『鮨』紹介
『鮨』は岡本かの子著の短編小説で、1939年1月、『文芸』に掲載されました。
本作は、著者の死の前月に発表された最晩年の作品であり、彼女の代表作の一つにもなっています。
極度の潔癖から生きづらさを抱えた少年が母の愛によって救われるさまを、丁寧な情景描写と流れるような筆致で描いた作品です。
ここでは、『鮨』のあらすじ·解説·感想までをまとめました。
『鮨』あらすじ
福ずしの看板娘·ともよは、五十過ぎぐらいの常連客·湊に好意を寄せています。
ある日、ともよは表通りで偶然湊を見かけ、声をかけました。
湊は虫屋で、西洋の観賞魚の髑髏魚を買ったのだといいます。
お茶でも御馳走しよう、と湊が誘いますが、よい店が見つからず、二人は病院の焼跡の空地に腰を下ろしました。
ともよが、鮨は好きかと尋ねると、湊は、鮨を食べるということが慰みになるのだと答え、その理由を語りはじめます。
幼少期の湊は極度の偏食で、炒り玉子と浅草海苔しか食べることができませんでした。
しかし、彼の潔癖を見かねた母が自らの手で鮨をにぎって与えると、湊ははじめてうまみを感じることができ、それらを次々と平らげることができたのです。
それを機に、だんだんと普通の食事もとれるようになり、湊は見違えるほど健康になったのでした。
語り終えると、湊は買ったばかりの髑髏魚をともよに与えて立ち去ります。
湊はその後、少しも福ずしに姿を見せなくなりました。
ともよはしばらく湊を思って涙を流すことがありましたが、やがて「またどこかの鮨屋へ行ってらっしゃるのだろう」と漠然と考えるだけになりました。
『鮨』概要
主人公 | ともよ:鮨屋「福ずし」の看板娘。湊に好意を寄せている。 |
重要人物 | ともよの父:「福ずし」の主人。 ともよの母:「福ずし」のおかみさん。 湊:「福ずし」の常連客。 店では「先生」と呼ばれている。湊の母:潔癖で食事のとれない湊のために自ら鮨をにぎった。 |
主な舞台 | 東京 |
時代背景 | 昭和時代(1430年代) |
作者 | 岡本かの子 |
『鮨』解説(考察)
岡本かの子の著書には「慈愛」を主題とした作品が多く見られます。本作もその一つです。
『鮨』で描かれているのは、母子の愛情の形であると言えるでしょう。
物語の構造やモチーフから、本作に描かれた愛情とはどのようなものだったのか考察していきたいと思います。
ともよを通して見る湊の孤独
本作の核となるエピソードは、幼少期の湊が母に鮨をにぎってもらう場面でしょう。
しかし、本作の主人公は鮨屋の看板娘·ともよです。
なぜ、本作にはともよの視点が必要だったのでしょうか。
それは、湊の孤独をより引き立てるための演出と考えられます。
ともよと湊はそれぞれ孤独を抱えていますが、その性質はまったく異なります。
二人の孤独の性質のちがいは、下記のように言い表すことができます。
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- ともよ=「こだわり」のなさに由来する孤独
- 湊=過剰な「こだわり」に由来する孤独
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それぞれについて、詳しくみていきたいと思います。
ともよの孤独
ともよの孤独は、めいめい独立した両親の雰囲気と、鮨屋の看板娘という立場から生まれたものです。
彼女は、鮨屋の娘である自分を「杭根のみどりの苔」と例えています。
ともよは学校の遠足会で多摩川べりへ行ったことがあった。春さきの小川の淀みの淵を覗いていると、いくつも鮒が泳ぎ流れて来て、新茶のような青い水の中に尾鰭を閃めかしては、杭根の苔を食んで、また流れ去って行く。するともうあとの鮒が流れ溜って尾鰭を閃めかしている。流れ来り、流れ去るのだが、その交替は人間の意識の眼には留まらないほどすみやかでかすかな作業のようで、いつも若干の同じ魚が、そこに遊んでいるかとも思える。ときどきは不精そうな鯰も来た。
自分の店の客の新陳代謝はともよにはこの春の川の魚のようにも感ぜられた。(たとえ常連というグループはあっても、そのなかの一人一人はいつか変っている)自分は杭根のみどりの苔のように感じた。みんな自分に軽く触れては慰められて行く。(後略)
岡本かの子『ちくま日本文学037 岡本かの子』,筑摩書房, 160-161頁
彼女は、鮨屋という場所の気軽さのために、誰しもが「こだわり」なく過ぎ去っていくことに孤独を感じています。
