開高健『裸の王様』紹介
『裸の王様』はベトナム戦争の従軍経験を基にした『ベトナム戦記』や『夏の闇』、アマゾン川やアラスカ他での釣り紀行作品『オーパ』等で知られている開高さんの初期の作品です。
この作品はアンデルセンの『裸の王様』からヒントを得たもの、いわば日本版、開高版の『裸の王様』でしょう。
27歳の時に『パニック』『巨人と玩具』及び本作『裸の王様』を発表しています。本作品は翌年に芥川賞を受賞しました。
この記事では『裸の王様』のあらすじ、解説、感想を紹介します。
『裸の王様』あらすじ
大田太郎君が、知人山口の紹介で僕の画塾に来ることになりました。
山口は小学校教師の傍ら自分の絵も発表しており、太郎君の父は彼のパトロンでもあります。絵具会社を経営しており、事業の拡大が常に念頭にある男です。山口はその大田氏に上手に取り入っています。
僕が太郎君に絵を描かせてみると、どの絵にも親だけでなく、人間が登場しません。絵のお手本に載っている作品ばかりであり、自発的なものが感じられません。夫人によれば、夫は「事業の後を継ぐことが出来ればそれ以外のことは不要」とのことで、夫人もそれに逆らうほどの子供に関する知識や意見は持ち併せていません。
ある日、生徒の一人が、小川でエビガニを釣った事を話題にすると、太郎君が興味を示します。
エビガニは、スルメを餌にすればよく釣れた経験があるとのことで、夫人の許可を得て彼を川遊びに連れ出します。
初めの内は、服を汚すと母親に叱られると思い馴染めなかった太郎君ですが、僕の誘いに次第に川遊びの楽しさを思いだして、最後は鯉を逃がして悔しがります。
僕は長年の夢として、外国の児童画を入手したいと思っていました。写真ではなくて、原画です。その方が外国の子供のことを、子供の思いをより理解できるし、自分の生徒の作品との比較もできるからです。
ある時偶然に目にしたニューヨークタイムズの記事にヒントを得て、長年の夢を実現させる方法を思いつきました。
それは、裸の王様の本家であるデンマークとの交流で、「アンデルセン童話の挿画交換」でした。3回目の便でアンデルセン振興会から、全面的な受託の返事があったのですが、その後、今度は太郎君の父大田社長から連絡がありました。
話しを聴くと僕と同じ企画で動いており、先方の希望が日本側窓口の一本化である事から、それを太田氏に任せて欲しいとの事でした。僕は、先生が子供に無理強いしない事、商売にしない事、の2つの留保条件を付けて大田氏の依頼を了承しました。
ところがその後出来上がった、児童画公募案内のゲラ刷りを見ると、文部大臣やデンマーク大使の協賛のメッセージが入り、優秀作が多い学校には「教室賞」を与えることになっています。
僕が意見すると、「気持ちはわかるが、賞金でも付けなければ絵を描いてもらえないのが日本の現状」といなされます。
「太郎君の画をご存じですか」と問いかけると、関心がない様子で「画が描けなくても大学に行ければ良い」と返されます。僕は大田氏が、我が子のことについて、子供の発達について何も理解してない事を確認し、退出します。
画塾の子供達は、夫々が自分の学びつつあることについてサインを送って来るのですが、太郎君にもそれが見えてきます。
先日川遊びで逃がした鯉を描きたいのだが、上手く描けないと泣きついてきます。
太郎君の進歩に手ごたえを感じた僕は、相談がてら太郎君の母を訪ねました。彼女は若さや未経験によるものでしょうが、太郎君の実情、子供の発展段階を理解していません。
それでも良き妻、良き母親としての役目を果たそうとしており「孤独なのは太郎ばかりじゃございませんわ」というつぶやきに彼女の悩みが見て取れました。
山口に会うことがあり、大田氏夫婦の情報を得ました。夫人は旧家の出身だが実家は事業不振で、大田氏の援助を受けている事、大田氏は事業の拡大しか関心が無く夫人は太郎君の世話しか役目が無いこと、でもそれは僕に取られたこと。いたたまれなくなった夫人は、山口を呼び出して、徹底的に飲み歩いたとのことでした。
大田氏の企画が発表になり絵が集まり始めますが、やはり僕が心配していた通りになっていました。
先生は生徒に、一般的に知られている通りのアンデルセンを教え、生徒はそれを素直に受け取り、童話本や絵本をまねて描いています。僕はそれに対して、塾生には物語の筋書きだけをアンデルセンからもらい、ただ外国や大人の用語は排して自由な発想を引き出すように努めました。塾では自由な発想を得ても、家に帰れば親の影響で元に戻ることが多いのですが、太郎君は家庭では放任されているせいか、僕の目指していたゴールが期待できるまでになりました。
