『冬の日』の紹介
『冬の日』は梶井基次郎の小説です。梶井基次郎というと、高校で『檸檬』を読んだ人も多いのではないでしょうか。
その梶井基次郎の最高傑作と評されることもあるのが『冬の日』です。
ここでは、そんな『冬の日』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『冬の日』ーあらすじ
作者自身が6章に分けているので、各章ごとにあらすじを 見ます。
(第1章)
間もな冬至になるころ。時間の経過とともに自然に変化が見られます。
主人公堯(たかし)は肺結核が進行し、血痰を吐き、生きる熱意を感じなくなっていました。
昼は外を凝視し、夜は物音に耳を澄ます生活です。
(第2章)
堯(たかし)は母から手紙を受取ります。
お互いに相手のことを思う姿が描かれ、弟や妹も肺結核、あるいは結核性の病気で死んでいることが明かされます。
幻覚が語られ、ネズミ捕り器の挿話などがあります。
(第3章)
朝から起きたある日のこと。午前中、堯は坂を下って郵便局に行き、途中で遊ぶ子供たちを見ます。
午後、また郵便局に行き、転地療養地探しを断る手紙を出します。自然は冬を迎えています。
堯は自分の部屋を外から眺めて、空想を広げるのでした。
(第4章)
堯は夜、銀座に出かけます。
肺結核の少女のことを考え、路上で独楽(こま)売りの老人のそばに痰を吐いた男を見ます。
洋風の品物を買った後、ながくレストランにおり、 帰宅。霰(あられ)の音を聞きます。
(第5章)
いつの間にか 冬至は過ぎました。
質屋に入れておいた冬用の外套は質流れしていました。
いくつかのエピソードを挟み、夕方、友人の折田が来て、折田との会話がつづられます。
(第6章)
母から手紙が来ます。春着を送ったとのこと。
幻覚を挟んで、大きな落日を見ようとしますが、叶わず「堯の心はもう再び明るくはならなかった」で終わります。
『冬の日』ー概要
主人公 | 堯(たかし) |
小説の重要人物 | 母、折田 |
主な舞台 | 堯の周辺、銀座 |
時代背景 | 近代(大正末~昭和初期)、(冬至前後) |
作者 | 梶井基次郎 |
『冬の日』―解説(考察)
未完成作品『冬の日』を連句として楽しむ
『冬の日』は未完成作品です。
雑誌に二回に分けて発表されましたが、梶井基次郎が知人に宛てた手紙の中で、その後の構想を語っていることから明らかです。
しかし、そういう予備知識なしに読むと完結しているとしか思えません。
また、小説の形態は実に様々ですが、ものすごく大雑把に言って、発端があり、色々な出来事があり、クライマックスに至って、結末があるというのを一応標準形とすると、『冬の日』はこれに当てはまりません。
梶井基次郎は松尾芭蕉を敬慕しており、この小説の執筆時期は三好達治とともに芭蕉の俳諧七部集の中の『冬の日』の読書会というか、勉強会をしていました。
梶井基次郎の小説『冬の日』は、松尾芭蕉の連句『冬の日』から命名されたことも知られています。
連句というのは、前の人が詠んだ五七五あるいは七七に、七七あるいは五七七を付けるものです。
前の句と意味的関連はあるのだけれども、少しずつ視点をずらして次々と進んでいく感じです。
小説『冬の日』もその影響を受けているのでしょう。
一本の糸は通っているのですが、一見すると関係あるのかないのかわからない話が続きます。
この二つの理由で、『冬の日』の物語はあらすじ的にまとめるのが難しく、ストーリーとして楽しむというよりは、連句的に楽しむような作品になっています。
・梶井基次郎が伝えたかったことは何か
この作品で梶井基次郎が伝えたかったことは、
だと思います。
当時、結核は不治の病でした。現代ではガンがそれに近いかも知れませんね。30代とか、40代でガンを発症する人もいるわけですし……。そして何よりも人生百年時代と言っても、人間必ず死ぬわけですから、他人事ではありません(人間の死亡率は100パーセントなわけです)。
そういったことを、間尺を短く取って、見せてくれていると言ってもいいかもしれません。
さて、この小説は外的時間と内的時間が並行して流れ、そこで一貫性がたもたれている小説です。
- 外的時間とは、全ての生物が象徴的な意味で「死ぬ」冬になっていくことです。
- 内的時間とは、主人公の病の進行に伴って揺れる心情の変化です。
そうしたわけで、この小説の解説はいくつかの視点を前面に出すよりも、章を追う形の方が分かりやすいと思うので、以下章ごとに解説・考察していきます。
・第1章:主人公の名前はなぜ「堯(たかし)」なのか?
