち犯罪者心理には頓着せずに明るく常識的なものでした。
お互い直接関わりはなくとも意識し合う関係で、寒川が元々抱いていた大江春泥への気持ちは、
「私は以前から私と正反対の傾向の春泥を、ひどく虫が好かなんだ。女の腐った様な猜疑に満ちた繰言で変態読者をやんやと云わせて得意がっている彼が無性に癪に触っていた。」
江戸川乱歩『陰獣』
というように友好的ではないです。
しかし、寒川は最終的に静子を大江春泥だと推理しています。
作風には作家の内面が出ます。つまり大江春泥の作風を生理的に受け付けなかった=静子の内面に嫌悪感があるということです。
静子の容姿と浅い情報には心惹かれても、大江春泥としての静子のことは嫌悪しているため、彼女の精神的な内面まで知ることがなければ幸せだったことでしょう。
では、大江春泥である彼女は一体どのような人物なのでしょうか。なぜ夫を殺すような真似をしたのでしょうか。
夫を殺した動機。静子にとってのスリル
夫が海外に赴任中、探偵作家大江春泥として自由に作家活動をしていました。
しかも、平田一郎という名を使って家を借りたり、更には平田の妻として変装して訪問者とやりとりしていたとされています。
その刺激的な一者三役のような生活を、二年間誰にも静子だとバレることなく続けられてしまったのです。
しかも、残虐な作風の作品が世間では評判を生んでいました。
そんな中で、夫の帰国後は前のように家から出る口実はなくなり、一者三役も出来なくなりました。
刺激のなくなった生活は、静子にとって苦痛でしかなかったと想像できます。
お金も時間もあり、頭も良い静子は、あの二年間の経験により、別人になりすますことができることを学んでいます。
そして、別人になれるということは、殺人を誰にもバレずに、別の人物がしたように見せることも可能なのでは?と考えたのでしょう。
そして遂には、自身の書いたような犯罪の手口を使い邪魔な夫を殺し、同時にライバルの探偵作家を騙すという策略を思いついたのです。
寒川を騙せれば、有名な探偵作家をも上回る殺人計画だという証明になります。
もちろん推理力のある人間を近づければバレてしまう危険度は上がりますが、そこは親密になることで自分への疑惑を回避できると考えて、寒川に近づいたのではないでしょうか。
バレるかバレないかのスリルは静子にとって求めていた以上の刺激になった筈です。
・静子の死〜なぜ彼女は自殺したのか?
静子は寒川に、六郎氏を殺した犯人だと問い詰められた次の日に自殺します。
この静子の死こそが、寒川を事件後も苦しませ続ける疑惑の原因となります。
何故彼女は死んでしまったのでしょうか?
作中では2通りのパターンが推考されています。それは彼女が犯人か、犯人じゃないか、で分けられています。
・犯人だった(大江春泥=静子)
⇨寒川の推理が当たっており、もう逃れられないと悟って死を選んだ。
・犯人ではなかった(静子が大江春泥ではない場合)
⇨大江春泥からの脅迫状に脅かされ遂には夫を亡くし、頼りにしていた恋人の寒川には犯人扱いされたことで精神的に追い詰められてしまった。
もし後者が真実であれば、寒川は無実の彼女を殺してしまったということになり、恐怖で思い詰めるのも無理はありません。
しかし私は、犯人は静子であったと思います。
何故なら寒川の推理は裏付けする明確な証拠はなくとも、状況証拠としては充分に足りていると考えられるからです。
推理の解説の部分でも書いたように、六郎氏の鍵を使えたのは妻の静子ほど近しい関係じゃないと不可能だと思います。
ただ、静子が最期まで何一つ語らず、静子の身の回りを調べても痕跡は一つもなかったことから、可能性としては第三者の大江春泥が実在することもあり得てしまうのが、この話の恐ろしいところです。
また、ここまで手の込んだ殺人計画を実行していた静子が、寒川に問い詰められた際に反抗もせず、あっさりと自殺を選ぶのは違和感があります。それこそ寒川を殺す、または言い逃れることもできた筈です。
恐らく、親密になったきっかけは計画的であったけれど、いっしょに過ごすうちに静子の内にも恋愛感情が多少生まれていたのでしょう。
だからこそ結果的には死を選んだと考えられます。
『陰獣』の感想
今作は、こうした寒川と静子の間に恋愛感情が絡まったことにより、すっきりしない後味の悪い結末を迎えます。
寒川は静子に惹かれているため、寒川視点で静子の容姿を艶かしく描写する場面が所々にありますが、静子の本性を知った後だと殺人犯に恋心を抱くという気味の悪さを感じてきます。
「古風なフランネルを着ている彼女の身体の線が、今までになくなまめかしくさえ見えたのである。私は、その毛織物をふるわせてくねくねと蠢く、彼女の四肢の曲線を眺めながら、まだ知らぬ着物に包まれた部分の彼女の肉体を、悩ましくも心の内に描いて見るのだった。」
