『夢十夜』「第十夜」庄太郎の人物像から「女」と「豚の群れ」の正体まで!

『夢十夜』(第十夜)の紹介

『夢十夜』は夏目漱石著の短編小説で、明治41年から朝日新聞で連載されました。

第十夜は、『夢十夜』の最後の夢の話です。

ここでは、『夢十夜』第十夜のあらすじ・解説・感想までをまとめました。

『夢十夜』(第十夜)ーあらすじ

庄太郎が女に攫われてから七日目の晩に帰って来て、床に就いていると健さんが知らせに来た。

庄太郎は町内一の好男子で、パナマの帽子を被っている。

ある夕方一人の女が、水菓子屋の店先に立った。

庄太郎は女の着物の色が気に入った上、女の顔に感心してしまった。

籠詰を買った女に、お宅まで持って参りましょうと云って水菓子屋を出て、それぎり帰って来なかった。

七日目の晩に帰って来た庄太郎は電車へ乗って山へ行ったんだと答えた。

庄太郎の云う所によると、電車を下りて行くと、絶壁の天辺に出た、その時女が、此処から飛び込んで御覧なさいと云った。

庄太郎は辞退したが、飛び込まなければ、豚に舐められますが好う御座んすかと女が聞いた。

豚が一匹来たので、庄太郎が洋杖で鼻頭を打つと、豚は絶壁の下に落ちて行った。

見ると、幾万匹か数え切れぬ豚が、群をなして一直線に、庄太郎見懸けて来る。

庄太郎は豚の鼻頭を七日六晩叩いたが、とうとう豚に舐められて絶壁の上へ倒れた。

健さんは、此処まで話をして、だから余り女を見るのは善くないと云った。

けれども健さんは庄太郎のパナマの帽子が貰いたいと云っていた。

庄太郎は助かるまい。

パナマは健さんのものだろう。

『夢十夜』(第十夜)ー概要

主人公 自分
重要人物 庄太郎・女
主な舞台 不明
時代背景 不明
作者 夏目漱石

『夢十夜』(第十夜)―解説(考察)

・庄太郎の人物像

第十夜で登場する庄太郎は、『夢十夜』10篇の作品の中で唯一、二つの話に渡って登場する人物です。

庄太郎は第八夜でも登場しています。

以下に第八夜の該当部分を抜粋します。

庄太郎が女を連れて通る。
庄太郎は何時の間にかパナマの帽子を買て被っている。
女も何時の間にか拵らえたものやら。
一寸解らない。
双方共得意の様であった。
よく女の顔を見ようと思ううちに通り過ぎてしまった。

夏目漱石『文鳥・夢十夜』(夢十夜),新潮文庫,54頁

庄太郎の横の女が、第十夜の女かどうかはわかりませんが、パナマの帽子というキーワードからも、第八夜の庄太郎が第十夜と同一人物であることは間違いありません。

この庄太郎の人物像は、以下のようにまとめることができます。

  • 流行に敏感な西洋かぶれ
  • 善良な正直者の好男子で、一般的な庶民
  • 物事を表面的に捉えることしかできず、本質を見抜けない人間

第十夜の庄太郎に関する記述から、詳しく考察していきます。

庄太郎は町内一の好男子で、至極善良な正直者である。
ただ一つの道楽がある。
パナマの帽子を被って、夕方になると水菓子屋の店先へ濃しをかけて、往来の女の顔を眺めている。
その外にはこれと云う程の特色もない。

夏目漱石『文鳥・夢十夜』(夢十夜),新潮文庫,60頁

庄太郎のトレードマークともいえるパナマの帽子は、男性用の舶来の帽子で、当時流行していたものです。

非常に高価で、西洋文化の象徴であり、富の象徴でもある品です。

第十夜の後半では洋杖も描かれており、庄太郎は西洋の流行品を身に着けた西洋かぶれの人間であることが分かります。

また、「町内一の好男子で、至極善良な正直者」でありながら、「その外にはこれと云う程の特色もない」と書かれてあるように、善良で正直な好男子ではあるものの、特別な人物というわけではなく、ごく一般的な庶民であるということも窺えます。