「季節は冬至に間もなかった」という一文で始まります。すごい名文だと思いませんか?
ここから外的時間と主人公の心情の並走が始まります。
主人公が若い男子学生で肺結核が重いこと、第2章に出て来る弟と妹の死因(結核性の病気)が、梶井基次郎の弟・妹の死因とほぼ重なること(結核性の病気)等から考えて、この小説の場合は(主人公)=(作者)と考えて良いと思われます。
では、主人公の名前は、何故「堯(たかし)」なのでしょうか?
本当は太陽に高く昇って欲しかったのかもしれません。あるいは、梶井基次郎独特の飛翔願望の現れかもしれません。
それらもあるかもしれませんが、私が一番疑うのは、芭蕉『冬の日』の11番歌、
の影響です。
「あかつき」は旧字で書けば「曉」です。「焼」は旧字で書けば「燒」です。両方とも「堯」の字を含んでいます。
ここから着想したのではないでしょうか(小説『冬の日』には連句『冬の日』の影響と思われるところが複数箇所あります)。
第1章第2段落の「ごんげん胡麻は老婆の蓬髪のようになってしまい、……」は自然描写・空間描写をしながら、時間経過が表されています。
それから血痰を吐く場面が登場。この小説に何回か出て来て、大切なアクセントになっています。
必要最小限で引用すると血痰の色は「黄緑色からにぶい血の色を出すようになり、時には……」と、主人公の病が進行している様子が分かります。季節が冬になっていくように……。
それから第1章末尾の方で「そしてそれは凩(こがらし)に追われて」「もう夜を呼ぶばかりの凩に耳を」というように2回、凩が出てきます(作品全体では4回出ます)。
作品の最初の方に凩が出て来るのは、連句『冬の日』の初句「こがらしの身は竹齋に似たる哉」(芭蕉作)を意識している可能性があると思います。
因みに「凩」の1,2行前に出て来る「骸骨」は連句『冬の日』の25番歌を意識しているかもしれません。
・第2章:作中のリフレイン
第2章は「堯は母からの手紙を受け取った」で始まります。これも名文ですね。
この章の末尾では「おやすみなさい、お母さん」が間を空けて2度くり返されています。
象徴的な意味があるとすると、やはり「死」でしょうが、まさかこんな早く小説が終わるはずないですから、ここはそこまで深刻に受け止めなくていいんでしょうね(ここには日本文化と母性の問題があります)。
小説『冬の日』は各章に何か繰り返すものがあるのが特長ではないかと思います。
・第3章:「マサカ」の出来事と外的時間
日頃、昼まで寝ているらしい堯が、珍しく朝から起きています。
そして午前中に1回、午後に1回郵便局に行きます。堯が借りている部屋から郵便局までは長い下り坂です。
帰りは当然、長い上り坂ということになります。ここで一見、何気ないエピソードが語られます。
以前、日本の総理大臣に小泉純一郎という人がいました。この人がスピーチの中で「人生には三つの坂がある。上り坂と下り坂とマサカだ」と言ったことがあります。
本人自身が考えた事なのか、何かの引用なのかは知りませんが、それ以来、この言葉は日本で有名になりました。今でも時々聞くことがあります。真理を突いている言葉だからでしょう。
