『闇の奥』の紹介
『闇の奥』は、1899年、『ブラックウッズ・マガジン』に発表、1902年、短編集『青春』に収録され単行本として刊行されました。
作者のジョゼフ・コンラッドは、ウクライナで生まれたポーランド人で船乗りでしたが、イギリス国籍を取得、イギリス作家として執筆活動をしました。
本作はコンラッドの自伝的作品とも言われますが、日本では夏目漱石を初め、世界の作家に多大なる影響を与えた物語です。
ここでは、『闇の奥』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『闇の奥』――あらすじ
アフリカ大陸の中央部へやってきた、船乗りマーロウ。
彼は、象牙貿易で莫大な収益を上げ、当地ではカリスマ的な権力をふるっていると噂される貿易会社の社員クルツという人物に興味を抱きます。
奥地の出張所を拠点にしていたクルツが音信を絶ったという話を聞き、彼の救出に向かったマーロウ一行は、森に潜む黒人達の襲撃を受けながら、目的地へ辿り着き、病身のクルツと対面しました。
そして、クルツの死後、イギリスに戻ったマーロウは、彼のために残された「喪の仕事」を果たしたのでした。
『闇の奥』――概要
主人公 |
チャーリー・マーロウ |
重要人物 |
クルツ、支配人、ロシア人の青年、 |
舞台 |
アフリカ大陸中央部 |
時代背景 |
19世紀末 |
作者 |
ジョゼフ・コンラッド |
『闇の奥』――解説
『闇の奥』は、イギリス作家のジョゼフ・コンラッドの作品で、自伝小説や海洋小説と呼ばれています。しかし、本作は、そういったジャンルの枠を超え、国内外から時代を超えて多大なる影響を与え続けています。
その影響として次の例が挙げられます。F・スコット・フィッツジェラルドの作品『グレート・ギャツビー』や、詩人T.S.エリオットの作品などから始まり、映画界ではオーソン・ウェルズ、スタンリー・キューブリックからも注目され、1979年、フランシス・コッポラの大ヒット映画『地獄の黙示録』の原作にもなりました。
また、日本では、夏目漱石がコンラッドの影響を受けていることが指摘されており、漱石自身、「コンラッドの描きたる自然について」という短評で、コンラッドが力点を置く自然描写について賛美の意を示しています。
さらに、現代日本の文芸作品においても、村上春樹『羊をめぐる冒険』『1Q84』などにも本作の影響がみられるのです。
ここでは、『闇の奥』で、こうした国や時代を超えて何が普遍的なテーマを持ち得ているのか、その魅力について解説していきます。
さらに、感想で、こうした魅力を伝える際に、『闇の奥』における翻訳の難しさと葛藤について論じていきます。
マーロウという男―どこにも身の置き場がない「漂白の人」
『闇の奥』は、「枠物語」(フレーム・ナラティブ)という構造をとっています。
まず、物語の最初は、ロンドンのテムズ河口に停泊する遊覧ヨットが舞台となります。そこに乗船している五人の一人、本作の主人公チャーリー・マーロウが語る、数年前のアフリカでの話が本作の中心となるのです。
従って、ヨットに居合わせた者達は、枠、額縁となって、マーロウの描く絵(アフリカの話)を見ていくことになるのです。作者が本作を、完全なマーロウの一人語りとしなかったのはなぜでしょうか。それは、彼を読者から相対化させるためでしょう。
この枠には、「私」という語り手がいます。集まった五人は、「海という絆」で結ばれている者同士であると、「私」は注釈をつけるのですが、「私」は、その中でもマーロウを特別視しています。
「今でも“海を職場としている”のは彼だけである。有能な船員ではあるが、無理に難癖をつけるとすれば、典型的な船乗りではない。船乗りであると同時に、漂白の人でもあるからだ。」
ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』黒原敏行訳, 光文社古典新訳文庫, 2009, pp14
「私」は、「『典型的な船乗り』は、船を定住の地として捉え、海のみを神秘的な対象とし、自分達にとって、大陸など陸(おか)のことは、深い興味を抱かないものである」としています。だが、マーロウは船に住みながら(海を職業としながら)、特定の陸のことには不可解な魅力を抱く、結局、船にも陸にも、身の拠り所に出来ない人物だと描写します。