彼が遊ぶ度に、仲間と遊ぶ度にその時々に感じた絵を描いて、僕に見せてくれるようになりました。
そしてある日、太郎君宅の運転手が太郎君を連れてきます。両親は不在だが太郎君が、描いた絵をどうしても見てもらいたいとのことであり、運転手の判断で連れて来たとのことでした。
表面的には他の子供と変わりませんが、数ケ月前には何も描けなかったことを思えば、目覚ましい成長を感じました。
そして1枚の絵にショックを受けました。昨日彼に「皇帝の新しい着物」について話したのですが、「王様」や「宮殿」など、先入観を抱かせるものはすべて排して骨格だけの寓話にしました。
太郎君は、「昔、大変見栄坊な男がいて、金に飽かせて着物を作っては威張っていた」のヒントから、「大名」を連想し、越中フンドシを付け、チョンマゲ頭でお堀端を歩いている姿を描いてきました。
僕は話をしただけであり、宿題にしたわけでもないのですが、太郎君は自分の意思で、欲求でこの絵を描いて見せに来たわけであり、素晴らしい進歩に感激し心の底から笑いがこみ上げ「もう大丈夫」だと感じました。
やがて児童画コンクールの審査会があったのですが、その絵を見てすっかり失望してしまいました。
子供達の自由な発想は全くなく、紋切り型の絵ばかりが入選作となっていたからです。
平生、各審査員はそれぞれの主張をしていますが、この時はコンクールの趣旨に従った絵、よく知られている絵本に出て来るような上品な絵ばかりが選ばれていたからです。
僕は「裸の王様」のコーナーに太郎君の絵を紛れ込ませました。
審査が終了し山口他審査員が全員揃った所で、太郎君の絵と多分絵本を手本にして描いた入選作の2枚を投げ出して皆の意見を求めます。
「真似をした絵よりも越中フンドシの絵がアンデルセンの童話の意味を理解している」という僕の意見に対しては否定的な意見ばかりでした。
「ふざけてる」「馬鹿にしている」から始まり、「理解の次元が低すぎる」「絵が下手過ぎる」と理解を示す意見は出ません。
山口はこの絵に一定の理解を示し、主催者の功績をたたえるような意見を述べてその場を纏めようとします。
そこで私は、この絵が主催者である大田氏の子息、太郎君の作であることを明らかにしました。
山口も他の審査員も、何も語らず大田氏に頭を下げ退出してゆきます。大田氏は事情を知りません。僕はもう一度心の底から哄笑しました。
開高健『裸の王様』概要
登場人物1 | 大田太郎 | 事業の拡大しか念頭にない父親に育てられたせいか、子供らしさがない。僕の絵画塾の生徒。 |
登場人物2 | 僕、美術講師 | 太田太郎の講師。川遊びなども取り入れて子供らしさの回復を図っている。 |
登場人物3 | 大田社長 | 急成長している絵具会社の社長。太郎の父。商売の拡大しか念頭にない。 |
登場人物4 | 大田夫人 | 後妻、実家は名家だが夫から資金援助を受けている。夫とも太郎とも馴染めない。 |
登場人物5 | 山口、僕の知人、美術塾講師 | 美術教員も兼ねており自分の作品も発表する。場の空気を読むのが上手。 |
登場人物6 | 絵の審査員達 | それぞれの立場を代表しているが、利害と空気を読んで行動する。 |
開高健『裸の王様』解説
アンデルセン『裸の王様』の日本版
タイトルでもわかるように、この作品はアンデルセンの「裸の王様」からヒントを得たもの、いわば日本版,開高版の『裸の王様』でしょう。
まず本家、アンデルセンの『裸の王様』の意味を押さえておきます。
「批判や反対意見を受け付けないので本当の自分がわからない権力者」とされているようです。
時代劇に登場する、無能な大名を思い起こしますが、勿論親や周りの者の教育、体制等環境が重要なことは言うまでもありません。
本家が「無能な権力者」を揶揄していますが、開高版では権力者だけでなくもっと幅が広くなっています。
商売の拡大しか考えず、子供の精神面の発達にはまるで理解の無い経営者、それに上手に取り入る教師兼美術講師、普段は夫々己の見解を主張しているのに、時と場所によりコロリと見解を変える審査員を揶揄しています。
一方で、「僕」は太郎君に子供らしい元気さと自発的な行動力の回復を求めています。
最初にするべきことは、「僕」が100%正しいのか、大田社長や審査員は具体的にどうすればよいのか、考えてみることでしょう。
