開高健『夜と陽炎』紹介
『夜と陽炎』は、開高氏58年の人生の内、晩年56歳(1986年)の時に耳の奥に刻まれた記憶を基に、自己の人生を纏めたもの、いわば自伝です。
「耳の物語」として2部作で、1部が「破れた繭」、2部が後半生を描いたこの『夜と陽炎』で、先の戦争の復興期から始まります。
ここではそんな『夜と陽炎』のあらすじ&解説を紹介します。
開高健『夜と陽炎』あらすじ
開高氏の自伝「耳の物語」第2部です。53歳頃から手掛けて56歳の時に発表しています。
戦後の復興も進み、開高さんが学生結婚をし、一児の父となった頃から始まります。
育児のため退職する奥様と入れ替わりに、現サントリーに宣伝部員として入社しました。
ドブロクやマッカリがウヰスキーやビールに変わり、サラリーマンは毎夜バーで新しい時代の到来を実感しています。
開高さんは、自分の人生を振り返り「30歳から40歳が戦争取材、それからは釣りが始まり53歳の今この作品を書いている」と述べています。
サントリーでコピーライターの草分けとして2足の草鞋を履いていた20歳代中頃から、南北アメリカ大陸で釣りをしながら縦断した50歳代前半までの約30年間の作家の記録です。話は、大まかに4項目から成ります。
- サラリーマンとの2足の草鞋の時代
- 外国旅行での体験
- 最初のベトナム戦争取材の話
- 世界中で展開する釣りの話
具体的に見てゆきましょう。
1.サラリーマンとの2足の草鞋の時代
開高さんは大学時代から物書きを目指していたが、学生結婚をして一女をもうけました。
現サントリーで、日本でのコピーライターの草分けとして活躍していますが、今も語り伝えられている有名なコピーが多数あります。
「人間らしくやりたいナ、トリスを飲んで人間らしくやりたいナ、人間なんだからナ」のコピーは団塊の世代には懐かしいと思います。
当時のサントリーでは、開高氏の他に、柳原良平や山口瞳氏も在籍していました。
復興期、成長期のサラリーマン生活は、今の基準で言えばブラック企業で、時間のゆとりは少なかったでしょう。
開高さんもコピー制作やPR誌「洋酒天国」の編集、その為の全国の販売代理店の取材等、高度成長期のサラリーマンにつき物の多忙な毎日を送ります。
アフター5の飲み会も「身銭を切らねば旨くない」と毎夜酒場に繰り出していたようです。
開高さんは人見知りであり「顔なじみの薄い人と会うのは1日に3人までが限度」と述べています。
そんな多忙な毎日の中でも、文筆業の志は忘れられず、新聞紙面から得たヒント「笹の実の結実、ネズミの大繁殖」から「パニック」を書きあげ注目されます。
3作目の「裸の王様」で芥川賞を受賞してからは、各出版社からの依頼が殺到し、作家業に専念することになります。
サントリーは退社し、嘱託の身分となりますが、佐治敬三社長とは終生良好な関係を保ち続けています。
2.外国旅行での体験
傍目には醇風満帆な作家人生ですが、内情は苦労だらけの人生の始まりでもあったと言えます。
開高さんは、繊細で神経質、生涯鬱病とも付き合い、また何事も突き詰める性格でしたから、本人も家族も、出版社の担当者も苦労をしたようです。
自宅を購入したが、自宅では気が散るので仕事にならず別宅を購入する、さらに静かな旅館に移る。
昼間は雑音が多く仕事にならないので、昼間は寝て夜仕事をする、なかなか筆が進まないのでウイスキーを適量チビチビとやりながら原稿用紙に向かっています。酒で肝臓を壊したこともあったようです。
筆が進まず行き詰まると、釣りや旅行、海外旅行に逃避し充電します。
やがてそれがエッセーや小説等に纏められ、さらに本格的に戦争取材や、世界中での釣りの仕事が増えてきます。
この作品の書き出しが53歳とのことですが、前3年間で訪れた国が約20ヶ国、生涯で訪れた国が40ケ国以上とのことです。
中国で会った毛沢東を「丸いカボチャ、中国革命史を記憶のままに語るだけ」と評し、サルトルを「社会主義について語る言葉は、自由主義左派の凡庸な通り言葉を出ない」と評しています。
当時はまだ外貨の持ち出し制限があり、単なる「観光」では外貨の獲得が難しく「○○取材」や「作家同盟からの招待」等理由付けに苦労したようです。
そんな中でも特にパリは、お気に入りの場所であったようで何度か訪れています。
