夏目漱石とは
夏目漱石(本名・夏目金之助)は、明治末期から大正初期にかけて活躍した小説家です。
作品の内容をよく知らないという人も、「吾輩は猫である。名前はまだ無い」という有名な書き出しや、国語の教科書に頻出の『こころ』などに、覚えがあるかもしれません。
漱石は、1905年(明治38年)38歳で作家デビューし、1916年(大正5年)49歳の時に胃潰瘍に伴う体内出血のため、その生涯を終えました。
わずか10年余りの短い作家人生の中で、漱石が残した作品の数々は、時代を超えて多くの人に読まれ続けています。
ここでは、そんな漱石の主だった作品に注目し、文豪・夏目漱石の生涯や、作品論について考察を進めていきたいと思います。
夏目漱石の生涯&作品解説
夏目漱石の生い立ち
1867年(慶応3年)、現在の東京都新宿区喜久井町で夏目家の五男として誕生した金之助は、生まれてすぐに里子に出されました。
その後一旦は生家に戻された金之助ですが、1868年(明治元年)一歳の時には、実父の知人であった塩原昌之助・やす夫婦の養子に出されています。
1876年(明治9年)9歳の時に、塩原夫婦の離縁のため、夏目家に戻された金之助ですが、生家に戻ってからもしばらくの間、実の父と母を自分の祖父母だと思って暮らしていたと言われます。
その後、実母の死(明治14年)などに直面しながらも、金之助は勉学に励み、1890年(明治23年)第一高等中学校本科を卒業し、帝国大学文科大学英文科(現・東京大学)に入学。
この頃、金之助は後の人生に大きな影響を与えた人物との交流を始めており、1889年(明治22年)には俳人の正岡子規、1892年(明治25年)には高浜虚子との出会いを果たしています。
1893年(明治26年)、帝国大学を卒業した金之助は、東京高等師範学校英語教師に就任しますが、神経衰弱を患うようになり、わずか二年足らずで辞職。
東京から遠く離れて、1895年(明治28年)に愛媛県尋常中学校教諭に就任しました。
同年12月に帰京した金之助は、中根鏡子と結婚しますが、金之助の神経衰弱や鏡子のヒステリー症の影響もあり、円満な夫婦生活とは縁遠い暮らしを送っていたようです。
1896年(明治29年)に第五高等学校講師に就任し、熊本へ赴任した金之助は、俳壇でも活躍するようになり、徐々に名声を上げていきます。
その後、1900年(明治33年)、文部省から英語研究のために二年間のイギリス留学を命じられた金之助は、単身ロンドンへ渡りますが、この留学期間に孤独感などから神経衰弱が悪化。
1903年(明治36年)に帰国し、第一高等学校講師、東京帝国大学英文科講師を兼任するようになりますが、ここでも再び神経衰弱を患うようになってしまいます。
翌年、1904年(明治37年)に、高浜虚子から神経衰弱の治療の一環として創作を勧められた金之助は、処女作となる『吾輩は猫である』の執筆を開始。
こうした背景を経て、作家・夏目漱石が誕生したのです。
1905年『吾輩は猫である』~『薤露行』・38歳
1.『吾輩は猫である』
【初出】
1905年(明治38年)1月、雑誌『ホトトギス』に発表。1906年(明治39年)8月まで全11回連載。
【あらすじ】
生まれてすぐに捨てられた一匹の猫は、中学の英語教師・珍野苦沙弥(ちんのくしゃみ)邸へ迷い込み、そこで飼われるようになります。
名前をつけられることもないその猫は、「吾輩」と自称し、珍野一家や、出入りする客人達を観察し、日々の出来事や人間模様を記録していきます。
【解説】
『吾輩は猫である』は、猫の「吾輩」視点で、飼い主の珍野苦沙弥とその周辺の人々の人間模様や事件を、風刺的且つ滑稽に描いた作品です。
「吾輩」の飼い主・珍野苦沙弥は作者・夏目漱石、「吾輩」は漱石が実際に飼っていた黒猫がモデルになっています。
ユーモア溢れる語り口の小説ですが、登場人物らを介して近代個人主義に対する考え方なども語られており、その後の漱石作品や講演の中にも見られる漱石の個人主義論の原点を見ていくことができる作品です。