もちろん、マーロウが、逆に言えば、生粋の船乗りでありながら、陸にも魅力を見出せる、そういう人物だからこそ、この『闇の奥』の話が成り立つのです。
マーロウは、1900年も前に(本作の時代は19世紀末)、イギリスのブリテン諸島に渡ってきた、ローマの青年の心境をなぞらえて、こう言い放ちます。
「(青年は)湿地に上陸し、森を抜けて、どこか内陸の駐屯地にたどり着く。そこで青年は野蛮さが、完全な野蛮さが、自分を取り巻いているのを感じるんだ――魔境ともいうべき原始の自然が持つあの神秘的な生命が、林や森林や蛮人どもの心の中でうごめいているのをね。(中略)この不可解なものは厭(いと)わしいものでもある。しかしある種の魅力もあって、それが心に働きかけてくる。ほら、忌(いま)わしきものの魅力というやつだよ。」
ジョゼフ・コンラッド, 前掲書, pp18
イギリス人であるマーロウが、かつて、イギリスだって「魔境」の地だったといっているのです。詳細は後述しますが、本作の政治的な視点からみる評価は二分化されており、刊行当時の列強諸国が行っていた「植民地政策」に対する批判が込められているというものと、現地にいたアフリカ人に対する冒涜の書であるという、相反する批評があります。
マーロウは、その両方の評価を体現している人物で、アフリカを植民地として利益をあげて潤っている貿易会社に属しながらも、「イギリスだってもとは同じような未開の植民地だった」という、単純な愛国者ではないシニカルな目線をもち、一方で、アフリカ人に対して、「原始人」「獣」呼ばわりし、当時の一般のイギリス人同様の差別意識を持ちながら、時に彼らに人としての情を見せる、複雑な言動をみせます。
けれども、作者であるコンラッドの経歴をみれば、これは複雑でも何でもなく、自然なことなのです。
コンラッドの経歴とマーロウの人物造形
コンラッドの本名は、「ユゼフ・テオドール・コンラート・コジェニョフスキ」といい、ウクライナで生まれました。地主階級のポーランド人の家系にあった彼は、ポーランド人蜂起に関わっていたとされた両親とともにロシアへ流刑。両親を亡くした後、彼は、ポーランドで保守派の伯父に育てられます。革命派の親と保守派の伯父、二人の影響を受けたコンラッドは、船乗りの生活の後、イギリスで小説家となるのです。
言葉にしても、ポーランド語を母国語とする彼は、幼少期にフランス語、そして、ドイツ語、ロシア語と語学の習得の幅を広げますが、英語を学んだのは英国船に乗った時、成人を過ぎてからでした。彼は、その英語で、数々の小説を発表することになります。
つまり、コンラッドは、政治的な思想や民族、言語アイデンティティからみれば、分断を余儀なくされて生きてきた人物なのです。
本作は、1890年に彼が実際にコンゴヘ滞在した経験が色濃く表出されています。主人公であるマーロウにも、コンラッド自身の分裂した思いが託されていたことでしょう。
しかし、ここで注意しなくてはいけないのが、本作では「コンゴ」を初め、アフリカにおける地名を明確にしていないことです。冒頭で、イギリスのテムズ河を取り上げていたのに、肝心の本編となるアフリカでは、具体的な国の名前を出していません。
もちろん、文章中の描写や作者の経歴から、本作がコンゴのことを語っているのは明らかなのですが、あえて地名を明確にしなかったのは、マーロウの人物造形にも関わってきます。
マーロウも――作者の思想が反映されているとはいえ――実在の人物を示しているわけではないのです。
彼は、イギリスの陸地に定住することなく、「船」を住処に選んだ船乗りでありながら、「魔境」たる未知の大陸にも惹かれてしまう、ある意味、自己認識の危機(アイデンティティ・クライシス)を抱え持つ男として登場したのでした。
本作は、コンラッド個人のコンゴにおける、特異な体験だけを世に知らしめた話ではなく、その固有の教訓にとどまらず、地域・時代を超えた、様々な事象に当てはめることができる世界観をもつ作品として成立させているのです。
クルツという男―天使なのか、悪魔なのか