そしてパリ市街を歩きまわり、風景、建築物、人を観察し出会った人と交流しています。
まず街の風景の描写です。パリの地形の特徴を「ゆるやかな丘にみたされていて、その底を一本の川が流れている」と簡明に表現しています。
大半がプロである多数の乞食の存在は今も変わらないようですが、セーヌ川の岸辺が汚物まみれと言うのは最近では改善されているようです。
そんな辛口の評価の一方で、素直に感動している場面も描かれています。
シャトル大聖堂を見たとたんに感激し「燦爛と敬虔が手を取りあって乱舞しながらその足音が聞えない、豪奢なのに押しつけがましくない」と感じ取り、この聖堂の建築に関わっただろう無数の、無名の職人達のことを「一匹のアリでありながら心のどこかでは断固として奴隷ではなかった人々」と評しています。
観光客相手にあの手この手で小銭を稼ぐのは、昔から地元の庶民の生活の知恵でしょう。
焼き栗の販売という正統派から始まり、手品等の見世物で小銭を稼ぐのは今も続いているようですが、ブルー.フィルムへの出演依頼があり逃げるのに苦労した話や、「蛙男」の話には驚かされます。
蛙を飲み込み、さらに水を飲んだ後に腹を叩くと、蛙が口から飛び出すというワザです。
パリの乞食の一人に日本の良さをスマートに講義され、思わずお金を弾んでしまった話や、キャフェで出会った人に共感した例も興味を引きます。
「ブルジュワとは何か」との話になり、今は管理人がいるだけの大豪邸を案内され呆然となる、その人のブルジュワ感が「静かに暮らすこと」だが、それには金も要る、車も電話も必要だろうから静かではなくなる。だから「現代にブルジュワと言える人はいない」との見方です。
また、もう一人、スエーデン人女性記者と知り合い、意気投合し一夜を共にするが、終りに二つ折りにした元恋人との写真を見せられます。
彼女の「別れたが何かが残っており、それを忘れたいので少しずつ切ってゆくのだ」との話は男と女の仲の難しさを感じさせます。
その他、スペインで闘牛を鑑賞し、ポーランドではアウシュビッツの強制収容所を訪れてもいます。
翌年南米に逃れていた元ナチスの親衛隊大佐、アイヒマンがイスラエル工作員に拘束され、裁判にかけられます。当然の事、世界中から取材人が集まりますが、開口氏も傍聴しています。
被告の答弁は「命令でした。命令は第3帝国では絶対服従です。私がやらなくても他の誰かがやっていたでしょう」の繰り返しであったとのことです。
裁判結果は「死刑判決」でその通りに執行されています。ただ、拘束時は世界中が騒いだが、死刑執行の際には、報道もコメントも殆ど無かったことに疑問を呈しています。
虐殺の指示をしたのは事実として、死刑の根拠、同様のケースとの比較、イスラエル工作員が多分他国に無断侵入した事の善悪の判断等、基本的な事も一切報道が無かったようです。
3.最初のベトナム戦争取材の話
27歳でデビューし、28歳で芥川賞を受賞しました。
表面的には順調に見える作家人生も、ネタに行き詰まり、酒に逃げ海外旅行に逃げるしかない。
新聞社の派遣員としてベトナム戦争を取材したのは34歳の時です。
それまでのフイクション作家からの転換を模索している時期でもあったようです。
同行のカメラマンと2人ですが、最初は何の情報もなく、すでにある情報を確認する事から始めます。
小規模なクーデターは当たり前、学生デモ、僧侶の抗議の焼身自殺、テロ、犯罪者とされた人の公開処刑等、何でもありの日常の中で逞しく生きてゆくベトナムの人の姿に感銘を受けます。
同じベトナムでも主戦場の南側は、森が深く、クリークが発達し、稲も背丈が高く水田も水が深い、護るのに困難で攻めるに易い地形、南側は自分たちの陣地を鉄条網で囲い、安全を確保しているがその外側は何でもありの危険地域でした。
当時ベトナムの勢力図は、北と南に別れ、北側が共産主義国である北ベトナム政府とベトコン(南ベトナム民族解放戦線)、南側は南ベトナム政府と米軍でした。
客観的に見て南ベトナム政府は腐敗が多く、クーデターも当たり前の状態でした。同じ南側でも米軍と南ベトナム軍では大きな差がある、米軍はステーキを食べ、風呂に入り、水洗トイレを使い、映画を楽しむという具合ですが、政府軍兵士は何もない、家族連れで移動する兵もいるという状況です。
