『禽獣』あらすじ!川端康成が本書を嫌った理由も

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『禽獣』あらすじ!川端康成が本書を嫌った理由も

『禽獣』の紹介

『禽獣』は川端康成の短編小説で、昭和8年に「改造」7月号に掲載されました。

川端康成が34歳の時の作品になります。

『禽獣』は川端文学の中でも重要な作品の1つと言われておりますが、川端康成自身は、この作品には繰り返し嫌悪感をあらわしており、「できるだけ、いやらしいものを書いてやれと、いささか意地悪まぎれの作品であった」と文学的自叙伝の中でも述べております。

主人公の「彼」は厭人癖のある、純血である愛玩動物(ペット)のみを愛する、孤独な独身男性です。

川端康成自身も純血の犬をたくさん飼っていた時期もあり、「彼」との共通点も多いことから、自分が「彼」のモデルであると思われることにも嫌悪をあらわしています。

しかし、三島由紀夫はじめ多くの作家が『禽獣』を名作として高く評価しております。

三島も川端作品の上位に『禽獣』を取り上げております

ここではそんな『禽獣』のあらすじ、解説、感想をまとめました。

『禽獣』―あらすじ

主人公の「彼」は小鳥の鳴き声で「白日夢」から目が覚めます。昔の女である千花子の踊りを見に、日比谷公会堂の舞踏会にタクシーで向かっている途中でした。

タクシーは葬儀の自動車の列の中に入り込みます。

その前の古いトラックには葬儀で使う放鳥用の大きな鳥籠がのってあり、翼の音が乱れて聞こえました。

「彼」はタクシーの運転手に途中で葬式に出会うのは縁起が悪いと言いますが、運転手はむしろ縁起がいいと、逆のことを言います。

「おかしいね。逆なんだね」と言いながら、「彼」は自分の家に動物の死骸を置きっぱなしにしていることを思い出し、そちらの方が、縁起が悪いと思います。

菊戴という小鳥の番の死骸を鳥籠から出すのも面倒臭く、押入に1週間以上も放り込んだままなのでした。

菊戴は寝姿がとても美しく、番の2羽は寄り添ってそれぞれの首を相手の体の羽毛の中に突っ込んで、1つの毛糸の鞠のように円くなって寝ます。

「彼」は小鳥屋が持ってきた菊戴を大変気に入り、食事をする時も、鳥籠を食卓において眺めながら食事をするほどでした。

ところがある日、菊戴の1羽が籠から家の外に逃げ出します。

雌が1羽だけ残されて不憫に思い、小鳥屋に新たに番をもらうが、新しく来た雌はすぐに死んでしまいます。

古い雌のほうが生き残り、「彼」は死んだ雌をゴミ箱に捨ててしまいます。

また菊戴を水浴びさせている時に、塀の外から子供たちの声が聞こえたので、塀の上からのぞくと、ゴミ捨て場に1羽の雲雀の子供が捨てられていました。

助けて育ててやろうと「彼」は思うが、鳴鳥として見込みがなくて棄てられたのだと知ると、屑鳥など拾っても仕方がないと、仏心は忽ち消えて、冷淡になって見捨ててしまいます。

また男嫌いな「彼」は、犬も雌ばかり飼っていました。

それは男嫌いとは関係なく、犬の出産と育児が楽しいからでした。

ある時、飼っていたボストン・テリアが紐を嚙み切って出歩き、野良犬がかかってしまい、雑種の子を産みます。

少しきまり悪そうに、はにかみながらも大変あどけなく人まかせで、自分のしていることに何の責任も感じていないらしい、ボストン・テリアの顔を見た時に、「彼」は10年前の千花子を思い出したのでした。

娼婦であった彼女は「彼」に自分を売る時に、ちょうどこの犬のような顔をしていたのでした。

その後千花子はハルビンに行き、ロシア人に舞踏を習い、満州から東京へ戻ると、同行の伴奏弾きと結婚して自分の舞踏会を催すようになっていました。「彼」は彼女の肉体の野蛮な頽廃に惹かれて、なぜあの頃結婚しておかなかったのかとさえ思いました。