当初は読み切りという形で発表されましたが、読者の好評を博して続編が執筆されるようになり、この頃から漱石は職業作家の道を熱望するようになりました。
2.『倫敦塔』
【初出】
『帝国大学』1905年1月号にて発表。1906年、『漾虚集』に収められた。
【あらすじ】
ロンドンに着いて間もなく、「余」は倫敦塔を訪れます。
「余」はそこで、リチャード三世に幽閉されたエドワード四世の幼い二人の子供や、倫敦塔に幽閉されていた悲劇の女王・ジェーン・グレイなどの幻影を次々と見ていきます。
狐に化かされたような顔で茫然と塔を出て、宿へと戻った「余」は、宿の主人に倫敦塔での出来事を話しますが、主人の返事を聞いて空想は打ち壊されてしまいます。
それから、「余」は人と倫敦塔の話をしない事に決めたのでした。
【解説】
『倫敦塔』は、1905年『帝国大学』で発表された後、1906年刊行の『漾虚集』に収められました。
「漾」が「ただよう、水が揺れ動く」などを意味する漢字であることから、「漾虚」とは「虚をただよう」という意味を示す言葉だと思われます。
「虚をただよう」という意味のとおり、『漾虚集』には浪漫的、幻想的な短編作品が収録されており、『漾虚集』第一作の『倫敦塔』では、ロンドン塔の過去にまつわる空想世界が展開されています。
『倫敦塔』は、漱石が英国留学中にロンドン塔を見物した際の感想を元に描かれた作品であり、日記によると、漱石は1900年(明治33年)10月31日に現地を訪れていたようです。
3.『幻影の盾』
【初出】
1905年(明治38年)4月『ホトトギス』にて発表。1906年、『漾虚集』に収められた。
【あらすじ】
アーサー王の時代、白城の城主に仕える騎士・ウィリアムは、願いを叶えるという幻影の盾を所有していました。
ウィリアムは、夜鴉の城にいるクララと恋仲でしたが、ある時、白城と夜鴉の間で戦が起こります。
炎上する夜鴉の城にクララの姿を見て絶望するウィリアムでしたが、紅の衣を着た不思議な女に出会い、女に言われる通り、幻影の盾の面に目を凝らします。
すると、盾はウィリアムとなり、盾の中の世界でウィリアムとクララは再会を果たすのでした。
【解説】
標題は「まぼろしのたて」と読みます。
『漾虚集』に収められた第三作で、中世ヨーロッパを舞台としたファンタジー路線の短編作品です。
『倫敦塔』と同様に英国が舞台ですが、三人称の語りで展開し、前書き及び冒頭部で【異国の物語であること】【遠き世の物語であること】【アーサー大王の御代であること】など、現実世界から離れた内容であることが強調されており、作品の虚構性を一層高めています。
19世紀初頭に西欧で起こった幻想文学(※超自然的な事象をモチーフとした文学ジャンルのこと)の影響が強く感じられる作品です。
4.『琴のそら音』
【初出】
1905年(明治38年)5月、雑誌『七人』にて発表。1906年、『漾虚集』に収められた。
【あらすじ】
下宿を出て家を借りたばかりの「余」は、世話をしてくれる婆さんが迷信好きで辟易していました。
婆さんは、鬼門にある家から早く転居しなければ、婚約者の宇野露子の病気が治らないと「余」に言います。
婆さんの話と、露子がインフルエンザに罹っている話を、友人の津田に話した「余」ですが、津田は親戚の女性がインフルエンザで亡くなったこと、亡くなった女性が出征している夫の元へ幽霊となって現れたことを話します。
津田の下宿からの帰り道、棺桶を担いだ二人の男とすれ違った「余」は、露子のことが頭から離れなくなりますが、翌日宇野の家を訪ねると、そこには全快した露子の姿がありました。
この件があって以来、露子は一層「余」を愛するような素振りを見せるようになりました。
【解説】
『漾虚集』第四作の『琴のそら音』は前三作(『倫敦塔』『カーライル博物館』『幻影の盾』)と異なり、日露戦争の頃の日本を舞台とした作品です。
「余」は幽霊、死のイメージという超自然に追い込まれていくものの、最終的に現実世界に帰還します。
『琴のそら音』及び後述の『趣味の遺伝』は、超自然的内容を取り入れつつも、現実的傾向が強い作品となっており、『漾虚集』が単に西欧の幻想文学に倣ったものではないことを表しています。