本作において影の主役といってもよい人物は、クルツというアフリカ奥地にある出張所の責任者です。
「コンゴ」の河口や中央出張所でマーロウは、会計士や支配人、社員から、クルツの評判を聞きます。「莫大な象牙を現地から回収してきて、会社に利益をあげている」、「この世に二人といないといっていいほど優秀な人間である」、などなど、彼を評するどれもが、彼が特異な人物であることを物語っているのです。
最初は、うさんくさい話だと半信半疑だったマーロウですが、支配人の叔父が隊長を務める「黄金郷(エルドラド)探検遠征隊」という、マーロウ曰く「事業の名を騙る植民地から財宝を奪う集団」がやってきたのにうんざりし、片や、周りから賞賛を受けながらアフリカ奥地で事業活動をしているクルツに、少しずつ興味を抱いていくのでした。
そして、ある日、マーロウは、偶然、支配人と彼の叔父が、クルツと思しき人物を罵る話を耳にします。それによると、クルツは、大量の象牙を運搬する際に付き添ってきたが、途中、気が変わったのか、象牙の方は部下に任せて、現地の人々と奥地の出張所へ、戻ってしまったというのです。
「俺はといえば、この時初めてクルツの姿が見えた気がした。ちらりとだが、はっきりとね。丸木舟、それを漕ぐ四人の蛮人、そして突然本社の経営陣に背を向けた一人の白人。この白人は、任を解かれて帰国するという考えにも、この時背を向けたのだろう。そして原始の魔境の奥のほうへ顔を向けた。無人になった荒涼たる奥地出張所のほうへ。」
ジョゼフ・コンラッド, 前掲書, pp81
知的で有能だといわれたクルツが、安住の地である「文明」から、あえて「魔境」へ戻っていく、彼のこの行動を知り、マーロウの意識は大きく変わります。そして、マーロウは、クルツは重病だということで、支配人と共に彼の救出に加わるのです。
途中、現地の人間の襲撃を受け、操舵士を失いながら、奥地出張所へ辿り着いた彼らの前に、クルツを崇拝するロシア人の青年が現れます。
「『あの人は僕にいろんなものが見えるようにしてくれたんです』」
ジョゼフ・コンラッド, 前掲書, pp137
青年は、「時にクルツが自分に銃を向けたこともある、だが、そうした一般的な基準で彼をはかってはいけない」と力説します。さすがにマーロウは、「クルツが狂っている」と指摘しますが、青年の崇拝の言葉がやむことはありません。
また、建物の前にある杭の上には、人間の首が並んでいました。青年は、それらの首は「謀反人」達のものであると釈明します。原住民は、クルツのことをみな崇拝している、とも。
状況だけをみると、クルツは、この「小さな王国」に君臨していた王様であり、神様だったということになります。マーロウの反抗の色をみてか、青年はクルツに逆らうととんでもないことが起きると忠告しますが、病魔に侵されてやつれはてたクルツと、初めて対面したマーロウの印象は次のとおりでした。
「俺は彼の眼の炎と、表情の物憂げな落ち着きにはっとした。それは病み窶(やつ)れとは別のものに思えた。苦しくはないようだった。この影のような男は満ち足りて泰然としていた。まるでありとあらゆる感情を味わい尽くしてしまったあとであるかのように。」
ジョゼフ・コンラッド, 前掲書, pp148-149
以降、マーロウとクルツが会えた時間は、それほど多くはありません。劇的なシーンといえるのは、クルツが船から脱走したのを、マーロウが追いかけて捕まえた時くらいでしょうか。それもマーロウがうまく事を収め、大きな事件とはなりませんでした。
しかし、クルツと彼との最後の場面は、本作のクライマックスといってもよいかもしれません。
「ある夜、蝋燭を一本持って船室に入ると、軽く震える声で彼が、『私は闇の中に横たわって死を待っている』と言うので驚いた。(中略)彼はすべてがすっかりわかるというあの死の直前の至高の時、欲望、誘惑、それへの屈伏を、細かく憶い出して、自分の人生をもう一度生きたのだろうか。何かの彫像、何かの幻覚を見たかのように、二度、囁くような、ほとんど息だけの声で、こう言った――。『怖ろしい! 怖ろしい!』」
ジョゼフ・コンラッド, 前掲書, pp171
それからほどなくして、クルツは死にました。
