『渋江抽斎』の紹介
『渋江抽斎』(※読み:しぶえちゅうさい)は、1916年(大正5年)1月から5月にかけて、『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に連載された森鷗外の長編小説です。
森鷗外は晩年、史伝小説の道に進み、『渋江抽斎』・『井沢蘭軒』(1916年6月連載開始、1917年9月完結)・『北条霞亭』(1917年10月連載開始、1921年完結)は鷗外の史伝三部作と称されています。
ここでは、そんな『渋江抽斎』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『渋江抽斎』-あらすじ
渋江抽斎は、江戸時代後期の医者・考証学者です。
抽斎は、医学を井沢蘭軒から学び、弘前藩(現在の青森県西部)の侍医を務めた他、考証学者として漢・国学の実証的研究にも功績を残しました。
歴史小説を執筆するため、資料収集を続けていた鷗外は、その過程で渋江抽斎という人物を知り、興味を持つようになります。
鷗外は、渋江抽斎の実績、交友関係、家庭生活、子孫に至るまで克明に調べ上げ、その生涯を伝記として描き出しました。
『渋江抽斎』-概要
物語の主人公 |
渋江抽斎:〈文化2年11月8日(1805年12月28日)-安政5年8月29日(1858年10月5日)〉 |
主な舞台 |
江戸 |
時代背景 |
江戸時代後期~大正 |
作者 |
森鷗外 |
『渋江抽斎』―解説(考察)
史伝小説とは?
『渋江抽斎』は、鷗外の史伝小説第一作目となる作品です。
『興津弥五右衛門の遺書』(1911年10月発表)以降、鷗外は歴史小説の創作を続けていました。
これらの【歴史小説】と、『渋江抽斎』以降の【史伝小説】は何が異なるか?
類似のジャンル【時代小説】も含めて、違いを整理したいと思います。
【史伝小説】・【歴史小説】・【時代小説】の分類
史伝小説 |
史実をより正確に表現した小説 |
歴史小説 |
実在した過去の人物などを用いて、史実をもとに書かれた小説 |
時代小説 |
過去の時代や人物、出来事などを題材とした虚構を描く小説 |
フィクションの要素が占める割合は、表の上側に向かう程小さくなり、表の下側へ向かうほど大きくなっています。
すなわち、史伝小説は、最も史実や歴史学に近いノンフィクション小説と整理することができます。
『渋江抽斎』の構成は、大きく分けて三つの内容に分かれています。
1章~64章 |
渋江抽斎の生涯(誕生~亡くなるまでの、実績、交友関係、家庭生活など) |
65章~107章 |
渋江抽斎没後の遺族(中心人物:妻・五百) |
108章~119章 |
五百没後の遺族 |
『渋江抽斎』では、抽斎という一人の人物の生涯を、資料や子孫への接触を通して徹底的に調べ上げている他、抽斎没後の渋江家に至るまでを細かく書き記しています。
その克明な内容は、『渋江抽斎』発表前の歴史小説とは、やはり傾向が大きく異なっていると見ることができるでしょう。
『渋江抽斎』執筆の契機-【武鑑】について
渋江抽斎は、医者、考証学者として功績を残した人物ではありますが、鷗外が『渋江抽斎』執筆に取り掛かった当時、それほど世間に名前が知られてはいませんでした。
そのような中で、鷗外が渋江抽斎という人物を知るに至った契機に【武鑑】の存在があります。
わたくしの抽齋を知つたのは奇縁である。わたくしは醫者になつて大學を出た。そして官吏になつた。然るに少い時から文を作ることを好んでゐたので、いつの間にやら文士の列に加へられることになつた。其文章の題材を、種々の周圍の状況のために、過去に求めるやうになつてから、わたくしは徳川時代の事蹟を捜つた。そこに武鑑を檢する必要が生じた。
