『化銀杏』の紹介
『化銀杏』は、明治29年(1896年)に『文藝倶楽部』に発表された泉鏡花の短編小説です。
ほとんどの部分が登場人物の会話で成り立っており、発表時には賛否両論の評価を受けた作品です。
作者が、人の感情や情愛といったものを前面に押し出すようになった、「観念小説」からの過渡期の作品でもあります。
『化銀杏』─あらすじ
学校の教授・西岡時彦の妻、お貞は「(良人が)死んでくれりゃいい」と日々思い暮らしていた。
保護者であった祖父を亡くし、家を守るために時彦と結婚するしかなかったお貞は、自分に執着する良人を嫌い、自由になりたいと願っていた。
しかしその反面、庇護し、養ってくれる良人の死を望む自分を嫌悪していた。
夫婦は居宅の二階を、水上芳之助とその祖母に貸していた。
芳之助は、髪を銀杏返に結ったお貞が死んだ姉・お蓮にそっくりだと言い、お貞を「姉様」と呼んでいたが、彼女が円髷に結っている時は「奥様」と呼んだ。
病に倒れた時彦を、お貞は献身的に介護する。
断ち物をして看病を続けるお貞に向かい、時彦は「(吾が)死んでしまえば、それ、お前は日本晴で、可いことをして楽むんじゃ。そううまくはきっとさせない」と言い、「死ねば可い」と思っているのだから、離縁して自分を棄てるか、今すぐ殺すかしろと迫る。
良人を殺したお貞は、人殺しをするほど狂った自分を恥じて伯父の旅館に籠もり、誰にも姿を見せようとはしない。
ただ、芳之助だけは、お貞ではなく、亡き姉の幽霊を見たいと欲していたが、もちろん叶うはずもなかった。
『化銀杏』─概要
主人公 | 西岡貞 |
重要人物 | 水上芳之助、西岡時彦 |
主な舞台 | 金沢市 |
時代背景 | 不明 |
作者 | 泉鏡花 |
『化銀杏』─解説(考察)
『化銀杏』に見えるいくつもの執着
『化銀杏』は、人の人に対する「執着」を描いた作品です。
男女や姉弟、親子といった人間関係の中で生じる「執着」が一つところに集まった結果、起きてしまった悲劇の物語なのです。
- 弟が姉に抱く執着─芳之助とお蓮
- 母が子に抱く執着─お貞と環
- 良人が妻に抱く執着─時彦とお貞
本記事ではこの三つを見ていきます。
・弟が姉に抱く執着─芳之助とお蓮
芳之助は十六歳なので、鏡花の時代には独り立ちしていてもおかしくない年頃です。
また、生い立ちがつらかったため、「齢のわりに大人びたり」と描写されてはいます。
いっぽうで、お貞を「姉様」と呼び、姉を自殺に追い込んだ良人と「髭」が同じだからと時彦を嫌うなど、子どもじみた感覚の持ち主でもあります。
彼は姉に執着するあまり、銀杏返を結ったお貞と姉とを同一視していました。
「円髷じゃあ僕は嫌だ」と断言していることから、銀杏返のお貞は容姿や立ち居振る舞いがお蓮そっくりだったのだろうと想像がつきます。
ですから、銀杏返のお貞を「姉様」と呼ぶぐらいのことは普通かもしれません。
しかし、夕暮れ時に自分の名前を呼んで出てきたお貞を「亡なった姉さんの幽霊かと思った」とはっきり言ってしまったり、自分の衷情を訴えるお貞の姿に涙して「僕が、僕が、僕が、どうかしてあげようから、姉さん死んじゃあ不可いよ」と強く感情移入してしまうといった行動は、尋常ではないものです。
芳之助は、お貞を慰め、助けようとしているかのように見えますが、彼が救いたいのは亡き姉・お蓮だけであり、お貞をどうこうしてやりたいとは思っていないのです。
物語の最後で、お貞は人殺しの自分を恥じて、日光を避けて引きこもり、夜にはわずかな燈火をも吹き消して歩くようになります。
そんなお貞を亡き姉の幽霊と同一視する芳之助ですが、当たり前のことながら、いくら会おうとしても姉の幽霊に会うことはできませんでした。
芳之助は、どれだけ願っても会えない姉への執着を捨てられないまま、生きていくことになるのです。
・母が子に抱く執着─お貞と環
お貞は、良人を嫌っていました。
その良人との間にできた子、環にも愛情は抱いていませんでした。
出産した時のことを「妙なものがころがりだしてしまってさ」と、子を産んだ母とは思えない言葉で表現しているぐらいです。
お貞は環に対する愛情はなかったものの、「良人に渡したくない」という歪んだ執着は持っていました。
環が父親を避け、母にばかり笑顔を見せるのは、お貞の態度の鏡像だったのです。
お貞が良人である時彦を嫌っていることを、幼子は本能的に感じ取っていたのでしょう。