社会のルールからすると、彼は逸脱者であり、犯罪者です。独裁国家を作った悪人ともいえます。物語の展開上、クルツが病弱で何も抵抗できないから、マーロウ達に直接被害が起きていないに過ぎません(現に、マーロウ一行が襲われたのもクルツの指金でした)。
しかし、マーロウは、揺らぎはしたものの、実際にクルツに会うと、彼を擁護する立場になります。クルツは、現地の人を時に力で死をもって押さえつけ、支配してきた人間です。本作の主人公のこの判断を通じて、作者コンラッドがレイシストと評価される所以にもなっています。
ただ、マーロウのクルツという人物の解釈は、「魔境」の「闇」に魅入られ、闘ってきた人間である、そして、マーロウ自身も同類で、違いは、境界線を越えてしまったのか(クルツ)、越えなくて済むことを許されたか(マーロウ)の差だとしているのです。
「闇の奥」に魅入られた者たちの運命―「未開の地」に暗喩されたもの
マーロウとクルツに友情が芽生えたのは、疑いありません。クルツは、マーロウに支配人に見つからないように、自分の書類と一枚の写真を預け、マーロウは、クルツの意図を組み、会社へその引き渡しを拒否し、クルツの親類や新聞記者だけには、必要なものを見せ、受け取らせたのです。
マーロウは、最後に残された手紙の束と一枚の写真を手にして、クルツの婚約者に会います。
「『あなたはあの人の親友だった』彼女は続けた。『親友だったのですね』と少し声を大きくした。『そうに違いありませんわ。これを私に届けてほしいと頼まれたのですから。』」
ジョゼフ・コンラッド, 前掲書, pp185
写真には、婚約者が写っていました。クルツは、「コンゴ」の出張所だけではなく、イギリスの婚約者にも崇拝されていたのです。マーロウは、彼女の話をただ聞くだけで、アフリカでのクルツの残虐な振る舞いに言及することはありません。
時間にしてわずかな付き合いで、親友と呼べる関係が出来るかどうか、そこの現実性は問われるところですが、マーロウとクルツが、「闇の奥」に魅せられた同志だとすれば、彼の間に絆が生まれたことは想像に難くありません。
本作では、「海」であったり、「船乗り」であったり、そうした「絆」を大事にしており、互いが共有した時間は関係なく、魂が結びつくことを強調しています。
それは、「山」であっても、拡大すれば、「国」や「郷土」であっても、解釈次第で「絆」をつくることが有効になります。
さらに、ポイントとなってくるのは、マーロウもクルツも、イギリスの都市に代表される空間にこびりついてしまった、志もなく情も失った打算だけに生きている人々に嫌悪を感じていたことです。二人とも、保身と利益だけに走る支配人を嫌っていました。
さらに、彼らは、その文明の歪な空間を打破するのに「答え」を欲していました。
そこで、通常ならば、人が寄りつくことはない、未知なる「荒野、密林、魔境」に並々なる興味を持ったこと、そこの闇に鼓動する「心臓」に心を奪われてしまったこと、けれども、これに憑りつかれると「恐怖」が伴い、「地獄」が待っているかもしれないこと、こうした流れを感じ取っていたのでしょう。
本作においては、文明社会に依存して原始的な生きる力を失った人間と、それに対する「野性」――本作の「コンゴ」の世界を一例として――に魅入られて者達の対比を捉えないと、国や時代を超えて『闇の奥』が多大なる影響を及ぼしたことは理解できません。
しかし、本作は、かなり抽象的なテーマを取り扱い、しかも、書かれた英語は難解といわれ、翻訳にも労力を要求した作品です。プロットにしても、主人公マーロウが、注目の人物のクルツに会う前でにかなりの頁数が費やされるので、早いストーリー展開に慣れてしまった人には、不向きな面があります。
また、これも本作の魅力でもあるので、仕方がないのかもしれませんが、政治、人種、宗教、フェミニズムの視点からも様々な読み方ができますし、本項の最初に解説した、「枠物語」(フレーム・ナラティブ)という構造を批評展開することもでき、さらには、後にオマージュされた映画との比較検討もされるという、実に多義的な受け皿を持った作品なので、これまでの本来の主軸である、マーロウとクルツの関係に絞った話がされにくいという嫌いがありました。