しかし後年、子供を出産した千花子の肉体の力は、げっそりと鈍って見えました。

ボストン・テリアが生んだ子犬は3頭とも、母犬の下敷きになって次々に死んでしまいます。

「彼」は死んだ子犬を散歩のついでに捨てたりします。子犬も助けようとすれば助けられたのに、「彼」は助けようとはしませんでした。

「彼」がそれほど冷淡であったのは、子犬が雑種だからでした。

水浴びをして「彼」が目を離したすきに、水を浴びすぎた菊戴は、体の底まで冷え切ってしまい動かなくなってしまいます。

「彼」は菊戴を火鉢で暖めたり、番茶を飲ましたり、必死で看病しますが、その甲斐もなく6日目の朝には2羽とも死んでしまいます。

すぐに新たな番を飼いますが、またしても水浴で死なせてしまいます。次は「彼」も以前のように菊戴を助けようとはしませんでした。この時死んだ菊戴を押入にいれたままにしていたのでした。

「彼」は日比谷公会堂で、2年振りに見る千花子の踊りの堕落に目をそむけます。

野蛮な力の名残は、俗悪な媚態に過ぎず、踊の基礎の形も、肉体の張りとともにすっかり崩れてしまっていました。

千花子の楽屋に会いに行った時に、若い男に化粧をさせている千花子を見て、「彼」はその入り口でドアに体を隠してしまいます。

自分を相手にまかせきった風に、じっと動かない真っ白な顔は、命のない人形のように見え、まるで死顔のように見えました。

10年近く前に「彼」は千花子と心中しようとしたことがありました。

「彼」に背を向けて目を閉じて、合掌している千花子を見て、「彼」は稲妻のように、虚無のありがたさに打たれます。そしてどのようなことがあろうと、この女をありがたく思い続けねばならないと思います。

踊りの化粧を若い子にさせている千花子が、その合掌の顔を、彼に思い出させたのでした。

楽屋から引き返す廊下で「彼」は千花子の旦那の伴奏引きと出会います。

千花子と離婚していた元旦那は「千花子の踊は抜群ですね。いいですなぁ」と言うのを聞いて、「彼」は自分も何か甘いものを見つけなければと思います。すると1つの文句が浮かんできました。

ちょうど「彼」はその頃少年少女の文章を読むのが楽しみで、16歳でなくなった少女の遺稿集を持っていました。

少女の母親が、死顔を化粧してあげたらしく、その日記の終わりに書いている、その文句は、「生まれて初めて化粧したる顔、花嫁の如し」。

『禽獣』―概要

主人公
重要人物 千花子
登場人物 女中/ タクシー運転手/ 小鳥屋/ 犬屋/ 伴奏引き
主な舞台 タクシーの中⇒ 自分の家(回想)⇒ 日比谷公会堂の楽屋
作者 川端康成

『禽獣』― 解説(考察)

私は『禽獣』を下記の順に考察を進めていきたいと思います。

  1. 現在から過去への回想形式
  2. 主人公である「彼」の人物像
  3. 「彼」の愛情対象となりうる条件とは何か
  4. 千花子との関係

詳しく見ていきましょう。

1.現在から過去への回想形式

『禽獣』ですが、書き出しは下記からはじまります。

「小鳥の鳴声に、彼の白日夢は破れた。」

「彼」は日比谷公会堂に千花子の舞踏会を見にいくために、女中と一緒にタクシーに乗っていました。前のトラックの葬式用の放鳥に使う鳥の鳴き声で、白日夢から覚めるところから物語は始まります。

そして葬式の自動車の列にタクシーが入り込んでしまい、縁起が悪いと思いますが、タクシーの運転手は、逆に縁起がいいと言います。

そこから菊戴の死骸を1週間以上も押入に放置している方が、縁起が悪いと思い、過去の回想に入っていきます。

過去の回想では、菊戴を飼い始めてからの「彼」の愛玩動物との生活、菊戴の水浴中の事故から介抱、「死」へと思い出していきます。

犬屋が、野良犬にかかって雑種を孕んだドーベルマンを、「彼」が紹介した知人に売ってしまい、面目をつぶしてしまったことや、そこからボストン・テリアの雑種の出産から10年前の千花子への回想と続いていきます。

そして日比谷公会堂の楽屋の場面で、過去の回想から現在に戻ってきます。

このように現在から始まり、過去の回想へと入っていく川端康成の手法は、「雪国」や「抒情歌」など多くの作品でも見られます。

川端康成は過去と現在を自在に往復し、時間を複雑に交錯させながら物語を展開させています。

2.主人公である「彼」の人物像

主人公の「彼」はどのような人物でしょうか。

「彼」は動物を愛しますが、厭人癖があり、特に男性が嫌いです。

「彼」は来客に会うのにも愛玩動物を身の回りから離したことがなく、動物ばかりを見て 相手の話はろくに聞かず、客が立ち上がるまで相手の顔すら見ないことが多かったのでした。そして自分を訪ねて来た客に向かってこう言います。