ある家の主たる稼ぎ手が、うつ病になって離職するのは「マサカ」の例でしょう。
堯にとっても自分がこんなに早く肺結核で死ぬのは「マサカ」だったのではないでしょうか。
弟や妹が亡くなっているわけですから、覚悟していてもいいはずなのに、そうでないところが人間で、大震災が来ても自分は大丈夫と考えている人が多いのと同じです。
・連句的表現と時間表現
午前には道の途中で4~5歳の子供たちが遊んでいるのに出くわします。
子供ですから、成長エネルギー・ 生命エネルギー満杯です。午前中ですよ。まだ堯にも堯なりにエネルギーがある時ですよ。同時に病気の自分との対比にもなっています。連句のような構成ですね。そしてその時、堯の2度目の吐血シーンが描かれます。
午後の郵便局行きは、午前に出した転地療養地探しを断る手紙を出すためのものでした。
午前には微かに見えていた生きる希望が、無くなるわけですよね。
ここで、午前の郵便局行きの時の子供のことを思いだしてみると、決して無意味なエピソードではないことがよくわかってきます。
そして午後、家に帰ってくるところで「凩」という言葉が2回、「部屋」という言葉が4回ほど使われます。
主人公の魂が、自分の居場所を確認しようというイメージでしょうか。すさまじい場面だと思います。
第3章の最後は、
「路に彳(たたず)んでいる堯の耳に階下の柱時計がボンボン……と伝わって来た。変なものを聞いた、と思いながら彼の足はとぼとぼと坂を下って行った」
です。
帰宅するわけですから、「坂を上って行った」じゃないかと思うんですけど、アップダウンがあるということなのでしょうか? イメージとしては、坂を下っている方が似合います。
この時代ですから、振り子式の柱時計でしょう。「ボンボン……」と時間の回数分(5時なら5回)、音を出すわけです。つまり、時間の経過を表しているわけです。
それに対して、堯の反応は「変なものを聞いた」なんですよ!
外的時間の経過=自分の病の進行ですから、潜在意識的に受け入れられていないのではないでしょうか。すごい描写だと思います。
・第4章:「独楽の」連句的表現と食べ物の描写
堯は銀座に行きます。人が沢山いる所、活気(生気)のある場所に行きたかったのだと思います。
もっと言えば、生気を吸収したかったのではないでしょうか。生と病との間で揺れる堯の心情がよく出ていると思います。
時期にちょっと問題があります。「そこ(銀座)では華ばなしいクリスマスや歳末の売り出しがはじまっていた」とあります。
現代の感覚からすると、クリスマスまではクリスマス商戦だけで、クリスマスが終わった途端に歳末大売り出しというのが、普通じゃないでしょうか。
この時代はごっちゃみたいですね。クリスマスだけだと、集客力が弱かったのかな、と考えさせられます。本筋とは関係ないですが、時代の一面が垣間見られます。
さて、堯が銀座に行ったのはいつ頃なのでしょうか。
以下に日時を考察していきます。
- クリスマスの売り出しをやっているということは12月25日より前だと考えられます。そして歳末大売り出しと抱き合わせでやらないと儲からないクリスマス売り出しを2ヶ月前からやるというのは、あり得なさそうではないか?