こうした点から、本作はどちらかというと「玄人好み」のイメージが先行し、他の有名作品に比べて数多くの読者に受け入れられていなかったのかもしれません。これは実に残念なことです。
では、これから、これまでの解説をもとに、翻訳の伝達の難しさという観点から、マーロウとクルツが魅入られた「闇の奥」を、もう一度、見ていきたいと思います。
『闇の奥』――感想
本作の翻訳は、複数あります。理由は後ほど述べますが、本稿の解説では、光文社古典新訳文庫(2009)の黒原敏行訳を用いました。さらにここでは、岩波文庫(1958)の中野好夫訳と、新潮文庫(2022)の高見浩訳を加えた、3つの訳を比較して、本作のテーマにせまっていきます。
この3つの翻訳の中ですと、高見浩訳が最新となります。後発は先行の訳を参考に出来るのですから、翻訳の精度は上がると考えてよいのですが、言語表現に絶対ということはなく、翻訳者の解釈によって、その内容も変わっていきます。従いまして、ここでは、翻訳の優劣を比較するものではないことをあらかじめお伝えいたします。
むしろ、中野、黒原、高見の3氏が、『闇の奥』をどのように読み考えたのか、ということが翻訳からもわかる、新しい観点からの外国文学の読み方も提示したいと考えています。
“wilderness”(ウィルダネス)の世界~「闇の奥」をつくる舞台とは?
本作では、魅了されたクルツが堕ちていった「コンゴ」の密林の世界を、頻繁にこの英単語で表しています。日本語で直すと、辞書には、「荒地、荒野、未開の土地」などが出てきます。
もともと聖書にも頻出する単語で、そこでは「神聖な場所」という意味合いがあるのですが、アメリカのフロンティアの際に使われると「克服すべき未開の地」という解釈も出てきました。
この単語は、中野訳では「荒野」、黒原訳では「魔境」、高見訳では「大密林」とされています。字義的に忠実なのは、中野訳ですが、(もちろん、中野も理解していましたが)本作に使われる“wilderness”は、クルツやマーロウを惹きつけた「魔性」を孕んでいます。ですから、黒原訳では、一歩も二歩も踏み込んで「魔境」と翻案されたのです。
ただし、「魔境」という言葉のイメージは強く、ともすればオカルティズムを彷彿させてしまう恐れもありました(本作でもオカルティズムの気配はありますが、それが過剰になるとテーマがそれてしまいます)。それでも、あえて黒原はこの言葉を選択したのでしょう。私は、読者に端的に理解してもらうにはリスクをとることもやむなしという、黒原のこの姿勢を評価して、今回の解説では黒原訳を引用に使いました。
最新の高見訳は、本作の「コンゴ」の現実に即して「大密林」と翻案しています。また、状況に応じて「大密林の魔」という修飾をして、ニュアンスの修正もしています。誤読の恐れをなくし、本来の実情を表現したという点では、バランスのよい選択といえるでしょう。
“wilderness”は、繰り返し出てくる本作のキーワードであり、これをどのように訳すかで、作品全体のイメージが大きく変わってきますし、読後感にも影響します。ただし、映画『地獄の黙示録』の原作が本作だと知って読んだ人は、(設定されている場所が違うとはいえ)既に映像で舞台のイメージが出来上がっているので、それが優先されることもあるでしょう。これも、映像から本に入る、現代における文学作品の受容の形の一つです。
いずれにしても、本作のテーマ「闇の奥」は、 “wilderness”を通したその先にあります。読者の想像空間を創るのに、この舞台の訳語が重要な役割を担っていることは理解できます。
さらに、話をより難しくしているのが、タイトルとなっている「闇の奥」の原文で使われている単語が、“the heart of darkness”であることです。
書籍のタイトルは、雑誌初出では、“the”があったのですが、後に省かれました(“Heart of Darkness”)。これは、本作の「闇の奥」は、場所や時代を変えても、どのような場合でも通用するという意味で、より抽象的、普遍的にするため、削除されたのだと考えられます。