5.『一夜』
【初出】
1905年(明治38年)9月、『中央公論』にて発表。1906年、『漾虚集』に収められた。
【あらすじ】
髯のある男、五分刈りの丸顔の男、涼しい眼の女が、八畳の座敷に会しています。
三人は取り留めのない話をしながら一夜を過ごします。
夜も更ける頃、話は中途で流れ、三人はそれぞれ臥床に入って眠りにつきました。
【解説】
『漾虚集』第五作の短編作品です。
連句のように流れていく三人の会話が印象的ですが、内容の読み取りが非常に難しい作品です。
『吾輩は猫である』の中で、登場人物らが『一夜』について話題にする場面があることも有名で、その一節からは、『一夜』は主題のある小説作品というよりも、直感的で詩のような傾向が強い作品だということが分かります。
6.『薤露行』
【初出】
1905年(明治38年)11月、『中央公論』にて発表。1906年、『漾虚集』に収められた。
【あらすじ】
円卓の騎士・ランスロットは、主君・アーサー王の妃・ギニヴィアと不倫関係にありました。
アーサー王らが向かった試合に一人遅れて参ずることになったランスロットは、道中、シャロットの女を死に至らしめ、呪いを掛けられます。
アストラットの古城に立ち寄ったランスロットは、城の娘・エレーンに好意を寄せられます。
試合で負傷し、その後姿を消したランスロットを想い、悲しみにくれるエレーンは、ランスロットへの想いを手紙に残し、自死を選びます。
やがてエレーンの遺体を乗せた小舟が、アーサー王らがいるカメロットに流れ着きます。
他の騎士達からランスロットとの不倫を糾弾されていたギニヴィアは、エレーンの手に握られた手紙を読み、涙を流すのでした。
【解説】
『漾虚集』第六作の『薤露行』は、『幻影の盾』と同様に、中世ヨーロッパの騎士物語を描いた作品です。
擬古文のような文体が用いられ、当時の漱石の書簡などからは『薤露行』執筆に相当の苦心を要していたことが窺えます。
作者前書きが付されており、15世紀後半のトマス・カロリー著『アーサー王の死』、1856年から出版されたアルフレッド・テニスン著『国王牧歌』を参考としている旨が記されています。
アーサー王物語(※伝説上の人物・アーサー王を中心とした中世の騎士道物語群。関連する話は多岐に渡るが、中でもトマス・マロリーが記した『アーサー王の死』が有名)を題材とした日本初の創作作品とも言われており、西洋ファンタジーの日本への流入という点においても、漱石が残した足跡の大きさを感じられます。
1906年『趣味の遺伝』~『二百十日』・39歳
6.『趣味の遺伝』
【初出】
1906年(明治39年)1月、『帝国文学』にて発表。同年5月、『漾虚集』に収められた。
【あらすじ】
新橋の停留所で、凱旋する兵士を見た「余」は、旅順で戦死した友人の「浩さん」のことを思い出します。
浩さんの墓参りに寂光院に向かった「余」は、浩さんの墓に手を合わせる若い女性を見かけます。
浩さんの日記を読んだ「余」は、浩さんが郵便局で出会った女性に惹かれていたことを知り、その女性こそ寂光院で見かけた人ではないかと思い至ります。
女性が何者か探る内、浩さんが女性に惹かれた理由が遺伝によるものではないかと推測した「余」は、浩さんの先祖を調べ、理不尽な理由で仲を引き裂かれた浩さんの先祖・河上才三とその婚約者の話に辿り着きます。
そして、河上才三の婚約者の子孫が、まさに寂光院で見かけた女性その人であり、女性はやがて浩さんの母と交流を持つようになり、その姿はまるで仲の良い嫁姑のように見えました。
【解説】
『漾虚集』に収められた最後の作品で、前作『薤露行』と打って変わり、日露戦争の頃の日本を舞台にした作品です。
遡る1904年(明治37年)2月、日露戦争勃発により、文壇では厭戦的作品が目立つようになりました(代表的な例としては、与謝野晶子『君死に給ふこと勿れ』(1904年(明治37年)8月)などがこの時期に発表されています)。
この文壇の動きが漱石の思想にどのような影響を与えたか正確には分かりませんが、漱石の厭戦的態度は『趣味の遺伝』以前から作品に表れており(『吾輩は猫である』の大和魂を風刺するシーンなど)、この厭世的態度が最も顕著に表現されたのが『趣味の遺伝』です。
