ヴァージニア・ウルフ『オーランドー』オーランドーは何者なのか?

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ヴァージニア・ウルフ『オーランドー』オーランドーは何者なのか?

『オーランドー』の紹介

『オーランドー』は、1928年にヴァージニア・ウルフによって書かれた小説です。

ウルフは英国モダニズム文学を代表する作家で、『ダロウェイ夫人』『波』『灯台へ』などの作品を書きました。

「意識の流れ」手法を使った文体で有名ですが、近年ではフェミニズム文学作家としての注目も高まっています。

『オーランドー』にも、フェミニズム文学として掘り下げられる要素が盛り込まれています。

ここでは、『オーランドー』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。

『オーランドー』―あらすじ

オーランドーは、エリザベス一世の寵愛を受ける美青年。しかし、色恋に耽っては宮廷で大スキャンダルを巻き起こし、詩作に励んでは尊敬する詩人に裏切られる思いをする。

ある時七日間の昏睡状態に陥り、目が覚めると突然自分が女性になっていることに気がつく。

時に性の変化に戸惑いながらも、ジプシーとともに旅をしたり、英国に戻って社交界に出たりと、16世紀から20世紀にかけてさまざまな状況を生きるオーランドーは、ついにヒースの野で出会ったマーマデューク・ボンスロップ・シェルマーダインと結婚する。

その後は再び詩作に励み詩集を世に出したり、シェルマーダインとの子を授かったりしながら月日を過ごし、最後旅から帰ってくる夫を迎えて終わる、ひとりの男性かつ女性の半生を辿ったメタ伝記。

『オーランドー』―概要

時代 16世紀~20世紀
舞台 英国
おもな登場人物 オーランドー(主人公)
サーシャ、エリザベス女王、ニック・グリーン、マーマデューク・ボンスロップ・シェルマーダイン
著者 ヴァージニア・ウルフ

『オーランドー』―解説(考察)

オーランドーは何者か

この本は、美少年オーランドーの人生を追う伝記のかたちを取った小説です。

しかし、ここには奇妙な点がいくつかあります。

ひとつめは、「エリザベス一世の寵臣」から「大使」、「女性」、そして「詩人」まで、一人の少年がなるにはいささか不可能なほどの肩書を持つことになる点です。

ふたつめは、時代の移り変わりとオーランドーの年の取り方が矛盾している点です。

16世紀に少年時代を過ごしたオーランドーは、20世紀には少なくとも300歳を超えていることになりますが、物語の中でははっきりと36歳と明記されています。

時代の変遷のなかで、オーランドーがどのような人物として生きていたかをまとめてみました。

16世紀
(少年期~青年期)
エリザベス一世の寵臣。
ロシアの姫君サーシャを熱愛、大スキャンダルに。
→宮廷追放。
(田舎に引き籠り、七日間昏睡。)
詩作に熱中。詩人志望。
しかし詩人のニック・グリーンに自身の詩を揶揄されてしまう。
自らが無名であることに自由と喜びを見出す。
館を整え、宴に明け暮れる。
トルコで大使に。
(30歳) 七日間の昏睡ののち、女性に性転換していることが発覚。
ジプシーに仲間入りし、旅をする。
17世紀 英国に戻り、当世風の貴婦人になる。
18世紀 社交界へ出て文士たちのパトロンに。
(時々男装して外出)
19世紀 マーマデューク・ボンスロップ・シェルマーダインの妻になる。
詩人になり、詩集を出版する。
20世紀
(36歳頃)
男児の母親になる。

時を超え、役者のようにさまざまな人物になり変わる彼/彼女は、結局のところ何者なのでしょうか。

男か女か

この本の中でもっとも大きくオーランドーが変わる瞬間のひとつ、性の行き来は、彼/彼女が何者なのかということを考えるのに重要な要素でもあります。

オーランドーは30歳になったある日、七日間の昏睡の末、いきなり女性に性転換してしまいます。

しかし、当の本人はそのことに対しさほど気にするそぶりもなく、自然に自分の両性具有性を受け入れます。

トランペットの音は消えゆき、オーランドーは素っ裸で立っていた。開闢以来、かくも魅惑的な人は見たことがない。彼の姿は、男の力強さと女の優美さを兼ねそなえていた。
(中略)この待ち時間を活用して、所見を述べておこう。オーランドーは女になった――

(ヴァージニア・ウルフ『オーランドー』杉山洋子訳, 筑摩書房, p121)

その後はずっとスカートに身を包んだ女性として生きていくかと思いきや、女性になってからもズボンを履いて男性のような身なりをし、街に繰り出しては男女構わずさまざまな人々と交流を持ちます。(時に体の関係も持ちます。)