もう一度、話を整理すると、舞台空間として“wilderness”(荒野、魔境、大密林)が存在し、その奥(“the heart”)に闇(“darkness”)があるというわけです。この“the heart of darkness”の訳語問題については、また、後に論じていきますが、ここでは、訳者三者三様となった舞台“wilderness”を訳すことが、どれほど大変な作業であるか、皆さんにまずは理解していただきたいと思います。
マーロウとクルツの関係
マーロウとクルツの人物造形とその関係は、解説で取り上げましたが、これも訳書によって、解釈がかなり変わってきます。
まず、中野訳ですが、マーロウに「僕」という一人称を用い、黒原、高見訳はそれぞれ「俺」「おれ」としています。当然のことながら、中野訳ですとマーロウは上品で内向的に、他の二人では、無骨なイメージが付加されます。
英語の場合は日本語と違って、一人称の使い分けがないわけで、そこが訳者の頭を悩ますところとなるのですが、黒原、高見は、マーロウは、知的なところは大いにありますが、船長も切り盛りできる、一匹狼型の「船乗り」で武勇伝もあるので、この選択を取ったのでしょう。
次に、マーロウとクルツのやり取りの描写です。
中野、黒原訳では、マーロウはクルツに対して、「です、ます調」の丁寧語を使っています。対して、最新の高見訳は、クルツと同等の口調で話をしているのです。
これも代名詞と同じ、英語の原文では判断しようのない、日本語特有の問題ですが、どちらを選択するかによってイメージが大きく異なります。
高見訳では、マーロウはクルツに対して、表面上でも対等に接しているとしているわけです。これは先行の訳から意図的に変えたわけですから、高見独自のマーロウとクルツとの関係の読み方といえるでしょう。
これまで周囲は、クルツに対して、過剰に賞賛するか、逆に、意味がわからないものとして距離をおいて遠ざけるかという態度をとっていましたが、マーロウが「友人」という立場になったことは、解説で示したとおり明らかです。高見訳はそれを大きく進める形となりました。
さらに、面白いのが、中野、黒原訳では、クルツの婚約者とマーロウとのやりとりで、婚約者がマーロウをクルツの「親友」だったというのに対して、高見訳は「お友だち」と逆に表現をおさえているのです。
つまり、高見訳では、他の2作品に比べて、マーロウはクルツと同等の「友人」でありながら、「親友」とまでもっていかなかった(逆に、他の2作は、マーロウは、クルツに敬意を払いながら、精神的には「親友」と評された)ことになります。
これは、マーロウが、クルツに対して同調はしていたものの、あくまで対等の関係であり、彼の感情全てに溺れることはなかった(高見訳)とするのか、彼に敬意と信奉、同情など感情的に深い連帯をもっていた(中野、黒原訳)のか、解釈が異なることになりますし、本作の印象も、高見訳の方がやや「ハードボイルド」な雰囲気に変わってきます。
翻訳の仕方で、これほどまでに関係性が違ってくるのです。
“Heart of Darkness”(「闇の奥」)の所在~マーロウに語らせたかったもの
さて、マーロウとクルツが魅了された「闇の奥」ですが、このタイトルの訳語についても、訳者の黒原は頭を悩ませたことを解説で語っています。
“the heart of darkness”は、“darkness”の前に修飾語を載せた形でも、文章中にも出てきます。例えば、この概念が、人(クルツ)を魅了し屈伏させたという意味で「すべてを征服する闇の心臓(the heart of a conquering darkness)」であると表現されるのですが、この訳語とタイトルを直結させたいという気持ちが、黒原にはあったというのです。
他にも、文章中には、「闇の心臓の鼓動」など、人が闇に堕ちていくのに情感たっぷりな訳語表現もあるのですが、結局、「『闇の奥』という言葉のタイトルとしての姿と響きのよさは抜群であり、何物にも代えがたいという結論に落ち着いた」と黒原は言います。
本作における“the heart of darkness”では、「コンゴ」の大密林の中での生活で、知的で慈悲深く優秀だったクルツという男が「闇の奥」に魅了され、人間のもつ原始的欲求に目覚め、時には殺戮行為も厭わず、一方で、彼なりのポリシーがある生活空間を創立していたということになります。