江戸川乱歩『陰獣』
静子と関係が浅いままであれば、殺人犯であったかもしれない静子の死についても寒川は思い詰めることもなかったはずです。
殺人犯かもしれない恋人を愛してしまった故の割り切れない気持ちを抱かせる結末は、何処かもやもやとしますが、その複雑さこそがこの作品の醍醐味だと思いました。
・静子の不自然さ
寒川からみた静子は、頭が良く美しい容姿をしているといった他、あまり情報がありません。
事件後静子について調べても事件に関する証拠は何一つ出てきません。
つまり静子については、限られた行動からしか推測するしかないのです。
例えば、背中にある赤疵をあえて見れることができる服を着ていたことや、脅迫状を仕組んで相談したことも、寒川の探偵小説家ならではの好奇心をくすぐらせ、自分への興味を持たせるために行っていたと考えられます。
また、私が作中で静子に不自然さを抱いた場面を3つ紹介します。
①出会いの場面
探偵小説家という狭い世界の人間、しかもライバル関係である2人と、作家と縁がない筈の静子が大江春泥とは元恋人関係で、寒川とは偶然に知り合うとはなんとも出来すぎていてかなり不自然です。
②鞭でぶたれることを望む場面
夫以前の恋人がいたことを夫には隠したいとする初心な様子をはじめは見せていましたが、夫の死後、寒川に鞭で打つことを執拗に求める静子はまるで別人のようです。
それに初心で純朴であるならば、必死に痣を隠す服を着る筈ですが、出会いの時から痣がみえる服を普通に着ていることからも初心とは程遠い本性が垣間見えます。
③寒川に犯人ではないかと詰められた場面
このとき執拗に寒川の言葉を妨害し、これ以上は聞きたくないと話を止めようとします。また、寒川が推理が間違っているなら否定してくださいと言っても最後まで否定もせずに黙ったままでした。
このように不自然な行動ばかりしている静子を犯人として捉えることはおかしくないでしょう。
・ラストのもやもや
最初、寒川が小山田六郎氏変死事件を終えてから、事件についての回想が始まりますが、ここでは事件後も疑惑に苛まれている様子が書かれています。
「そのお人好しで善人な私が、偶然にもこの事件に関係したというのが、抑も事の間違いであった。若し私が道徳的にもう少し鈍感であったならば、私にいくらかでも悪人の素質があったならば、私はこうまで後悔しなくても済んだであろう。こんな恐ろしい疑惑の淵に沈まなくても済んだであろう。いや、それどころか、私はひょっとしたら、今頃は美しい女房と見に余る財産に恵まれて、ホクホクもので暮らしていたかも知れないのだ。」
江戸川乱歩『陰獣』
月日が経っても解けない疑惑を生んだ事件とは何か気になる始まりです。
その後描かれた事件と明かされた結末はとても奇妙で、結局真実は静子の死によって永遠にわからなくなりました。
読んでいても、何が嘘で、何が本当か考えさせられて、寒川が恐ろしい疑惑を抱くも納得です。
また、上記の回想には最後の方に、寒川が静子を犯人だと推理しなかった場合、幸せに暮らせただろうと書かれています。
ですが、刺激を求めて六郎氏を殺した彼女に普通の幸せで満足できたでしょうか?
結局、彼女が犯人だった場合は素性は明かすことはないですし、彼女の内面を知らないままで、いつか彼女に何処かしら違和感を覚えたとき、同じように疑惑を持たないではいられないだろうと予測されます。推理好きの探偵小説家たる寒川が、静子について関心を深めないとは考えがたいことだからです。
恋人関係になるには、そもそも2人の相性は悪かったといえます。
それに、刺激を求める静子が、寒川との関係に飽きたとき、また殺人を計画しないとは考えられません。
いずれは静子に疑惑を覚えるか、飽きた静子に殺されるかという未来を容易に想像できます。
ここまでくると、静子と寒川どちらにおいてもお互い恋愛感情を抱いてしまったことが誤りだったといえます。
寒川は考えすぎる分、後悔や疑惑を晴らせないでいますが、はっきりした証拠はないからこそ、あれこれ考えるのではなく、起きた事象だけ見ることが大事だと思います。
そうすると、やはり静子は最期まで寒川の推理を否定しなかったことからも殺人犯であり、大江春泥だったと考えるのが妥当です。
静子の死も寒川が殺したのではなく、死を選んだのは静子自身で寒川に非はないのです。
ただ、私自身は読者であり、第三者として冷静に見れますが、寒川はそうじゃなかったのでしょう。
静子に惹かれていた分、冷静に考えることが出来なかったのです。
その葛藤や苦心する様こそがこの作品の一番伝えたいことを表しているのだと思います。
以上、『陰獣』のあらすじ・解説・感想でした。