「こだわり」とは、「執着」とも言い換えられるでしょう。
他人に対して、あるいは他人から、「執着」を感じられないからこそ、彼女は漠然とした孤独を抱えているのです。
しかし、彼女は孤独を憂うのと同時に、そんな自分をどこか誇りに感じてもいます。
(前略)ともよは店のサーヴィスを義務とも辛抱とも感じなかった。胸も腰もつくろわない少女じみたカシミヤの制服を着て、有合せの男下駄をカランカラン引きずって、客へ茶を運ぶ。客が情事めいたことをいって揶揄うと、ともよは口をちょっと尖らし、片方の肩をいっしょに釣上げて
「困るわそんなこと、何とも返事できないわ」
という。さすがに、それにはごく軽い媚びが声に捩れて消える。客は仄かな明るいものを自分の気持ちのなかに点じられて笑う。ともよは、その程度の福ずしの看板娘であった。岡本かの子『ちくま日本文学037 岡本かの子』,筑摩書房, 161頁
ともよは「こだわり」なく過ぎ去っていく他人に虚しさを感じつつも、自身もまた「こだわり」なく客に媚びることができるのです。
そして、ともよ自身、そんな自分に嫌悪は感じていません。
ともよの孤独は自ら選びとった側面があり、思春期らしい憧れを秘めた感情といえるでしょう。
湊の孤独
一方の湊は、周囲の環境というより、生まれ持った性質によって孤独を味わっています。
彼の潔癖とは、何事においても自分の思う形でなければ気が済まない、過剰な「こだわり」でした。
(前略)おやつにせいぜい塩煎餅ぐらいを望んだ。食べるときは、上歯と下歯を叮嚀に揃え円い形の煎餅の端を規則正しく嚙み取った。(中略)いざ、嚙み破るときに子供は眼を薄く瞑り耳を澄ます。
ぺちん
同じ、ぺちんという音にも、いろいろの性質があった。子供は聞き慣れてその音の種類を聞き分けた。
ある一定の調子の響きを聞き当てたとき、子供はぶるぶると胴慄いした。子供は煎餅を持った手を控えて、しばらく考え込む。うっすら眼に涙を溜めている。岡本かの子『ちくま日本文学037 岡本かの子』,筑摩書房, 170頁
食べるという動作一つとっても、触覚·視覚·聴覚とあらゆる角度からの「こだわり」を持ち、それを再現することに深い喜びを感じていることがわかります。
しかし、そうした「こだわり」に従った結果、彼は「炒り玉子と浅草海苔」しか口にできず、「空気のような喰べもの」を求めて「冷たく透き通った水晶の置きもの」を舐めることになってしまいます。
湊の「こだわり」とは、自分の思う形でなければ気が済まない、というものでした。
だからこそ「色、香、味のある」ものを含むと、拒絶反応が出てしまうのです。
では、なぜ「炒り玉子と浅草海苔」は口にすることができたのでしょうか。
「玉子」とは生命が形作られる前の状態のものです。
湊が、形ないものを求めている、ということを象徴したモチーフと思われます。
また、彼が切ない感情でいっぱいになったときに食む「酸味のある柔いもの」というのも、果物が熟れていない未熟なもの、つまり形作られる前のものを象徴したモチーフといえます。
対して「浅草海苔」とは、江戸時代に紙漉きの技術を利用して生まれた、四角く成形された海苔のことです。
私たちが一般的に目にする、板海苔をイメージしてもらえばよいと思います。
「玉子」とは反対に、人工的に成形された食品ですが、これが湊の思い描く形にたまたま合致したのでしょう。
板海苔は魚や肉·野菜などと異なり、どれも形状や食感が均一になっています。
求めるものと食いちがう心配が少ないため、かろうじて口にできたのかもしれません。
こうした過剰な「こだわり」のために、湊は痩せ細り、父や兄姉からもいやな目で見られます。
湊の孤独は、ともよのようにコントロールできる余地がなく、生死にかかわるほど切羽詰まったものだったのです。
「こだわり」への憧れ
ともよは、亭主が常連のみに「鰹の中落だの、鮑の腸だの、鯛の白子だの」を気まぐれに振る舞う、その「こだわり」のなさに飽きあきしていました。
一方、「鮨の喰べ方のコース」が決まっており、「潔癖な性分」で「窮屈な客」である湊に好感を抱いています。
ともよにとって湊は、自分の孤独をわかってくれると同時に、自分の知らない孤独も抱えている、共感と憧れを兼ね備えた存在でした。
だからこそ、彼に対して「自分をほぐしてくれるなにか暖味のある刺戟のような感じ」を抱きつつ、一方で「自分を支えている力を暈されて危いような」気もしています。