彼/彼女のなかの男性性と女性性は、ときに片方が優位に立ち、ときにはもう片方が優位に立ちながら、同居しているのです。

その曖昧さは物語の最後まで続き、はっきりとオーランドーをどちらかの性に位置づけることはできません。

現代版テイレシアス

男性と女性の両方として生きる経験をするということは、両方の心を理解するようになるということでもあります。

「海に飛びこんで水夫に救けて貰ったらどんなにいい気持かな、なんて本気で考えちゃう」
(中略)「しかしだ、(中略)ああ! ああ!」と結論に達したところでまた声をあげて「それじゃあ、これからはどんなに無茶でも、男性の意見を尊重しなくちゃならないのか? スカート履いて、泳げなくて、水夫に助けて貰わなくちゃならないわけだから、ああ、ああ!」と声をあげ「だからそうしなくちゃいけないんだ!」で、憂鬱になってしまった。

(ヴァージニア・ウルフ『オーランドー』杉山洋子訳, 筑摩書房, pp136-137)

女性になって間もないオーランドーは、男性に優しくされるのが楽しくて仕方がありませんでしたが、そのとき、それと引き換えに、女性の立場が男性より下であることを認めなければならないのだということに気がつきます。

また、男性の頃女性に対して思っていた「こうであるべき」という主張はナンセンスだったと考え直します。

この両性具有者としての性の認識に注目するとき、ギリシア神話に登場するテイレシアスを思い浮かべることができます。

テイレシアスはもともと男性でしたが、交尾中の蛇を打つと女性に変わり、9年後ふたたび交尾中の蛇を打つと男性に戻ったと言われている人物です。

両性の快楽を知っているテイレシアスは、神ゼウスと妻のヘラに、性交時の男女の快楽はどちらが大きいかという質問をされ、女性だと答えるとヘラの怒りを買い盲目にされてしまいます。

両性の喜びも苦労も知ることとなったオーランドーは、まさに現在版テイレシアスと言えるでしょう。

さらにその気づきは男女の立場や地位の違いにまでおよび、現代だからこそ語ることのできるフェミニズム的主張を含んだ、鋭い主張にもなっていると言えます。

社会的地位・役割

それぞれの時代の人生を生きていく中で、オーランドーはさまざまな社会的地位や役割を得ます。

ある時はヴィクトリア朝の貴婦人に、ある時は賞を受賞した詩人に、そしてまたある時は妻や母親に……と、その時の社会に合わせて自らの立場を変えていきます。

このように地位や立場、役割が変わるとき、注目すべきもののひとつが衣服です。

男女の転換の際にもスカートとズボンを履き替えていたオーランドーですが、そのような衣類の変化は、自身の変化に合わせて服を替えるというだけでなく、着るものに合わせて自身を変化させるという意味で重要な役割を担っています。彼/彼女はこれを利用し、自分をその立場に合わせているとも言えますし、衣服によって自分がその立場に立たされているということもできます。

衣服はわれわれの世界観を変え、われらに向ける世間の目を変える。たとえば、バートラス船長は、オーランドーのスカートを見たからこそ、ただちに水夫に日除けを拡げさせ、お肉をもうひと切れどうぞ、とすすめ、長艇で上陸のお供を、と申し出たのだ。長くてふわふわのスカートでなくて、足にぴったりのズボンをはいていたとしたら、そのような敬意などはらわれっこなしであったろう。(中略)という次第で、われわれは服を着るのでなく、服に着られているのだ、われわれは腕や胸を型どって服を作るのだ、としても、心、頭脳、舌は衣服の意のままに型どられているのです。

(ヴァージニア・ウルフ『オーランドー』杉山洋子訳, 筑摩書房, p163)

このような理解をしながら、オーランドは器用に社会的地位・役割に合わせて自らを変身させていきます。

時代精神

時代の移り変わりによって生活や人々の考え方が目まぐるしく変わるなか、どのように自己を見つけ、振る舞うべきかについて、時にオーランドーは迷い、模索します。

19世紀初頭のある日、馬車でロンドンを訪れたオーランドーは、クリスマスツリーやスカートの下に履くクリノリンなどの新たな文化の登場や、結婚、多産、家庭に重きを置くヴィクトリア朝の風習に戸惑います。

また、彼女はヴィクトリア朝の女性として生きていくうちに、ついに結婚願望を持つにいたります。

男女問わず、さまざまな相手と恋愛を楽しんできたオーランドーですが、結婚をしようと思ったきっかけは、自分だけが結婚指輪をはめていないことに気がついたからでした。

今まではスカートやズボンを好きなように脱ぎ着していたにもかかわらず、クリノリンのことを考えるだけで貞節さを重んじるヴィクトリア朝らしい羞恥心を覚える様子や、周りの人々を見て急に結婚願望が芽生える様子から、彼女でさえも時代の流れには抗えず、その時代らしい振る舞いや考えに染まっていることが分かります。

それでも変わらないもの

性別が曖昧で、さまざまな地位や役割を乗り換えこなしていき、時代の変化に戸惑いながらも波に乗って生きていくオーランドーは、一見その人物像がまったく定まっていないようにも見えますが、一貫して変わらないものが二つあると考えられます。