この作品では省略されていますが、開高さんも同行のカメラマンも九死に1生の経験をしています。
最前線での作戦に同行し、ベトコンの待ち伏せ攻撃に会い部隊200人中17名しか生き残りませんでした。
以降毎年、その日2月14日は2人でその日を偲んで酔いつぶれたと言います。このベトナム戦争の体験を発表した後には、「べ平連」で反戦運動にも力を入れ、ニューヨークタイムズ紙の一面に、ベトナム戦争反対の広告を出す計画を主導したりしますが、やがて現場の実情を見ない、知ろうとしない反米左派の人達との間に意見の相違が生じ、離脱しています。
日本では、単に「北、ベトコンは正義」「南、米軍は悪」という単純な見方が大半で、実例を挙げても理解されなかったようですが、以下のような実例を挙げています。
北側は、北ベトナム政府軍とベトコンの連合体制でしたが、北側が勝利したとたんにベトコンは無力化された。
そしてこれは、ベトコン内部で法務大臣であった人物が、コミュニストでなかったばかりに無力化され国外、パリに逃亡した時に公表された手記に載っている話です。
その他、ベトナムにも多数のキリスト教徒が存在し、共産主義の北とは馴染めないという事実や北側の虐殺事件もあったがすべて無視されたということです。
開高さんは家族に戦争取材からの引退を宣言します。
4.世界中で展開する釣りの話
開高さんは終生鬱病と付き合っていたと言います。
繊細で神経質、徹底的に突き詰める人であったようで、テーマは「人間とは何か」だと言われます。行き詰まった時には、釣り等で心をリセットしています。
当初は健康目的で始めたようですが、開高さんの何事も突き詰める性格から、やがて仕事になります。
「オーパ」などのエッセイで知られているアマゾン河での釣り、南北アメリカ大陸で釣りをしながら縦断する週刊誌の企画等がメインとして語られています。
アマゾン河は元々海であったが隆起により今の姿になった話、ベレン等拠点都市以外はジャングルだらけであり、無数の猿やワニ等の世界でもある話が展開されます。
釣りは心の回復になりますが、アマゾン河などでの釣りは、重労働若しくは強制労働とも言えるほどでしょう。
テント生活になる、蛇や虫はいる、ダニや蛭にも食われる、アラスカでは熊の心配もあります。
そんな中で、ふいに音楽が登場します。
アラスカのカー.ラジオで聞いた曲、アルビノーニのアダージョや、アマゾン河の船大工のラジオから聞こえたべート―ベンの「アパッショナータ」等、時々に心に沁みてきます。
ジャングルや砂漠等大自然の中で、正反対ともいえるクラシック音楽を聴き、瞬間的に感激を覚えています。
またこの頃から自分では「バックペイン」と呼んでいる原因不明の、背中の痛みや手のしびれに悩まされるようになります。
病院では「異常無し」と宣告され、我慢するか痛み止めを服用するか、じっくりマッサージをしてもらうしかない症状に、終生悩まされることになります。(これは私も同様の症状があります。主治医には「わからないけれど命にかかわるものではないから我慢せよ」と宣告されています。要は老化でしょう。)
最後はフンボルト海流が沖に見える砂漠で繰り返し聴いたモーツワルトの交響曲41番ジュピターについて「繰りかえし繰りかえし聴いたのに遂に背に疼痛をおぼえることがなかった。もう二度とこの経験と驚愕と喜びに出会うことはあるまい」「瞬間は不意にやってきてすわりこみ,瞬後に去った。画は一瞥で見る。書物は一回しか読めない。音楽は一回しか聞けないのだ。」「神童の顔は見えたとたんに消えた。」で締めくくられます。
『夜と陽炎』概要
主人公 |
(私)開高 健 |
20歳代中頃~50歳代前迄の人生の記録 |
舞台1 |
2足の草鞋の時代 |
現サントリーでコピーライターをしながら芥川賞を受賞する。 |
舞台2 |
外国旅行:直前3年間で19ヶ国、生涯で50ケ国以上 |
思考に行き詰まると海外旅行に出かける。毛沢東やサルトルとも面会する。 |
舞台3 |
ベトナム戦争取材 |
最初の取材、最前線迄出かける。(計3回) |
舞台4 |
海外釣り紀行 |
アマゾン河、アラスカ他、最後は釣りをしながら南北アメリカ大陸を縦断する。 |
『夜と陽炎』感想
『夜と陽炎』のタイトルについて