また、『趣味の遺伝』では、厭戦的傾向以外に、自然主義文学への皮肉を読み取ることができます。
明治30年代にかけて日本の文壇に流入した自然主義文学ですが、その元となるのが19世紀末からフランスを中心に起こった自然主義文学運動です。
エミール・ゾラを中心に起こった自然主義文学は、遺伝と社会環境を重視し、これによって決定づけられる人間の在り方を科学的に見出そうとしたものでした。
自然主義文学の核の一つとも言える〈遺伝〉の問題を、男女の恋の趣味が先祖から遺伝するという、非科学的でぶっ飛んだ発想に繋げたのは、偶然ということはないでしょう。
当時の社会や文壇からして見れば、『遺伝の趣味』は二重の意味で問題作であったように思われます。
7.『坊っちゃん』
【初出】
1906年(明治39年)4月、『ホトトギス』に発表。
【あらすじ】
親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばかりしている坊っちゃんは、学校を卒業後、四国の旧制中学校の教師として赴任します。
そこで坊っちゃんは、教頭の赤シャツ、英語教師のうらなり、数学主任の山嵐など、様々な人と出会います。
やがて赤シャツの悪事を知った坊っちゃんは、山嵐と手を組み、赤シャツの不祥事を暴いて懲らしめます。
その後すぐ辞職した坊っちゃんは、東京に帰郷し、馴染みの下女・清とともに暮らしました。
【解説】
漱石が愛媛県尋常中学校で教師として勤めていた頃の実体験を下地に執筆された作品です。
大衆的な内容で、痛快な語り口が魅力の一つです。
漱石は『坊っちゃん』の執筆にあたり、松山方言の添削を高浜虚子に依頼しており、現在読者が目にする『坊っちゃん』のテキストは、高浜虚子が修正を加えたもので、漱石の自筆原稿そのままではありません。
高浜虚子による書入れを検証すると、単純な方言の添削以外にも修正が及んでいることが明らかになっており、漱石が本来書き上げようとした『坊っちゃん』から微妙に変容している可能性は否定できません。
8.『草枕』
【初出】
1906年(明治39年)9月、雑誌『新小説』に発表。
【あらすじ】
日露戦争の頃、30歳の画工の男は「非人情」を求めて旅をし、山中の温泉宿で那美という出戻りの女に出会います。
周囲からは気狂いだと言われる那美でしたが、画工は那美のことを今まで見た女のうちでもっともうつくしい所作をする女だと評し、二人の交流が描かれていきます。
【解説】
明治末期、日本の文壇では、現実をありのままに描き出そうとする自然主義文学が全盛期を迎えていました。
自然主義文学に不満を抱いていた漱石は、「感覚物そのものに対する情緒」を理想として追い求めるようになります。
そして生まれた『草枕』は、熊本県玉名市小天温泉をモデルに、読者に美しい感じを与えるのを目的として書かれた俳句的小説となりました。
「非人情」の境地を美しく描き出し、低廻趣味(※漱石の造語。世俗を離れて、余裕を持って傍観者的立場から人生を眺め、東洋的な詩的境地を楽しもうとする態度を指す)と呼ばれる文学観を体現した作品です。
9.『二百十日』
【初出】
1906年(明治39年)10月、『中央公論』に発表。
【あらすじ】
熊本の阿蘇へ旅行に来た二人の青年・圭さんと碌さん。
彼らは阿蘇山登頂に挑みますが、二百十日の嵐に遭遇し、目的を達成できぬまま宿場へと引き返します。
翌日、二人はいつか再び阿蘇山に挑戦することを約束するのでした。
【解説】
圭さんと碌さんの会話文が中心となって展開する中編作品です。
一般的に「二百十日(読み:にひゃくとおか)」とは、暦の雑節の一つで、立春を起算日として210日目を指します。
日付では9月1日頃にあたり、この時期は台風が多いと言われています。
漱石は1899年(明治32年)9月1日に、熊本での教師時代の同僚・山川信次郎と阿蘇山登頂に挑むも、嵐でこれを断念しており、この経験が『二百十日』の素材になっています。
1907年『野分』~『虞美人草』・40歳