- 第5章冒頭に「いつの隙(ま)にか冬至が過ぎた」とあります。冬至は大体12月21日ごろです。この小説は時間を追って書かれています。前記の文が、冬至を過ぎてまだそれほど経っていないニュアンスを含むと仮定します。ということは第5章の段階で、12月中旬ぐらいでしょうか。
- 第4章で銀座に行った記述より後に、「壁にかかった星座早見表は午前三時が十月二十何日に目盛りをあわせたまま埃をかぶっていた」とあります。埃をかぶっているわけですから割と時間が経っているはずです。
以上を組み合わせると、堯が銀座に行ったのは、12月中旬かそのちょっと前ぐらいかなと思うのですが、みなさんはどう考えるでしょうか?(因みに「旬」と言うのは10日間のまとまりを言います)。
・堯の生欲と「独楽」の連句的表現
話を元に戻します。銀座に行った場面で「何をしに自分は銀座へ来るのだろう」という表現が1回、「何をしに自分は来たのだ」という表現が3回出てきます。
この小説は章ごとに繰り返されるものがあると前に書きました。第4章ではこれです。生きようとする方向へ向かってみたものの、そこには懐疑が横たわっていたという感じです。
堯は銀座に来た初めの所で、電車で見た少女を思い出します。
堯は男性です。生きる欲望=生欲は、ある意味性欲ですから、この少女は生欲の象徴かと思いきや、肺結核を患っている少女なのです。
という生死の葛藤が表現されているように思われます。
その後、銀座なのに人気(ひとけ)のないところで、独楽(こま)を売っている老人を見ます。ある男がその老人のそばに 痰を吐いて行きました。
こう言っては失礼かもしれませんが一般論として、老人は若者よりも死に近い立ち位置にいます。
その老人が独楽を売っているわけです。独り楽しむと書く物を売っているんですよ!人気のないところでです。ものすごく連句的だと思いませんか。何が何だかわからない小説にしっかり糸が通っているんですね。
因みに連句『冬の日』の159番歌に「江を近く独楽庵と世を捨て」(重五作)という句があります。あるいは影響があるのかもしれません。
その後に、
「彼(堯)はそれが自分自身への口実の、珈琲や牛酪(バター)やパンや筆を買ったあとで、(中略)高価な仏蘭西香料を買ったりするのだった。またときには露店が店を畳む時刻まで街角のレストランに腰をかけていた」
とあります。洋品に憧れるのは『檸檬』も同じ(文具類)でしたが、ここでは食料も出てきます。
しかし、小説のこの後で、これらを食べる場面は出てきません。
また、随分長くレストランにいたようですが、そこで何を注文し、何を食べたかも出てきません。
私はここに脊椎カリエス(結核菌が骨に作用し、骨を破壊し死に至る)で、梶井基次郎と同じく30代前半で亡くなった正岡子規を思い出すのです。
しかも、二人とも東大文学部中退で、案外似た境遇にあります。
ところが、二人の生に対する態度は大きく違います。それが食べ物にも現れていて、正岡子規は随筆『病臥漫録』の中で、これでもか、これでもかというぐらい、食べた物を書き込んでいます。
たとえば、9月4日の条を見ると、
朝 雑炊三椀 佃煮 梅干
牛乳一合 コ 々ア入 菓子パン二
昼 鰹ノサシミ 粥三椀 ミソ汁 佃煮 梨二ツ 葡萄酒一杯(コレハ食事ノ例ナリ前日日記ニヌカス)
間食 (原文あるが、省略)
晩 (原文あるが、省略)正岡子規『病臥漫録』
となっています。この日が特別なのではなく、毎日毎日がそうなんです(来訪者や作句のことなども書かれています)。
食欲が生きる力になることは誰しもが認めるところでしょう。
梶井基次郎も実生活では結構贅沢に食べているようですが、少なくとも作品には出てきません。生死の間を揺れ動く梶井基次郎にはふさわしいだろうと思います。
梶井基次郎が小説に食べ物のことをバリバリ書いたら、本人はもっと作品を残したかもしれませんが、それは今見る梶井文学ではなくなっていたでしょう。……梶井は梶井で良かったのかもしれません。
さて、レストランを出て堯は自分の部屋に帰ります。
・第5章
「いつの間にか冬至が過ぎていた」で始まります。
北半球では冬至は昼が最も短い日です。逆に言えば、この日を境に日は長くなっていくわけです。
ですから、色々な民族が冬至の日に太陽復活の祭祀をするわけです。