マーロウは、クルツに対して、“heart of darkness”に惹かれる気持ちは大いに共感しているものの、人がそこに浸かりすぎてしまうと、末期は絶えられなくなってしまうことも自覚しています。
それが、クルツの遺言ともなった、“The horror ! The horror !”という言葉に集約されているのです。
この訳語は、中野、高見訳では「地獄だ! 地獄だ!」とし、黒原訳では「怖ろしい! 怖ろしい!」が選択されました。ちなみに、映画『地獄の黙示録』(原題:“Apocalypse Now”)の邦題にある「地獄」はこの中野訳からきているようです。
マーロウとクルツの関係は、これまで論じたとおりですが、マーロウは、クルツと違い、「境界線を越える」ことはありませんでした。つまり、“The horror ! The horror !”という感想までは共有することはなかったのです。
さらに、 “The horror ! The horror !”と追い詰められたクルツの最期を公にすることにも、難しい判断が強いられました。死者に鞭打つ結果となるからでした。
クルツの婚約者に、クルツが最後何を言葉に残していたかと聞かれたマーロウは、実際にあった“The horror ! The horror !”ではなく、「あなたのお名前でした」と嘘をついたのでした。
このエピソードに重みをもたせるために、マーロウがいかに「嘘をつく」ことが嫌いな人間なのか、本作では伏線が用意されています。ただ、本当にクルツのことを知ってほしければ、婚約者といえども、嘘をつく必要はありません。
では、なぜ、マーロウは嘘をついたのか。彼女と自分は違う人間だからです。違うといっても、支配人達のような対立する存在ではないのですが、「闇の奥」に魅入られることはない人達ですから、真実を話しても、つらく、不可解な思いをされるだけだと考えたのでしょう。
“The horror ! The horror !”――「闇の奥」を見た者の感想、これを「地獄」と例えるか、「怖ろしい」として読者の想像に委ねるか、これは訳者の判断ですが、いずにしても尋常でないものを解釈するのにはそれなりの「絆」が必要です。
ですから、マーロウは「海の絆」を持つ仲間達だけに真実を語ったのでした。
本作は、マーロウの話を聞き終えた「私」が、現実に戻り、漂うヨットの先に「大いなる闇の奥(“the heart of an immense darkness”)まで続いているように見えた」と告げ、結末を迎えます。彼らはイギリスのテムズ河にいるわけですから、この話が決してアフリカ大陸で限定されたものではないこと、「絆」を持った者だけが理解出来る、自分達、一人ひとりの心の中に、“the heart of darkness”(「闇の奥」)へ希求があることに気付かされた事実を物語っているのです。
ここでは、『闇の奥』のテーマが普及のものであることを、マーロウとクルツとの関係に焦点をあてて、翻訳の難しさも交えて感想を述べてきました。言葉は作品イメージの重奏を創出します。そのために、翻訳家の方も知恵を振り絞っています。そういった点にも、考慮しながら、外国文学を味わっていただけると幸いです。
★参考文献
中井亜佐子『日常の読書学 ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』を読む』、小鳥遊書房、2023
中井亜佐子『〈わたしたち〉の到来』、月曜社、2020年
文芸漫談シーズン4 コンラッド『闇の奥』を読む 奥泉光 いとうせいこう『すばる』8月号、集英社、2012年
夏目漱石『夏目漱石全集10』、ちくま文庫、1988年
ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』中野好夫訳、岩波文庫、1958年
ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』黒原敏夫訳、光文社古典新訳文庫、2009年
ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』高見浩訳、新潮文庫、2022年