ともよの無邪気さを含んだ孤独を描くことで、そこに対峙する湊の孤独の深さが引き立っているのです。
「母の愛」とは何だったのか
では、それほど切迫しているにも関わらず、容易には捨てきれない「こだわり」を抱えた湊が、母の鮨を食べられたのは何故だったのでしょうか。
それは、いうまでもなく母の愛情によるものです。
しかし、単に思いの強さというのでは足りません。
湊の「こだわり」とは、何事においても自分の思う形でなければ気が済まない、という潔癖の性質でした。
これは、食事のみならず、愛情に対しても当てはまります。
湊はしばしば「生みの母親」でない「も一人の幻想のなかの母」を追い求めていました。
「も一人の幻想のなかの母」とは、湊の求める通りの愛情を与えてくれる存在だったのです。
「生みの母親」は湊を守りつつも、父親や教師など周囲の言葉も聞き入れていました。
そこに、湊の求めるものとのギャップが生まれていたのでしょう。
しかし、無理に食事をして嘔吐する息子の姿を見て一念発起した母は、調理器具を新調し、手をよく洗い、自ら鮨をにぎることにしました。
そこには、湊の求めるものを、可能な限り実現しようという意気込みが感じられます。
母が鮨をにぎったとき、湊の中で「生みの母親」と「も一人の幻想のなかの母」が重なって見えたのは、湊の求めるものと母の与えてくれるものが重なったということに他なりません。
「空気のような喰べもの」を求めた湊は、食事においてその「こだわり」を満たすことはどうしても叶いませんでした。
しかし、母はその愛情において、彼の難解な「こだわり」を十分に満たしてくれたのです。
母の鮨は「いちいち大きさが違っていて、形も不細工」でしたが、こうした愛情に対する満足が、目にみえるものへの「こだわり」を超越し、不細工な鮨に「愛感」すら感じさせました。
愛情への「こだわり」を満たすことができたからこそ、そのほかの些細な「こだわり」を自然と手放すことができたのかもしれません。
本作に描かれた「母の愛」とは、子供の望むものに真摯に向き合う姿勢だったのではないでしょうか。
湊はなぜ髑髏魚を手放したのか
髑髏魚が象徴するもの
最後に、作中で非常に印象的な「髑髏魚」というモチーフにも触れておきたいと思います。
身の上話を語ったのち、湊は買ったばかりの髑髏魚をともよに与えて立ち去りました。
このラストシーンには、どのような意味が込められているのでしょうか。
本作における髑髏魚とは、湊の「こだわり」の象徴です。
肉が透明で骨が透けている髑髏魚は、「体内へ、色、香、味のある塊団を入れると、何か身が穢れるような気がした」湊にとって、過剰な「こだわり」を体現した姿といえるからです。
髑髏魚を自ら買い求めたということは、幼少期に抱いていた穢れなさへの「こだわり」を、いまだ完全には捨てきれていないことを示しています。
憧れと生活との葛藤
一方で、現在の湊はほとんど強い「こだわり」を見せません。
服装については「赫い短靴を埃まみれにしてホームスパンを着ている時もあれば、少し古びた結城で着流しのときもある」とあり、鮨の食べ方についても、ともよの勧めたネタに対して「じゃ、それを握って貰おう」とそのまま受け入れています。
福ずしの常連とは「分け隔てなく」話し、住む場所も「一所不定の生活」です。
衣食住にも人間関係にも、「こだわり」が感じられないのです。
この執着のなさは、おそらく意識的なものと思われます。
「こだわり」は生活の障害になるため、普段はあえて無頓着に振る舞っているのでしょう。
それでも、ふと「こだわり」への誘惑が顔を出す瞬間があり、それでつい髑髏魚を買ってしまったのでしょう。
湊はともよに対して「鮨を喰べるということが僕の慰みになる」と語っていました。
彼が福ずしを訪れるのは、こうして「こだわり」にのまれそうになるときだったのかもしれません。
母の鮨を思い出すことができ、かつ、「万事が手軽くこだわりなく行き過ぎて仕舞う」鮨屋は、執着から逃れるのに最適な場所といえます。
しかし、この日、その役割を果たしたのは鮨でなく、ともよでした。
ともよに身の上話をするうち、母の愛情が思い出され、執着から逃れようという思いになったのでしょう。
「こだわり」の象徴である髑髏魚をともよに譲ることで、執着を手放そうとしたのではないでしょうか。
ともよの失恋
このラストシーンはともよ視点で考えると、失恋とも読むことができます。