堯の場合、そのように大事な節目となる日が無意識に過ぎてしまうんですね。象徴的だと思います。
そして冬の準備のため、質屋に入れておいた冬の外套を取りに行くのですが、もう質流れしているわけです。すごく象徴的ですね。果たして堯は冬を越えられるのか!? 未完の構想によると、春にも生きているようです。
この日の夕方、折田という友人が訪ねてきます。そして第4章で出てきた「十月二十何日」で 止まったままの星座早見表を正しく合わせます。堯の病気で停滞していた心理的時間を進行させる役割を持った人物です。
この折田は本当にいい人なんですよ。深い深い洞察力も持ち合わせています。泣けてきますね。肺結核の堯の茶碗で平気で茶を飲む折田に、堯は思わず、嫌味を言ってしまいます。
「君は肺病の茶碗を使うのが平気なのかい。咳をする度にバイキンはたくさん飛んでいるし。―平気なんだったら衛生の観念が乏しいんだし、友達甲斐にこらえているんだったら子供みたいな感傷主義に過ぎないと思うな―僕はそう思う」。
Aでも駄目だし、Aでなくても駄目、要するに全部駄目で八方ふさがりですね。こんなふうに言われたら、あなたはどう反応するでしょうか? 折田は本当にいい人です。「折田は目を一度ぎろりとさせたまま黙って」いて、それから会話が進行します。
「しばらく誰も来なかったかい」
「しばらく誰も来なかった」
「来ないとひがむかい」
となるのです。AでもAでなくても駄目な絶体絶命の「底」をぶち破る発言ではないでしょうか。
堯の批判に対して、堯がその発言をせざるを得なくなった心情を洞察して、そこへズバッと切り込んでいるのです。
批判への直接的な答えになっていないけれども、批判を超えています。
批判を超越した次元から相手を包み込んでいるわけです。こんな友人を持てた堯は本当に幸せ者です。梶井基次郎はこの事に気づいていたでしょうか。気づいていたと思います。だから、小説の一場面として、ここまで描写できたのでしょう。
さて、折田は帰り際に、自分が学校から貰って来た乗車割引券(今の学割でしょう)を二枚、くれます。「学校へとりにいくのも面倒だろうから」と言うのです。そして、それ以上のことは言いません。暗に転地療養を勧めているわけでしょう。
折田、本当にどこまでいい人なんでしょうね。涙、涙です。
このようにこの章も一見、無関係に見える色々なものがちゃんとつながっていました。
・第6章
母から手紙が来ます。春着を送ったとの事。元来は、作者が、堯を春まで(あるいはそれ以上)生かすつもりの伏線だったのでしょう。
この後、母の幻覚をよく見ることが書かれます。
母親は有難いですね。特に日本文化は母性優位の文化だと言われますが、そんな感じがよく出ています。
更にそれから後、「ああ大きな落日が見たい」ということになります。
大きな落日と、滅びゆく自分―素晴らしく巧みな対照です。
結局、堯は大きな落日を見られず、それを妨げる雲が燃える幻覚を見るところで小説は終わっていきます。
この終わり方はマイナス思考ではありますが、確かにまとまっていて予備知識なしで読めば、ここで完結していると誰しもが思う終わり方です。
『冬の日』―感想
一見クライマックスがなく、わけのわからないエピソードの羅列に見えた『冬の日』は、実は連句的つながりを持つ、噛めば噛むほど味が出る素晴らしい小説でした。
時に散文詩と言われることもあるくらいで、
- 「堯はこの頃生きる熱意をまるで感じなくなっていた」(第1章)
- 「『痴呆のような幸福だ』と彼は思った」(第3章)
- 「こんなに美しいときが、なぜこんなに短いのだろう」(第6章)
などなど、この文章中では紹介できませんでしたが、珠玉のような言葉が散見されます。
若くして死ななければならなかった堯の心情、それに折田という素晴らしい人間の存在。
答えのない問題に答えを超越した「答え」がある驚き。私はそんなことを強く感じました。みなさんはいかがだったでしょうか。
以上、『冬の日』のあらすじと考察と感想でした。
テキストは『梶井基次郎全集 全一巻』(ちくま文庫、1986年8月)を使用。
芭蕉の『冬の日』は『芭蕉七部集』(岩波書店、新日本古典文学大系、1990年3月)を使用。
他に内田照子『評伝評論梶井基次郎』(牧野出版、1993年6月)及び『新潮日本文学アルバム梶井基次郎』(新潮社、1985年7月)を参考にしました。