『夜と陽炎』のタイトルの意味について考えてみます。
雑音のある昼間や自宅では筆が進まず、一人になれる場所、旅館、安宿等で、夜間に原稿用紙を前に呻吟している。
夜、自分だけであるが、耳を澄まし、また眼を閉じれば、ベトナムの最前線で経験した機関銃の音、市場の喧騒や鶏の鳴き声、パリの見世物芸人の口上。
アマゾン河での猿の鳴き声や突然にラジオから聞こえるベートーベンの交響曲。
そんな情景から何を学び、どう表現するか悩み続けた生涯にふさわしいタイトルでしょう。
2足の草鞋で慣れないサラリーマン生活に苦労しながら、3作目で芥川賞を受賞し、やがて専業となった。
しかし、今度はアイデア、ネタが出てこず、酒に逃れ海外旅行に逃れ、執筆では終生苦労しています。
開高さんは都合3度ベトナム戦争を取材していますが、34歳の時が最初の取材で、この時は、銃弾の飛び交う最前線まで赴いています。
作家専業となってからは、フランスのパリ他40ケ国以上の国を訪れています。
毛沢東と面会し、サルトルと議論し、アラスカやアマゾン河で大物を釣り、各国の文壇関係者、パリやベトナムの一般人、物乞い他幅広く交流しています。
最初のべエトナム戦争取材後は、一旦戦地取材からは離れ、主に海外での大掛かりな釣り紀行が始まります。
アラスカではキングサーモンを、アマゾン河でドラドや大鯰、ピラニアを、果ては南北アメリカ大陸で釣りをしながら縦断する企画も登場します。
少しだけ触れられていますが、この当時のテレビCMで、開高さんがアラスカ鉄道に手を振ると列車が停止し、乗車する姿がありました。
ウイスキーのCM出演と引き換えに、古巣のサントリーから資金を応援してもらっています。
開高さんのテーマは終生「人間とは何か」であったと言われます。
最初はフイクションで作品を組み立てていたが、やがて表現の限界を感じたのかノン.フイクション、徹底した現場取材を基にする形式に変わっています。
何事も突き詰める性格であり、徹底的に現場を取材しても、今度は表現する言葉を選び悩む日々であったようです。
テーマの発掘や、構成、語彙の選択等に苦労をするのはどの作家も同様でしょうが、開高さんはそれが一層過激であったように感じます。
開高さんは常に動き悩んでいたから、ヒントが掴めたのだとも思います。パスカルの言葉とされる「人の不幸は部屋の中にじっとしていられないことである」は、正にこの人にあてはまる言葉でしょう。
作家が自伝を書くのは覚悟が必要だと感じます。
自己の人生を冷静に客観的に振り返り、表現するのは非常に困難で、勇気が必要だと感じます。じっくりと味わいましょう。
自伝についての感想
この作品は開高さんの後半生の自伝です。
この作品について語ることは、開高さんの人生について語ることになりますが、私なりに以下の5点に纏めて考えてみます。
- 性格
- ベトナム戦争の取材
- パリの街
- 釣り
- 作家業について
- .終わりに
1.性格
開高さんは、終生無理をしていた、全力を出すので心身を酷使していたと感じます。
慣れないサラリーマン生活や、本来好きではない見知らぬ人との交流に気を使い、疲れ、筆が進まないと酒に逃れる。
執筆が進まなければ釣りや外国旅行に出かけ、家族はほったらかし、危険な戦地にも出かける、浮気の模様も克明に作品で記述する、家族は心の休まる暇がなかったのではないかと思います。
繊細で神経質な性格であり、鬱病とも終生の付き合いがあったと言われます。
それでも、高度成長期のサラリーマンに付き物の酒の席や、PR誌「洋酒天国」での全国販売代理店巡り等で、鍛えられた面もあったようです。
サントリーでのコピーライターと作家の2足の草鞋の時代もそうですが、作家業専業になればさらに執筆の苦しみに直面します。
アイデア、ネタが浮かばない、筆が進まない、締め切りが迫る。家では雑音があり集中できない、場所を変えても効果は出ない、酒に逃げ、夜に逃げ、ウヰスキーの力に頼ります。
飲み過ぎで肝臓を壊し、鬱病に苦しむ時もあります。心が耐えられなくなれば、釣りや海外旅行に逃れます。
しかし、そこが開高さんの悲しさ、やがてエッセーや小説のネタを見つけて執筆に苦しむことになります。
この作品には載っていませんが、開高さんには「名語」と呼ばれる言葉が多くあります。