「僕は年のせいか、男と会うのがだんだん嫌になって来てね。男っていやなもんだね。直ぐこっちが疲れる。飯を食うのも、旅行をするのも、相手はやっぱり女性に限るね」
「それもね、薄情そうに見える女の方がいいんだから、だめだよ。こいつは薄情だなと思いながら、知らん顔でつきあってるのが、結局一番楽だね。女中もなるべく薄情そうなのを雇うことにしている」

「禽獣」新潮文庫,131頁

このような人物に来客があるほうが不思議ですが、しかし社会と全く繋がりがないかといえばそうではありません。

「彼」は楽壇関係者の1人には数えられており、音楽を理解するというよりも、音楽雑誌に月々お金を出して、顔見知りと馬鹿話をするために音楽会には参加していたのでした。

しかしここから深い付き合いがあるとは思えません。また小鳥屋や犬屋との繋がりも商売上での客としてのみの繋がりです。希薄な人間関係が伺えます。

しかし人嫌いな「彼」は孤独感、寂寥感も同時にあらわにしています。

「動物はなかなか薄情じゃない。―自分の傍にいつも、なにか生きて動いてるものがいてくれないと、寂しくてやりきれんからさ」

「禽獣」新潮文庫,132頁

「彼」はその孤独感、寂しさを人間ではなく、愛玩動物によって埋めようとしています。

「新しい小鳥の来た二三日は、全く生活がみずみずしい思いに満たされるのであった。この天地のありがたさを感じるのであった。多分彼自身が悪いせいであろうが、人間からはなかなかそのようなものを受け取ることが出来ない。」

「禽獣」新潮文庫,132頁

しかし「彼」の動物への愛は、すべての動物に等しく向けられたものではありませんでした。「彼」が愛情を注ぐ動物には、ある必要な条件を満たす必要があります。そこから外れた動物には「彼」は非情な扱いをしています。では次にその条件とは何かを述べていきます。

3.「彼」の愛情対象となりうる条件とは何か

「彼」の愛情対象となりうるのに必要な条件は2つあると私は考えます。

それは「血」と「生」です。

つまり「血=血統が純血か、雑種か」と「生=生きているか、死んでいるか」の2つが「彼」にとって重要になると考えられます。

この2つの条件を、下記で詳しく見ていきます。

「血=血統」について

彼はゴミ捨て場に棄てられた、雲雀の子を助けて育ててあげようとしますが、鳴鳥として見込みのない雛だと知ったとたん、屑鳥など拾っても仕方がない、と冷淡になり見殺しにします。

またボストン・テリアが雑種の子を3匹産み、母親の下敷きになって順に圧死した時も、「彼」は子犬が下敷きになるのを防ぐこともできたのに、助けようともしませんでした。

それほど冷淡であったのは、子犬が雑種だからでした。

逆に、1回目に菊戴が水浴で溺れてしまったときには、「彼」は必死で助けようとします。

火鉢で暖めすぎて菊戴の足の指が焼けてしまった時は、「彼」は菊戴の両足を自分の口に入れて温めてあげます。いくらかわいがっている小鳥でも、なかなか自分の口に足を入れるようなことはできません。

このように自分で飼っている「純血なもの、純潔で美しいもの」には「彼」は惜しみなく愛情を注ぐのです。

「生と死」について

「彼」は死んでしまった動物に対しても冷淡な対応をしています。

新しく来た菊戴の雌が死んだ時も、女中に黙ってゴミ箱に捨ててしまいます。

また2回目の水浴で再び死んでしまった菊戴も、押入にいれたまま1週間もそのまま放置しています。客のあるたびにその押入を開け閉めしているにもかかわらず、面倒臭く入れたままにしているのです。

ここからは「彼」が死んでしまった愛玩動物には愛情も冷めて、冷淡になってしまう一面が見て取れます。

つまり「彼」は「純血なもの、純潔で美しいもの」でありかつ「生きているもの」にのみ愛情を注ぐことが出来るのです。

4.千花子との関係

最後に「彼」と千花子との関係を見ていきます。

ボストン・テリアの「大変あどけなく人まかせで、自分のしていることに、何の責任も感じていないらしい顔」を見て、10年前の娼婦時代の千花子を思い出します。

千花子もちょうど、あどけなく人まかせな、この犬と同じような顔をしていたのでした。

千花子は19歳の時、ハルビンに行き、そこで舞踏を習い、満州巡業の音楽団に加わり、東京に戻ってから伴奏引きと結婚してからは、自分の舞台に立つようになります。

千花子の踊りを見た「彼」は6.7年前とは別人になった千花子に驚きます。どうして結婚しておかなかったのだろうと後悔までしています。

純潔なものしか愛せない「彼」は、純潔ではない千花子との結婚は、全く考えられないものだったと思われます。しかしその「彼」が、結婚をしておけばよかった、と思わせるほどに千花子の踊りは魅力的だったのでしょう。