武鑑は、わたくしの見る所によれば、徳川史を窮むるに闕くべからざる史料である。(中略)記載の全體を観察すれば、徳川時代の某年某月の現在人物等を断面的に知るには、これに優る史料は無い。そこでわたくしは自ら武鑑を蒐集することに着手した。
此蒐集の間に、わたくしは弘前醫者官澀江氏蔵書記を云ふ朱印のある本に度々出逢つて、中には買ひ入れたのもある。わたくしはこれによつて弘前の官醫で澀江と云ふ人が、多く武鑑を蔵してゐたと云ふことを、先づ知つた。森鷗外,『森鷗外全集第四巻』,筑摩書房,1971,48頁~49頁
【武鑑】とは何か、まとめると
- 江戸時代に出版された、武家の大要(諸大名や幕府役人の氏名・石高・俸給・家紋等)がわかる名鑑
と説明することができます。
鷗外の旧蔵書約一万八千冊は、遺族によって東京大学に寄贈されており、現在も「鷗外文庫」として東京大学総合図書館に所蔵されています。
その蔵書の中に武鑑も多く含まれており、鷗外文庫の書入などによると、1914年頃から武鑑収集が開始されたと推定することができます。
鷗外は歴史小説の史料として武鑑を収集する中で、渋江抽斎という人物が多く蔵書していた事実に気がついて興味を抱くようになり、抽斎その人を調べ上げるようになりました。
自身も医者であり、官吏であり、作家でもあった鷗外は、己の立場と似ている抽斎に惹かれずにはいられなかったのでしょう。
『渋江抽斎』では、鷗外が抽斎という人物を知った経緯、そこから子孫を探し出して接触を図る過程まで詳細に記されています。
これは、鷗外が残した日記や書簡にも形跡を見ていくことができます(大正4年10月15日渋江終吉(※抽斎の五男・修の子)宛書簡、大正4年10月19日渋江保(※抽斎の七男)宛書簡など)。
『渋江抽斎』の本文、あるいは鷗外の日記や書簡からは、『渋江抽斎』執筆の足跡をリアルに感じ取ることができ、とても読み応えを感じます。
作品の特徴
残念ながら『渋江抽斎』発表当時の評判について、裏付けをとるに至りませんでしたが、先行研究等によると、どうやら当時の鷗外の史伝小説は正統な評価を与えられなかったようです。
現代においても、『渋江抽斎』レビューで検索してみると、傑作などと称される一方で、意味が分からない・退屈・つまらないなどの感想も多々見られます。
それほど有名ではなかった渋江抽斎にスポットを当て、その生涯や没後の渋江家について、淡々と客観的に書き綴った『渋江抽斎』は、確かにそれまでの歴史小説とは異彩を放っており、作品の良さが分かりにくいという点は理解できます。
では、『渋江抽斎』の優れている点、作品の魅力・特徴とはどのように説明できるか。
明治昭和期の小説家・永井荷風の随筆『隠居のこゞと(抄)』(大正12年中稿)では、『渋江抽斎』に関する記述が見られます。
この随筆では、『渋江抽斎』の魅力が記されており、非常に分かりやすいと感じたため、これをもとに作品の特徴を整理したいと思います。
※永井荷風(1879年12月3日-1959年4月30日)
明治・昭和期の小説家、随筆家。耽美派の作家として知られる。
代表作として『あめりか物語』(1908年)、『腕くらべ』(1918年)、『つゆのあとさき』(1931年)など。
森鷗外を文学上の生涯の師として仰いだ。
〈『渋江抽斎』の特徴まとめ〉
- 執筆を思い立った動機に起因する精細な考証
- 古人に対する畏敬と親愛の情を述べ、渋江抽斎を始めとする登場人物を生き生きと描き出している点
- 渋江抽斎を中心に、江戸時代から明治大正に至る時運の軌跡を窺い知らしめている点