子どもが自分を愛してくれる母親を求めるのは本能であり、父親が二の次になってしまうのは致し方ないことです。
時彦を忌避すれば母親に気に入ってもらえる、愛してもらえるという生存本能に基づいて環は行動していました。
そうした環の行動が、お貞の母性本能を少しは呼び覚ましたかもしれません。
しかし、お貞が環を溺愛したのは母性本能によるものではなく、環の態度が良人を傷つけていたからです。
家が途絶えるところを自分との結婚で救ってくれた時彦のことを嫌ってはいても、それを態度に出すことを良しとしていなかったお貞は、彼に対する環の態度が自分の願望を具現化していることを無意識のうちに喜び、その喜びを得るために環に執着していました。
子どもへの執着の理由が時彦への当てつけであったため、彼がいないところでは、母親の顔を捨て、「くさくさすると、可哀相に児にあたって、叱咤ッて、押入へ入れておく」という行為を平気でできたのです。
環は、母の歪んだ執着ゆえに、父親からの愛情を理解することなく、母親からの真の愛情も享けられないまま、五歳という幼さで「じふてりや」を病んで死んでしまいました。
登場人物のなかで、もっとも不遇な扱いをされたといえるでしょう。
・良人が妻に抱く執着─時彦とお貞
時彦は、お貞に対して多くを望んだわけではありません。
ごく普通に見合いで結婚し、家系をつなぐ代わりに、夫婦ささえあって生きていきたいと思っていただけです。
仕事の赴任先に妻にもついてきてほしいというのは、作品が書かれた時代の常識からしても一般的であり、過分な希望ではありません。
しかし、お貞は時彦を嫌いました。
さしたる理由があったわけではないでしょう。
なんとなく「馬が合わない」程度のことだったでしょうが、お貞の内部には時彦に対する不満が澱のように溜まっていきました。
家族と一緒に暮らしたい、我が子に懐いてほしいという時彦の願いは、お貞が積もらせた想いによって次々に打ち砕かれてしまいます。
お百度参りをするお貞に「そんなに吾を治したいか」と尋ね、「あなたがよくなって下さいませねば、どうしましょう、私どもは路頭に立たなければなりません」という答えが返ってきたとき、時彦は絶望したに違いありません。
「活計のために夫婦になったか」と怒っても、お貞は「真実の処をいった」だけで、自分が良人を傷つけたこと、夫婦としての在り方を自分の手で打ち砕いたことにすら気づかず、良人のことを「執念深い人」と感じてしまいました。
時彦が「執念深い人」になったのはお貞の言葉に因るところが大きいのに、お貞自身はそれに気づいておらず、あまりの態度にそうと告げることもできないまま、時彦は執着を募らせていくことしかできなくなったのです。
お貞が家付き娘だということもあり、時彦には、ここで彼女を切り捨てることができませんでした。
成長したら両親のかすがいとして作用してくれたかもしれない環が亡くなったことで、お貞はいよいよ時彦を疎んじるようになり、時彦ももはやお貞の気持ちを変えられるとは思わなくなっていたのでしょう。
お貞が芳之助に対し、「旦那が、旦那が、どうにかして。死んでくれりゃいい。死んでくれりゃいい。死ねばいい。死ねばいい」と呪詛の念を吐露したのを耳にした時彦は、自分の執着の結末を、お貞の手によってつけさせることにしました。
離縁か殺害かを迫られ、お貞は殺害を選びました。
「表向に吾を殺して、公然、良人殺しの罪人になるのだ」という言葉にお貞がうなずいた時、時彦は安堵したことでしょう。
彼にとって、死は執着から解き放たれることでもあったからです。
執着の連鎖
悲劇が起きた原因は、芳之助が時彦とお貞の居宅の二階に借り住まいをし、執着が絡み合ってしまったことだといえます。
お貞がお蓮に似ていなかったら、芳之助の執着は表に出てこなかったことでしょう。
芳之助が、お貞を亡き姉と重ねて親身になりすぎたため、お貞の呪詛は言葉になって時彦の耳に入ってしまいました。
呪詛の吐き出し場所がなければ、時彦はお貞の「(良人が)死ねばいい」という思いを確信することなく、それなりの気持ちで寄り添って生きていけたかもしれません。
ふたたび子どもに恵まれ、家族を作る機会が持てた可能性もあります。
執着に執着が重なり、呪詛が言葉になって出てきたことが悲劇に繋がってしまったのです。
『化銀杏』─感想
「化銀杏」の意味とは?