ひとつめは、自然の衝動と情熱に従った生き方です。

人間大切なのはニック・グリーンのジョン・ダン論じゃない、八時間労働議案でも、契約条項でも、工場法でもないのだ、と自分に言ってきかせた。大事なのは、無用で唐突で強烈なもの、生命をかけるほどのもの、赤と青と紫、精神、水しぶき、このヒアシンスのように(と、見事な花壇のそばを通りながら)堕落や従属や薄汚れた人情や同族愛と無縁で、向こう見ずで途方もなくて、わたしのヒヤシンス、つまり夫のボンスロップのようなもの、そう、つまりサーペンタインのおもちゃのボート、歓喜――大切なのは歓喜なのだわ。

(ヴァージニア・ウルフ『オーランドー』杉山洋子訳, 筑摩書房, p253)

オーランドーは、決して周りに翻弄されながら生きているわけではありません。

時代に流されたり周りに影響を受けたりすることはあるものの、自分のやりたいことを常に追い求め、行きたいところへ行き、自ら行動をしていることが分かります。

むしろ心の柔軟さでもってどのような状況をも生き生きと過ごし、常に心の動くものを求めて生きていると言えるでしょう。

ふたつめは、「書くこと」に対する情熱です。

オーランドーは青年の頃詩作で恥をかき一度筆を折りますが、その後結局は文学の道に戻り。文士たちとの交流や膨大な文学作品との出会いを経て、最終的に賞を受賞するまでの詩人になります。

しかしオーランドーは名声には目もくれず、ただ純粋に文学を追い求め続けます。

ここには、著者ウルフ自身の文学への情熱を感じることもできるかもしれませんし、女性が文学界に進出できなかった16世紀から時を追って、ようやく女性作家が男性作家と同じように活躍することができる境地に辿り着いたことを示唆しているとも言えるかもしれません。

『オーランドー』―感想

自由な心

この本における主人公オーランドーの一番の魅力は、彼/彼女の自由さにあると思います。

男性にも女性にも詩人にも大使にもなり、旅がしたくなったらジプシーに交ざり、結婚したくなったら結婚し、好きなところへ行って好きなことをする、オーランドーの自由な生き方は現代でさえ簡単に真似できるものではありません。

時には時代の流行に戸惑いながらも、うまく波に乗りながら自分の心の動くままに行動する彼/彼女には、共感するとともに憧れを感じます。

自然と自由さ

彼/彼女の心の自由さは、この本における自然の描写にも現れているように思います。

『オーランドー』には、自然を賛美する文章がたびたび登場します。(オーランドーが初めて出した詩集のタイトルも『樫の木』でした。)
彼/彼女にとって、自然の前では富も名声も価値がなく、無用なものになってしまいます。

その自然の豊かさや壮大さに、彼女の自由な精神を見て取ることができます。

つまり名声は邪魔で窮屈だ、しかるに無名は霧の如く人を包む、無名は秘かで豊かで自由だ、無名は精神の彷徨を妨げぬ。無名人には暗闇の恵みがふんだんに注がれる。どこへ行こうとどこへ来ようと誰も気にしない。真実を求め語ればよい、自由はわが手にあり、われひとり誠実なり、平安なり。というわけで、樫の木の根元に心安らかに横たわれば、大地にむき出しのこの根の固さがかえって心地よいのであった。

(ヴァージニア・ウルフ『オーランドー』杉山洋子訳, 筑摩書房, p91)

また、彼女の衝動性や、理性よりも情熱に身を任せる心にも、不安定で移ろいやすい自然を感じることができます。

オーランドを自然と重ねて読んでみると彼/彼女の心についてさらに深く掘り下げられるかもしれません。

舞台役者とオーランドー

また、このように器用にいくつもの自分を生きるオーランドーは、舞台の役者のようでもあります。

服装や振る舞いを変えることで男性にも女性にもなり、ころころと役を変えることのできという意味では、役者とオーランドーはまさに同じだと言えるでしょう。

とくに、この本を読むと思い浮かぶのがシェイクスピアの『お気に召すまま』です。

『お気に召すまま』は、オーランドーという男性に恋したロザリンドが、男装してオーランドーに近づき恋の指南をするという筋書きです。

男性と女性の間を行き来するのはオーランドーではなくロザリンドですが、恋の指南中彼女が女性の物真似をしたり(自分自身が本当は女性にもかかわらず)、そもそも昔の演劇では少年が女性役を演じていたりしたことを考えると、三重、四重にも男装と女装が重ねられており、男女の曖昧さが際立ちます。

演劇においては両性のあいだの行き来がとても易く、またどんな役にもなれますが、この自由さはオーランドーにも共通しています。

おわりに

この本は不思議な経験をしながら生きていくオーランドーの物語ですが、彼/彼女の語ることや、ひとつひとつの行動には、現代のわたしたちが共感できることや、鋭い社会批判まで含まれており、さまざまな切り口から読んで楽しむことのできる本だと思います。

もちろん、ひとりの人間の数奇な人生を辿るメタ伝記として読むだけで十分面白いです。

ウルフの作品を読んだことがない方にも、ウルフが好きな方にも楽しんで貰える物語だと思います。

以上、『オーランドー』のあらすじと解説と感想でした。

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