これは後述しますが、ある人が100%善で、別の人が100%悪ということはありません。
考えるほど、結論が出なくなります。
この作品は開高さんがサラリーマンとの2足の草鞋を履いている時代の作品で、本格的なものとしては3作目のものです。
同時期の作品『パニック』同様、何かしら社会や、組織の矛盾、不満、疑問等を抉り出し、そして人の心の弱さをも問うているように思います。
それは多分、開高さんが新進作家の時期であった事や、戦前からの大変な体験が影響していると思います。
父の死により一家の柱として、中学生時代から働かざるを得なかったこと、戦時体制の混乱や仕事の中で見聞きし、体験した大人の世界や社会の矛盾点、人間の弱さ、組織の恐ろしさ、生きることの現実等を肌で感じ取ったからだと思います。
開高さんとしては、まずそれまでの人生で学んだ事の整理の意味で、これらの作品を書いたのだろうと考えます。
そして開高さんは、結論を書いていません。
後は宿題、各人が考えろということでしょう。
『裸の王様』感想
子供の頃に、本家アンデルセンの作品の他グリム童話やイソップ物語等を、頃繰り返し読んだ記憶があります。
その中では、「漁師のおかみさんの話し」が最も心に残っています。
多分、子供にもわかり易かったのが一番の理由でしょう。
「裸の王様」は、王様は裸だ、という言葉から深層を考えなければならないので、子供には難しいと思います。
この作品で開高さんは何を訴えたかったのでしょうか。
作家も含め、人間は年齢や経験と共に変化、熟成してゆくものですが、開高さんの終生変わらぬ面は、徹底した現場主義にあると思います。
徹底的に調べ上げ、納得ゆくまで突き詰める、そして最終判断は読者にゆだねる。そんな気がしています。
物事を判断する時の指標として、最近得た方法ですが、以下の2つがあります。「歴史、世界、データで考える」、「川を上れ、海を渡れ、正確なデータ」、どちらも同じ意味でしょう。
人間の行動、考え方はあまり進歩しないが、環境等により変化する。そのため、データも含め過去と世界で考えろということでしょう。
この方法で太田社長の企業経営、子育ての方針から検討を開始しましたが、検討すればするほど新しい課題、疑問が出てきます。
まず企業家が規模の拡大を目指すのは,ある意味当然の事です。
利益も上げなければ従業員の給与の支払いもままならず、税金を納めなければ国の政策も、福祉も成り立ちません。
社会のルールは国により、発展の段階や社会環境、宗教等によっても異なります。
アメリカは現在格差が非常に大きい社会ですが、裕福な者を中心に寄付が大きいといいます。
その根底には「汝と同じように隣人を愛せよ」というキリスト教の教えがあるようです。
2020年度の寄付金額が約46兆円であり、これはロシアの国家予算約40兆円より大きい額です。これを見れば単純に、アメリカは格差社会であり酷い国だとは言えなくなります。
太郎君の絵について考えてみましょう。
「僕」はゼロからスタートして、子供の自由な発想力を取り戻して描いた絵を心から喜んでいます。
ただ、「僕」以外の人から見れば、太郎君の絵は単に未熟で稚拙な絵でしょう。
思い浮かんだのが、やなせたかしさんのアンパンマンです。
やなせさんは自分の経験他より「食べ物を与えるのは何時の世でも変わらぬ美徳」との考えがあったといいます。
ただ当初は、母親や幼稚園の教員、出版社、専門家と言われる人の評価は最悪であったようです。
それを覆したのは、子供達が素直にアンパンマンの物語を理解し、楽しんだからだといいます。
『裸の大将』こと山下清さんの絵も同じような傾向があります。
ほのぼのとしたちぎり絵は、多くの人に愛されていますが、今でも専門家の意見は低いようです。
また福祉の側からは「一人の天才を褒めたたえるのは全体にはマイナス」という見方が多いと言います。
こう考えてくると、人間の行動については算数のように絶対的な一つの真実はないことが分かります。「生き残るのは変化できる者」というダーウインの言葉が浮かんできます。
世界の今後を考える時に言える事は、「人類は地球でしか生きられない。世界があり各国がある。各国があり各国民がある。でも国民を大切にしない国、世界は意味がない」でしょう。
そのためにどう行動するべきか、温暖化対策やSDGs等の議論は始まったばかりで、今後は見通せません。また、人間の心は一人ひとり異なります。
開高さんの宿題は、とんでもなく難しい問題です。
以上、開高健『裸の王様』のあらすじ、解説、感想でした。