「銀杏」は、髪を銀杏返に結った「芳之助の姉様」としてのお貞を表しています。
作者は、お貞が「化けた」ということを、題名を通じて読者に伝えたかったのではないでしょうか。
お貞は「上気性と見えて」という描写があるように、少し興奮しやすく、感情に走りがちではあったのだと思います。
そのため、時彦に対する少しばかりの嫌悪がどんどん募り、我が子・環の死や芳之助の同情に後押しされて、呪詛のかたまりに化けてしまったのでしょう。
正直なところ、私にはお貞がここまで「化けた」理由が理解できません。
時彦はごく普通の良人であり、父親であったと思います。
しかし、お貞は時彦を忌み嫌い、つねに死を望むほどの気持ちを抱いてしまいました。
お貞にはお貞なりの「理想の夫婦像」があったのでしょう。
家のために結婚したのだから、必要以上に仲良くしない、でもちゃんと自分を養ってほしい、その代わり、自分は良い妻として世間に恥ずかしくない行動をする、というのがお貞の考える「理想の夫婦像」だったのだと思います。
不幸なことに、それは時彦の考えとは大きく違う夫婦像でした。
家のための結婚であっても情愛のある家庭を作ることができると思った時彦は、祖父に甘やかされて育ち、普通の家族愛を知らずにいたお貞の気持ちを変えることができませんでした。
単身赴任生活を過ごし、耐えられなくなって給与の良い職を捨てることになっても、時彦はお貞に寄り添おうとしました。
その気持ちが、お貞を化けさせてしまうとは思いもしなかったところに、時彦の悲劇があるのだと思います。
芳之助の無垢
悲劇のいとぐちとなったのは、芳之助のお蓮に対する執着、お蓮とお貞の同一視にありました。
お貞は、芳之助が自分のことを、お蓮同様に考えてくれていると思っていました。
実際のところ、芳之助にはお貞に対する特別な感情など無かったのに、です。
お蓮を自殺に追いやった良人と同じ「髭」であることから時彦を嫌い、軒下に立って「米塩の料を稼ぐ」稼業である「ちょいとこさ」とそっくりだと揶揄して嘲笑うなど、お貞の話に合わせただけのつもりだったでしょう。
しかし、お貞は芳之助が自分を姉と同じに思ってくれていると感じて、胸中を吐きだしてしまいました。
芳之助が素直にそれを受け止めたのは、お貞を通してお蓮を見ていたからです。
今度こそ、姉を救えると思ったのに、お貞は良人を殺してなお、自らが救われることはなく、狂人として引き籠もってしまいます。
お貞がそうなってしまった原因を考えることもなく、彼女に会うことは姉の幽霊に会うことと同じだと信じて疑わない芳之助の心情もまた、無垢を通り越して狂いかけていたように思います。
この後もずっと、芳之助はお貞=お蓮の幽霊に執着しつづけるのでしょう。
お貞が引き籠もる旅館を訪れた客をいちいちつかまえて、お蓮の姿を見ていないかと尋ねまわっている場面が目に浮かぶように感じました。
作品中でお貞が時彦を殺害する場面が一切描かれずに終わったのは、芳之助の視点になっているからかもしれません。
お貞が良人を殺したことは芳之助の脳内から消えていて、せっかく時彦がいなくなったのに、お貞=お蓮の幽霊は旅館に閉じ込められて会えなくなってしまった、と思っているのではないでしょうか。
弟の姉に対する執着が最後まで残り続けたのだな、と私は感じました。
以上、『化銀杏』のあらすじ、考察、感想でした。