例えば「悠々として急げ」です。意味はその通りなのでしょうが、開高さんの人生は少し違っていたと思います。
むしろパスカルの言葉とされる「人の不幸は部屋にじっとしていられないことである」でしょう。「「人間とは何か」を終生、しかも全力で追求し続けた人生だと思います。
2.ベトナム戦争の取材
開高さんは都合3度ベトナム戦争を取材しています。この作品では34歳の時に新聞の特派員として訪れた時の話が書かれています。
ここでは触れられていませんが、中学生の時に先の戦争がありました。
勤労奉仕のため国鉄操車場で働いていた時、米軍機から友人と二人が機銃掃射を受け九死に1生を得た経験も影響していると思います。
ベトナムでは事前の情報が乏しく、現地での情報収集から始めていますが、やがていろんな矛盾に気づきます。
ステーキを食べ水洗トイレを使用し映画を楽しむ米軍、一方南ベトナム政府軍は何もない状態、家族連れの例もある。
政府高官は汚職が当たり前、兵隊は北側に通じている可能性もある、政府軍と米軍の協調も危うい。
時々藪の中からの銃撃や米軍の反撃があり、スパイとみなされた者の公開処刑もある。
そんな中でも市場には何でもあり人々は戦争を当たり前のように受け止め暮らしている。そんな状況を見て、やがて最前線迄行く決意をしています。
取材から帰国すれば即、缶詰となり「ベトナム戦記」を纏めています。
その後は取材や対談、インタビュー、国会で証人としての意見陳述等多忙な日々を送ります。
「ベ平連」で、ニューヨークタイムズの一面に反戦広告を掲載する呼びかけ人となって実現させます。
しかしその後、内部の意見対立で「べ平連」を離れます。
現実を知ろうとせず単に「南とアメリカは悪」としか考えない、考えられない人達とは一緒にできなかったようです。
北政府軍の集団テロは無視され、100万人以上は存在するカトリック教徒の部隊がベトコンと戦っている事実も無視された。
そのベトコンは南を開放後、北側政府により排除されています。
3.パリの街
開高さんは、行き詰まれば釣りに逃げたり、海外旅行に逃げたりしています。
この作品を執筆中の3年間にも19ヶ国を訪問したと述べています。
その中でも、パリの街が一番お気に入りであったようです。最近私もパリ旅行を経験しましたが、それも交えて、その理由を考えてみます。
パリはこの作品にも書かれているように、中心部にセーヌ川が流れ両側に緩やかな丘、狭い石畳みの街並みが続いています。
中心街は5.6階建てのアパートで1階は店舗、2階から上はアパートです。
屋上には部屋の数だけ煙突が出ていますので、建物の汚さも考えると築100年以上は経過していると思われます。
アパートに駐車場は無く、狭い道の一部を駐車スペースとしています。
メイン道路も片側2車線が多いようで混雑しており、その分地下鉄が発達したようです。
京都並みのコンパクトな街ですが、新しい建物は見かけません。
ルーブル美術館のモナリザの絵の前には世界中の人が行列を作っていましたが、彫刻の相当数はエジプト他からの収奪品と思われます。
またこの建物も当初はパリを護る要塞であったようです。
素人見立てですが、パリは「防御を重視した街」で戦争を繰り返している町だと感じました。
数年前にポルトガルへも行きましたが、パリには黒人が多いのが特徴でした。
農業人材不足を補う為、旧植民地から誘引したようです。
作品に書かれている「蛙男」はいませんでしたが、手品まがいで投げ銭を貰う芸人や物乞いの存在はありました。
「パリの物乞いはプロが大半」との予備知識はありました。
痩せすぎて今にも倒れそうな人も見かけましたが誰も関わりませんでした。
シャンゼリゼ通りのブランド店から、農家直送のマルシェまでたくましいフランス人の姿を観ました。
開高さんも多分こうした街と人間に魅了されたのだと思います。
4.釣り
釣りは子供の頃から好きだったようです。
もちろん子供時代は、昔の子も今の子も釣りは好きだと思います。
釣りの良さは仕事のこと等、余計な事は考えない事、狩猟本能や、波の音、鳥の声、一瞬の当たりを待つ緊張感、それらが混ざったものでしょう。
開高さんは行き詰まればまず酒に逃げ、次に釣りや旅行に逃げ、心の回復を図っています。