10.『野分』
【初出】
1907年(明治40年)1月、『ホトトギス』に発表。
【あらすじ】
教職を追われ文学者として生きる白井道也、道也の元教え子・高柳、高柳の親友・中野の三人を軸に展開していく中編作品です。
道也と再会した高柳は、道也が借金取りに苦しんでいる現状を知り、自身の肺病の転地療養のために中野が用立ててくれた資金を道也に渡します。
そして、高柳は、かつての自分の行動が、道也を学校から追い出すきっかけになったことを明かすのでした。
【解説】
一般に、「野分」とは、二百十日や二百二十日前後に吹く暴風を指す言葉です。
前作『二百十日』との繋がりが感じられる標題のとおり、『二百十日』内での社会批判をさらに突き詰めた内容にもなっています。
『野分』執筆の前年、1906年(明治39年)3月、島崎藤村の『破戒』が発表されました。
社会的テーマを追求した内容で、日本自然主義文学の先駆的作品とも評される『破戒』ですが、漱石は知人らにあてた書簡の中で、この作品を非常に高く評価しています。
そして、その年の書簡の端々で、漱石の文学者としての強い覚悟が見られるようになります。
例として、1906年(明治39年)10月に鈴木三重吉に宛てた書簡から、一部を引用します。
苟も文学を以て生命とするものならば単に美という丈では満足が出来ない。丁度維新の當士勤王家が困苦をなめた様な了見にならなくては駄目だらうと思う。間違つたら神経衰弱でも気違でも入牢でも何でもする了見でなくては文学者になれまいと思ふ。(中略)
僕は一面に於て俳諧的文学に出入すると同時に一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやつて見たい。
夏目漱石『漱石全集 第十六巻』,漱石全集刊行会,1936,456頁,国立国会図書館デジタルコレクション参照
『草枕』で非人情の世界を描き、美を追求した俳句的小説を完成させた漱石ですが、『破戒』以降、その目はしだいに人情・社会へと向けられるようになります。
このような流れを踏んで、『二百十日』『野分』は誕生し、『野分』と次作『虞美人草』は、漱石作品の中でも特に教訓的な傾向が強い作品となりました。
11.『虞美人草』
【初出】
1907年(明治40年)6月から10月まで朝日新聞に連載。
【あらすじ】
美しく聡明でありながら、我が強く道義心を欠く甲野藤尾は、家督を継いで甲野家の財産を手に入れるため、秀才の小野の心を誑かしていきます。
藤尾の目論見は最終的に阻止され、藤尾の死という悲劇で物語は幕を閉じます。
【解説】
1907年(明治40年)2月、朝日新聞社から招聘を受けた漱石は、教職を辞して同社に入社しました。
『虞美人草』は、漱石が職業作家となって初めて執筆した作品であり、並々ならぬ気合が入った作品です。
装飾的で格調高い文章表現、分かりやすい勧善懲悪的内容、細部まで練り込まれた登場人物設定などが特徴的な群像劇です。
1908年『坑夫』~『三四郎』・41歳
12.『坑夫』
【初出】
1908年(明治41年)元日から4月まで朝日新聞に連載。
【あらすじ】
自暴自棄になって生家を出奔した十九歳の青年は、斡旋屋の男に誘われ、坑夫となるべく、鉱山の坑内へと降りていきます。
粗野で悪意に満ちた坑夫達や、不衛生で劣悪な環境、死の恐怖に直面する青年でしたが、安という一人の坑夫に出会い、改めて坑夫になる決意を固めていくのでした。
【解説】
『坑夫』は、漱石が職業作家として執筆した二作目であり、実在の人物の経験談をルポルタージュ的に描いた異色の作品です。
事件の進行ではなく、事件その物の真相に焦点を当てる、実験的手法を採用しており、前作『虞美人草』のアンチテーゼとも言える作品になっています。
また、『坑夫』の連載が始まった1908年1月、高浜虚子の著作『鶏頭』に寄せた序文の中で、漱石は「余裕のある小説」という言葉を用いています。
自然主義文学に批判的な反自然主義文学の立場にあった漱石ですが、反自然主義文学の中にも高踏派、白樺派など様々な流派があり、『鶏頭』序文の「余裕のある小説」という言葉から、漱石や高浜虚子らは「余裕派」と呼ばれるようになりました。