- 言文一致の体裁を採って漢文古典の品や趣、余韻を備えると同時に、西洋近代の詩文に見られるような鋭敏な感覚と精彩に富んでいる点
(1)について、永井荷風は次のように述べています。
大正紀元の頃より先生は頻に江戸武鑑の蒐集に力を盡されしが偶然その事より江戸時代の一學醫澀江抽齋なるものゝ生涯と性行との甚よく先生と相似たるものあるを知り、且つその傳記の審かならざるを遺憾となし、遂にこれが考證に従事せらるゝに至りしと云ふ。
森鷗外,『森鷗外全集別巻』,筑摩書房,1971,287~288頁
渋江抽斎にスポットを当てた理由が明確であり、そこから精細な考証、並びに(2)に示した古人に対する畏敬と親愛の情が生まれていること。
そしてそれらが、登場人物らの生き生きとした描写に繋がっていること。
これらは、『渋江抽斎』という作品が傑作と言われる所以であろうと思います。
また、(3)について、作品構成は既にまとめましたが、それを見ても分かるように、『渋江抽斎』は単に抽斎という一人の人物の生涯を描いた伝記ではありません。
その子孫の代まで詳しく調べており、江戸-明治-大正にまたがる動乱の時代を生きた日本人の姿をありありと映し出しています。
これは、他の歴史小説、史伝に類を見ない、新しい試みであったと思われます。
最後に(4)の文体に関する内容として、永井荷風は次のように述べています。
余が抽齋傳の文につきて特に感歎措く能はざるものは、全篇一百十九囘の長きに渉りて意氣一貫、文勢更に弛緩の迹なく、時に應じ處に臨みて一揚一抑自由自在なるに在り。正に大河の洋々として山を廻り囃しを潤し街を貫き細流を合せて海に入るの氣概あるものと云ふべし。美辭を連ねて文を飾るは易し。文の簡疏も又推敲の苦を厭はずんば敢て爲し難きにあらざるべし。濁文勢抑揚の間、語路委曲の中、おのづから一氣貫穿の妙を失はざらしむるに至つては學ばんとして容易に學ぶべきにあらず。
森鷗外,『森鷗外全集別巻』,筑摩書房,1971,292頁
『渋江抽斎』は分量が多く、登場人物も多いため、簡単に読める作品ではないと思います。
しかし、文体自体は淡々とすっきりしていて、違和感なくスッと入ってくるような感覚があります。
情報量が多いだけに、並の作家では破綻するであろう作品を確とまとめ、且つ小説という形に仕上げている文章力は、他作品にはない『渋江抽斎』の特徴の一つに違いありません。
『渋江抽斎』―感想
歴史史料としての側面
以上、『渋江抽斎』の作品特徴を解説しました。
その中でも、個人的には(3)渋江抽斎を中心に、江戸時代から明治大正に至る時運の軌跡を窺い知らしめている点が、特に魅力に感じます。
渋江抽斎という、あまり世に知られていなかった人物を発掘しただけでなく、当時の日本人の群像を詳細に描き出したという点は、この作品の最大の功績ではないかと思います。
もともと幕末・明治オタクのケがある私ですが、専ら攘夷志士大好き人間なので、知識が非常に限定的で、動乱の世を生き抜いた多くの一般的な日本人の生き様はさっぱり、という体たらくでした。
しかし、『渋江抽斎』では、明治維新という大きな波を乗り越えていく渋江家の人々の姿が、妻・五百を中心に生き生きと描かれていて、読了後は、とても視野が広がったような気がしています。
歴史史料としても、非常に面白い作品だと思うので、江戸、明治、大正の歴史をよく知らない方、もっと知りたいという方にも是非おすすめしたい小説です。
以上、森鷗外『渋江抽斎』のあらすじ・解説・感想でした。
【参考】
・森林太郎,『鷗外全集 第三十五巻』,岩波書店,1975
・森林太郎,『鷗外全集 第三十六巻』,岩波書店,1975