「あなた、お鮨、本当にお好きなの」「じゃ何故来て食べるの」という問いかけは、自分に気があるかどうかを確かめているようです。
しかし、湊は幼少期を語るという歩み寄りを見せたかと思うと、以降、姿を見せなくなります。
ともよに髑髏魚を与えるということは、執着を手放す=ともよに関しても特別視しない、ということになります。
つまり、ともよの気持ちには答えられない、という意思表示だったのかもしれません。
しばらく湊に執着していたともよでしたが、やがて「また何処かの鮨屋へ行ってらっしゃるのだろう」と漠然と考えるのみになります。
彼女の孤独は、やはりそれほどひっ迫したものではないように思われます。
ともよは、まだもう少し鮨屋の看板娘として、幸福な孤独の中を生きていくのでしょう。
感想
鮨という料理のもつ力
岡本かの子の作品は、流れるようなリズムの良さと描写の美しさが魅力ですが、本作の核となる、湊がはじめて鮨を食べたときの場面描写は特に印象的でした。
白く透き通る切片は、咀嚼のために、上品なうま味に衝きくずされ、ほどよい滋味の圧感に混って、子供の細い咽喉へ通って行った。
「今のは、たしかに、ほんとうの魚に違いない。自分は、魚が喰べられたのだ――」
そう気づくと、子供は、はじめて、生きているものを嚙み殺したような征服と新鮮を感じ、あたりを広く見廻したい歓びを感じた。むずむずする両方の脇腹を、同じような歓びで、じっとしていられない手の指で摑み搔いた。
「ひ ひ ひ ひ ひ」
無暗に疳高に子供は笑った。母親は、勝利は自分のものだと見てとると、指についた飯粒を、ひとつひとつ払い落したりしてから、わざと落ちついて蠅帳のなかを子供に見せぬよう覗いて云った。岡本かの子『ちくま日本文学037 岡本かの子』,筑摩書房, 178-179頁
偏食の湊に与える食事として、生臭みの強い鮨はややハードルが高いようにも思われます。
しかし、この描写を読むと、なぜ鮨でなければならなかったのかがよくわかります。
魚の肉を、加熱もせず、切り開いたそのまま食らう。
いわば、野生の食事にちかい鮨という食事にうまみを感じられたからこそ、湊は五十を過ぎてもなお、母に与えられた生きる力を失わずにいられたのではないでしょうか。
鮨というモチーフは、非常に強い力をもって作品全体を引っ張っているように感じます。
破天荒なかの子の愛情の形
著者の岡本かの子は、破天荒な子育てで知られています。
息子の岡本太郎は著書の中で「まことに母性らしからぬ存在」と語っており、幼い太郎を柱にくくりつけて執筆していた、というエピソードなどは有名です。
対して、本作に登場する湊の母は非常に献身的で、母性的な人物です。
かの子自身とは対照的な母親像のようにも思えますが、本作に描かれた「子供の望むものに真摯に向き合う姿勢」は、かの子自身にも共通していたように思えます。
湊の母は、彼の偏食を辛抱強く見守っていましたが、とうとう「学校の先生と学務委員たち」の注意を受けて、「もっと、喰べるものを喰べて、肥ってお呉れ」と懇願しました。
一般的に考えれば、よく食べさせて健康的な身体にしてあげるのが、よい子育てといえるでしょう。
しかし、その理想を押し付けたがために、湊は「喰べ馴れないものを喰べて体が慄え、吐いたりもどしたり、その上、体じゅうが濁り腐って死んじまってもいいとしよう」と開き直り、食べたものを吐いてしまいました。
その失敗を経て、今度は徹底的に湊の思いに寄り添うことで、母は彼を生き延びさせることに成功したのです。
子供に必要だったのは、「よりよい子育て」を再現することではなく、「声を聞いてあげる」ことでした。
私たちが、実際のかの子の子育てについてくわしく知ることはできませんが、太郎の著書を読めば、かの子から深い愛情を受け取っていたことが伝わります。
一般的な「いい母親像」とはかけ離れたかの子でしたが、ままならない子育ての中で、世間一般の「よりよい子育て」を再現することが、愛情の本質ではないことを感じていたのではないでしょうか。
作中のともよの両親は、「とにかく教育だけはしとかなくては」と女学校に通わせましたが、「それから先をどうするかは、全く茫然と」しています。
ともよは、こうした「表面的な施し」と「奥底の無関心」を敏感に察知し、孤独を深めているようにも思われました。
いつか彼女を真摯に見つめ、深い愛情を与えてくれる人は現れるのでしょうか。
ともよの未来の幸せを、つい祈ってしまいます。
以上、『鮨』のあらすじ、考察と感想でした。