13.『文鳥』
【初出】
1908年(明治41年)6月、大阪朝日新聞に掲載。同年、雑誌『ホトトギス』10月号に転載。
【あらすじ】
人に勧められて文鳥を飼い始めた主人公は、はじめは世話をしたり、文鳥の姿にある美しい女の姿を重ねたりして感慨にふけります。
しだいに世話を怠るようになり、ある日帰宅した主人公は、籠の底で死んだ文鳥を発見するのでした。
【解説】
『文鳥』は、原稿用紙25枚程の短編作品で、小品というジャンルに分類される作品です。
小品とは、明治の日本の文壇に流行した、短い散文形態を指します。
漱石は実際に文鳥を飼っていて死なせてしまった経験があり、『文鳥』は漱石の実生活を素材とした極めて私小説に近い内容となっています。
14.『夢十夜』
【初出】
1908年(明治41年)7月から8月まで朝日新聞に連載。
【あらすじ】
「こんな夢を見た」という書き出しで綴られる10の夢の話。
夢の場面は、神代・鎌倉・明治など幅広い時代に及び、幻想的な内容からどこか不気味な内容まで様々です。
死んだ女の生まれ変わりを百年待つ話、明治で仁王を掘る運慶の話、夫の死を知らずに御百度参りを続ける母の話などが綴られています。
【解説】
印象的な書き出しが有名な短編集です。
一見、繋がりのない不可思議な夢の話ですが、生と死という人間の根源的問題から、近代化・近代日本に関する懸念などがテーマとして投影されており、解釈の幅が広い作品です。
参禅体験や、幼少期の親の不在など、漱石の実体験が反映されている夢の話も見られます。
15.『三四郎』
【初出】
1908年(明治41年)9月から12月まで朝日新聞に連載。
【あらすじ】
東京帝国大学進学のため、九州の田舎から上京してきた青年・三四郎は、美禰子という美しい女性に出会い、交流を深めていきます。
三四郎は美禰子に恋慕するようになりますが、美禰子は兄の友人との結婚が決まり、二人は決別します。
その後、美禰子がモデルになった絵を目にした三四郎は、美禰子に教えられた「ストレイシープ」という言葉を繰り返すのでした。
【解説】
漱石の前期三部作と呼ばれる作品の第一作です。
前期三部作は、登場人物も舞台も異なる独立した作品ですが、いずれも主人公の恋愛模様が題材として描かれています。
『三四郎』は、若者の恋愛模様を題材に、人間存在の不安定さ、現実世界の虚妄を露わにした作品です。
1909年『永日小品』~『それから』・42歳
16.『永日小品』
【初出】
1909年(明治42年)1月から3月まで、朝日新聞に連載。1910年(明治43年)5月、『四篇』に収められた。
【あらすじ】
日常生活や、英国留学時代を題材にした25の小品です。
『吾輩は猫である』の「吾輩」のモデルとなった夏目家の飼い猫の死とその後を描いた話(「猫の墓」)、英国留学中に授業を受けたクレイグ先生との交流を描いた話(「クレイグ先生」)などが綴られています。
【解説】
朝日新聞社から「夢十夜の様なもの」との注文を受けて執筆された作品です。
「夢十夜の様なもの」と言っても、『夢十夜』の10の「夢」に見られるような共通する枠組みはなく、内容も各話独立しています。
執筆の経緯から『夢十夜』との関連で論ずる研究や、別の視点から漱石作品全体で見た時の位置・主題を捉えようとする研究など様々あり、多角的な見方ができる作品です。
17.『それから』
【初出】
1909年(明治42年)6月から10月まで朝日新聞に連載。
【あらすじ】
定職に就かず親の金で暮らす代助は、友人の平岡と、その妻三千代と再会します。
代助は、三千代のことを愛していながら、義侠心のために平岡に譲った過去を後悔していました。
代助は三千代に愛の告白をし、三千代を譲ってくれるよう平岡に頼み、実父からは勘当を言い渡されます。
それまでの裕福な生活や家族を捨て、三千代を選んだ代助は、職を求めて町へ飛び出していくのでした。
【解説】
漱石の前期三部作の二作目にあたる作品です。
高等遊民(※大学などの高等教育を受けながら、経済的不自由がなく、定職に就かずに暮らしている人を指す)を描いた作品です。