最初は川やダム湖等での釣りでしたが、開高さんのことですから段々本格的になります。
そして、作品にもなってきます。最初は健康のため、ストレス解消、元気回復目的であったのが大冒険迄暴発します。
アラスカでのサーモン釣り、アマゾン河での大物釣り、果ては南北アメリカ大陸で釣りをしながら縦断するところまで拡大します。
大半はテント生活ですし、アラスカでは熊の危険、アマゾン河ではピラニアやワニ、毒蛇の危険もあります。
天候も氷雨の連続やカンカン照りの連続等、体力も必要です。開高さんはこの頃から本人が「バックペイン」と名付けた背中の痛みや指のしびれ等に悩まされています。
医師の見立てでは、特に悪い所は見当たらない、という厄介なものです。
誰かに揉んでもらうしか治療法はなかったようです。
釣りについては、エッセー「オーパ」や「フィッシュ.オン」他釣りに関する作品をお薦めします。
実に偉大である大自然の様が、開高さんの細かく軽妙な描写でよくわかります。
私の現役時代のストレス解消法は、海釣りと開高さんの釣り作品でした。
5.作家業について
作家業ほど因果な職業はないのではないかと思います。
開高さんを見ていると、自分の身と心を削って作品にしたのだと感じます。
開高さんは何事も徹底的に突き詰める人であり、妥協がないと思います。
世間に認められなければ、価値のある賞も受賞しなければ生活が苦しくなります。
しかし生活のために妥協するのは勿論、論外でしょう。また、作品の生みの苦しみも半端ではないでしょう。
開高さんは、若くして結婚し子供も設けています。
最初の内は奥様の収入が頼りであったようですが、作家として売れ出してからは家族をほったらかして海外旅行や、戦場や、南北アメリカまで出かける。
浮気の様子を克明に作品にする、作品の中でも家族をほったらかしにしていることについて言い争う姿が出てきます。
芥川賞も、最近は女性の受賞者が多くなりました。文筆業も時代と共に変わって行くものでしょうか。
6.終わりに
最後に、この作品に登場する音楽についてです。
開高さんの作品に、これだけ多くの音楽が登場するのは意外でした。
順番に見てゆくとスコットランド民謡.ロッホ.ローモンド「思い出のグリーングラス」、アラスカでの釣りの時にラジオで聴いた「アルビノーニのアダージョ」、アマゾン河の船大工のラジオで聴いたベートーベンの「アパッショナータ」フンボルト海流が沖に見える砂漠で日本から持参したカセットテープに入っていたモーツワルトの「交響曲第41番ジュピター」他。
野生の中で、とんでもない大自然の中で正反対のクラシック音楽、それも感性にぴったりと来て違和感のない音楽に瞬間的に感激したようです。
人それぞれでしょうが「ジュピター」は自分でも聴いてみました。
「沖に寒流が流れている砂漠」で聴くとすれば、ぴったりの曲、金管楽器が出過ぎずちょうど良い、と感じました。
思い出のグリーングラスはこの少し後、私が大学入学時、1970年、万博の時にも随分人気がありました。
世界的な人気歌手トム.ジョーンズや日本では尾崎紀世彦などの歌で親しまれていました。
ただ、この歌は、明日の死刑執行を宣告された死刑囚が懐かしい我が家と両親を偲ぶ歌とのことですが、日本では「死刑囚の歌」の部分は全部抜け落ちていたと思います。
他にもこのような例はいくらでもあるようです。例えばスコットランド民謡の「ダニーボーイ」です。
この歌は美しいメロデイで世界中の人に親しまれていますが、戦場に行った恋人の無事を祈る歌とのことです。
そこも日本では知られてないようです。人間は客観的に物事を判断するのが苦手なのだと感じます。
人間は人それぞれ違います。作家も同様でしょう。
開高さんは物事を徹底的に突き詰め同年代の人にも難解な小説と、軽妙で味わいのあるエッセイを残してくれました。
そして若い命を終えました。私もそうですが、開高さんのエッセイは愛読しているが小説は苦手、という人が多いようです。
今の若い世代は「豚のしっぽ」の意味は分からないだろうし、まして戦時の機銃掃射体験などわかりようがないでしょう。
それはお互い様ですが、今の世代が開高さんの作品をどう受け止めるのか気になります。
私は古希を過ぎた今、読んでみて共感できた気がしています。