「彼女の肉体の野蛮な頽廃に惹かれた。いったいどういう秘密が、彼女をこんな野生に甦らせたのか、六七年前の千花子と思いくらべて、彼は不思議でならなかった。なぜあの頃結婚しておかなかったのかとさえ思った。」

「禽獣」新潮文庫,142頁

しかし子供ができたことにより、千花子の肉体の力はげっそりと鈍くなり、落ちます。

「彼」は千花子に、子供を持ったことを責めます。

現在の、日比谷公会堂での千花子の踊りにも「彼」は目をそむけます。踊りも肉体の張りもすっかり崩れていました。

しかし楽屋で若い男性に化粧をしてもらっている千花子の顔を見て、10年前の、一緒に心中をしようとした時の「合掌した顔」を思い出したのでした。

その千花子の「合掌した顔」に、「彼」は稲妻のように虚無のありがたさに打たれ、「たとえどのようなことがあろうとも、この女をありがたく思い続けねばならない」と心の底から思ったのでした。

この作品でも多く出てくる「千花子の顔」について簡単にまとめると下記のようになります。

  • ボストン・テリアの顔 ⇒人まかせで、あどけなく、自分のしていることの意味を知らぬ顔⇒10年前の千花子の顔
  • 若い男に化粧をしてもらっていた千花子の顔 ⇒命のない人形のような顔 ⇒10年前の合掌している千花子の顔 ⇒白日夢の正体

作品の冒頭に出てくる「白日夢」の正体は、真夏の白日の眩しさに包まれている「千花子の顔」であり、合掌している「千花子の顔」だったのです。

『禽獣』― 感想

『禽獣』は冒頭の紹介にも書いた通り、川端康成が嫌悪感をあらわしている作品です。

「禽獣の彼は私ではない。むしろ嫌悪から出発した作品である。その嫌悪も私の自己嫌悪といふのではなかった。「禽獣」が私の自己を語つてゐるかのやうに誤読され勝ちなので、私は長い間この作品がひどく厭であつた。」

 川端康成「抒情歌,禽獣、あとがき」岩波文庫,202頁

川端康成自身、純血の犬を飼い、舞踏を好み、少年少女の文章を好んだので、『禽獣』の「彼」の半分は彼自身であると私も思います。

「彼」の中にある孤独感も、川端康成の若くして肉親を亡くした孤独感が反映していると思われます。

また作品の最後に「彼」が、死んだ16歳の少女の遺稿集の文句を思い浮かべたのも、それが「純潔で美しいもの」であるからに他なりません。

「純血なもの、純潔で美しいもの」を好むのは「彼」も川端康成も同じかもしれません。

しかし著者自身が、批判し、嫌悪している部分が「彼」に表れているのも事実です。

「動物の生命や生態をおもちゃにして、1つの理想の鋳型を目標と定め、人工的に、畸形的に育てている方が、悲しい純潔であり、神のような爽やかさがあると思うのだ。良種へ良種へと狂奔する、動物虐待的な愛護者達を、彼はこの天地の、また人間の悲劇的な象徴として、冷笑を浴びせながら許している。」

「禽獣」新潮文庫,136頁

人工的に、畸形的に、良種へ、良種へと人工的な美を追い求める姿を、人間の悲劇的な象徴として冷笑しています。

「彼」は冷笑しながらも、それを許して、人工的な美を求めています。

雑種を冷淡に見捨てるのもそのためです。

川端康成自身、日本の自然の美を愛する作家です。

多くの作品で自然の美を描いております。

人工的な、畸形的な美だけを追い求めて狂奔する姿を、人間の悲劇的な姿ととらえ、それをこの作品を通じて批判しているのではないでしょうか。

以上、『禽獣』のあらすじ、考察、感想でした。

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yukio

学生時代から本が好きで、日本文学、海外文学問わず幅広く読みます。好きな作家は三島由紀夫です。趣味は読書のほかに、釣り、国内旅行。いまは仕事してますが、定年後は本を片手に作家ゆかりの地を巡りたいです。