作中では様々な種類の花が登場し、主人公に起こることや作品の展開を暗示させるアイテムとして用いられています。
1910年『門』・43歳
18.『門』
【初出】
1910年(明治43年)3月から6月まで朝日新聞に連載。
【あらすじ】
親友・安井を裏切って、安井の妻と結婚した宗助は、偶然安井の消息を耳にしたことで、罪の意識に苦しむようになります。
救いを求めて鎌倉へ参禅に向かった宗助ですが、悟りは開けず、自分は門を通る人でも通らずに済む人でもなく、門の下に立ちすくんで日暮を待つ不孝な人だと考えるのでした。
【解説】
漱石の前期三部作の三作目にあたる作品です。
前期三部作は独立した物語ですが、主人公像や話の展開に『三四郎』『それから』との関連性が見られます。
作中後半では参禅の様子が描かれますが、これは漱石の実際の参禅体験が素材になっているものだと考えられます。
また、『門』執筆中であった1910年6月、漱石は胃潰瘍で入院をしています。
『門』完結後の8月には、伊豆の修善寺に転地療養へ出かけますが、そこで病状を悪化させ、漱石は一時危篤状態を迎えました。
この事件は「修善寺の大患」と呼ばれ、その後の漱石作品のテーマなどに大きな影響を与えています。
1912年『彼岸過迄』~『行人』・45歳
19.『彼岸過迄』
【初出】
1912年(明治45年)元日から4月まで朝日新聞に連載。
【あらすじ】
須永は、従妹の千代子と結婚する気がまるでないのにもかかわらず、別の男が千代子と親しくする様子に嫉妬します。
千代子からは卑怯だと責められ、叔父からは僻みがあると指摘される須永でしたが、須永の僻みのある性格は、彼と彼の母親の血が繋がっていないという事実から生じたものでした。
【解説】
漱石の後期三部作と呼ばれる作品の第一作目です。
後期三部作はそれぞれ独立した作品ですが、いずれも人間のエゴイズム、近代知識人の苦悩に迫った内容です。
『彼岸過迄』は六つの短編が連なって一つの長編を構成しており、編によって時系列や語り手の入れ替わりが見られます。
また、『彼岸過迄』執筆の前年、1911年(明治44年)に漱石の五女・ひな子がわずか二歳で急逝しており、ひな子の死も作品の内容に大きく反映されています。
20.『行人』
【初出】
1912年(大正元年)12月から朝日新聞に連載。連載途中で漱石が胃潰瘍を患い、約五カ月の中断を挟み、翌年2月に完結。
【あらすじ】
妻の直を信じられずに悩む一郎は、弟の二郎に、直と一晩過ごして貞操を試してほしいと頼みます。
止むを得ない事情から、嵐の中で直と一晩泊まることになった二郎。
二郎を問い詰め、激怒した一郎は、それからしばらくして様子がおかしくなり、二郎は一郎の親友・Hに兄を旅行に連れ出してほしいとお願いします。
旅行中、Hから二郎宛てに届いた手紙には、一郎が抱える苦悩の詳細が記されていました。
【解説】
漱石の後期三部作の二作目のあたる作品です。
『彼岸過迄』に続き、人間のエゴイズムの問題が描かれ、近代的自我とはどうあるべきか追求が進められました。
最終章では、禅の公案にまつわる会話も描かれ、その内容からは、漱石自身の禅への考え方が新たな境地に達しつつあったことが窺えます。
1914年『こころ』・47歳
21.『こころ』
【初出】
1914年(大正3年)4月から8月まで朝日新聞に連載。
【あらすじ】
「私」が出会った「先生」は、自らの過去を語らず、人を避けるように奥さんと二人で静かに暮らしていました。
やがて、帰郷していた私のもとに、先生から遺書が送られてきます。
遺書には、学生時代の先生が、友人のKを裏切って今の奥さんを得たこと、恋に破れたKの自殺という顛末が記されていました。
【解説】
漱石の後期三部作最後の作品です。
明治天皇の崩御(1912年)、乃木希典の殉死(1912年9月)など、当時の時代背景を色濃く反映しています。
『こころ』は、人間のエゴイズムに迫る一方で、先生という一人の登場人物を通して、明治の時代精神を緻密に描きあげた作品でもあります。
1915年『道草』・48歳
22.『道草』
【初出】
1915年(大正4年)6月から9月まで朝日新聞に連載。
【あらすじ】
教師をしている健三は、金銭を要求するため次々と訪れる親族や、上手くいかない妻との関係に悩んでいました。
しつこく金の無心をするかつての養父に手切れ金を渡し、絶縁を約束させたものの、「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない」と健三は苦々しく吐き出すのでした。
【解説】
『吾輩は猫である』執筆当時の漱石の生活を素材とした、自伝的小説です。
漱石の生い立ちや、幼少期の親の不在も素材の一つとして反映されています。
反自然主義の余裕派に属する漱石の作品は、それまで自然主義の作家から批判的に見られていましたが、『道草』は彼らから初めて高い評価を得たといいます。
細部に至るまで、漱石の実体験に基づく素材があったことが窺えますが、抽象的表現を効果的に用い、単なる私小説ではない、文学作品を創り上げています。
1916年『明暗』・49歳
23.『明暗』
【初出】
1916年(大正5年)5月から朝日新聞に連載。11月、胃潰瘍により病臥。12月、胃潰瘍に伴う体内出血のため作者病死となり、連載中絶。このため、『明暗』は未完の絶筆となった。
【あらすじ】
新婚の津田は、心の中では妻・お延のことをそれほど愛しておらず、二人の仲はどこかぎくしゃくとしています。
お延と結婚する前、津田は清子という女性と交際していましたが、清子は突然津田の元から去り、今は別の男性と結婚していました。
津田は、清子に未練があると知人に指摘され、清子が湯治しているという温泉へ一人で出向き、清子と再会します。(未完)
【解説】
晩年の漱石が追求したエゴイズムの問題を扱っており、不安定な家庭生活を軸に、様々な人間関係を描いた作品です。
自己本位に生きる近代人の精神更生を目指した作品であり、晩年の漱石の講演(『私の個人主義』1914年(大正3年)11月)で説かれた新しい自己本位の在り方などにも繋がりを見ていくことができます。
また、新潮社の『大正六年文章日記』一月の扉に漱石が揮毫した「則天去私」(※「天に則って、私を去ること。小さな私にとらわれず、天然自然に身を委ねて生きること」を意味する漱石の造語)との関係についても、今日に至るまで様々に研究されています。
夏目漱石論
『吾輩は猫である』で鮮烈な作家デビューを果たし、その後の約10年を駆け抜けた作家・夏目漱石。
名作とも呼べる作品を次々と発表しながら、「低廻趣味」、「則天去私」など独自の文学観・人生観を創り上げていった姿は、まさに天才だと思います。
しかし、その生い立ちは決して順風満帆と言えるものではなく、作家として名を馳せてからも、常に苦心を重ねながら理想を追求しており、並々ならぬ努力を続けた人だとも言えるように思います。
特に、職業作家としてデビュー以降は、まさに「命のやりとりをする様な維新の志士」の如く、実験的手法を次々と取り入れながら、人間の内面の問題に深く切り込んでいき、その探求の精神は『明暗』途絶に至るまで止まることはありませんでした。
死の約一カ月前の書簡の中で「私は五十になつて始めて道に志す事の気のついた愚物です、其道がいつ手に入るだらうと考へると大変な距離があるやうに思はれて吃驚してゐます」「私がもつと偉ければ宅へくる若い人ももつと偉くなる筈だと考へると実に自分の至らない所が情なくなります」と零す一方で、「此次御目にかかる時にはもう少し偉い人間になつてゐたいと思ひます」とも書いています。
現状に満足することなく、最後まで探求者としてあり続けた姿は、こうした書簡の中にも見ていくことができます。
また、夏目漱石の功績は、数々の名作を残したことだけではありません。
現代に通ずる言文一致体を完成させたことや、木曜会と呼ばれる会合で多くの若手文学者と議論を交わし、数多の有名作家を輩出させたことなど、漱石が日本近代文学及び後世の文学界に与えた影響の大きさは計り知れません。
まさしく日本の文学を代表する作家の一人であり、是非一度読んでみることをお勧めしたい作家です。