水菓子にも色々ある。
水蜜桃や、林檎や、琵琶や、バナナを綺麗に籠に盛って、すぐ見舞物に持って行ける様に似列に並べてある。
庄太郎はこの籠を見ては綺麗だと云っている。(中略)
この色がいいと云って、夏蜜柑などを品評する事もある。
けれども、曾て銭を出して水菓子を買った事がない。
只では無論食わない。
色ばかり賞めている。

夏目漱石『文鳥・夢十夜』(夢十夜),新潮文庫,60頁

庄太郎は水菓子を綺麗だと言いながら、買ったこともなければ食べることもありません。

水菓子の肝心の味には無頓着で、見た目の美しさだけを評価しているのです。

これは庄太郎が、物事の表面的な部分しか捉えきれず、一番大切な本質の部分は全く理解できていない人間だということを意味します。

本質が分からず、ただただ西洋の流行品を取り入れて見た目を着飾っている庄太郎は、漱石が『現代日本の開化』で主張する「外発的な開化」、「皮相上滑の開化」の象徴であろうと考えられます。

・「女」と「豚の群れ」の正体

第十夜で印象的なのが、女と豚の群れです。

これらが何を表しているか、結論を言うと、

  • 女=西洋の強大な力
  • 豚の群れ=文明開化により日本に流入してきた西洋の潮流(文明、習慣、技術等)

であると考えられます。

まず女について説明します。

女は、身分のある人と見えて立派な服装をしています。

これは、富と力を有していた当時の西洋の姿に重ねることができます。

そして女は、豚の群れという恐ろしい大群を自在に操っています。

女が西洋の強大な力を表す象徴であると言うことができるでしょう。

また、豚の群れについて考えてみます。

豚と言えば、食用豚が思い浮かべられますが、養豚もまた、明治時代を契機に大きく変化していった産業です。

仏教の殺生禁断の思想の影響を受けて、日本では明治時代になるまで、養豚は大々的に行われてはいませんでした。

ところが明治時代に入ると、富国強兵の足がかりとして、畜産物の振興をはかる動きが出てきます。

そして政府の雇った外国人の指導を受けて、西洋の豚の飼育法を取り入れた養豚が始まり、西洋の技術を取り入れた養豚が、日本各地に拡大していきました。

つまり、豚もまた、文明開化によって日本にもたらされた、西洋の文明や技術等の象徴の一つと考えられます。

豚は大群となって、外発的な開化により上っ面の西洋模倣に勤しむ庄太郎に襲い掛かります。

本来自然に起こるはずの内発的開化をとばして、確固たる自己を見出せぬまま、西洋の強大な力を受けて強制的な文明の開化を行っていくことで、日本古来の文明や文化、日本人らしさはあっという間に消えていってしまいます。

豚に舐められて崖下に落ち、急な熱を出して床につく庄太郎が「助かるまい」と言われるのは、近代日本が迎えるであろう末路を暗示したものと言えるでしょう。

・「パナマは健さんのものだろう」の意味

語り手は、庄太郎は助からないと見た上で、「パナマは健さんのものだろう」という一言で第十夜を終えています。

この最後の一言が何か、結論を言うと、

● 西洋の強大な力が、これからも日本を押し続けていく

という漱石の懸念を表したものだと考えられます。

これは、漱石の明治44年の講演『現代日本の開化』の中に、読み解いていくことができます。

今まで内発的に展開して来たのが、急に自己本位の能力を失って外から無理押しに押されて否応なしにその云う通りにしなければ立ち行かないという有様になったのであります。
それが一時ではない。
四五十年前に一押し押されたなりじっと持ち応えているなんて楽な刺戟ではない。
時々に押され刻々に押されて今日に至ったばかりでなく向後何年の間か、またはおそらく永久に今日のごとく押されて行かなければ日本が日本として存在できないのだから外発的というよりほかに仕方がない。

夏目漱石『現代日本の開化』,青空文庫

日本に外発的な開化をおこした西洋の力は、一時のものではなく、今後何年か、おそらく永久に続くだろうということを漱石は言っています。

庄太郎は、押してくる西洋の力の前に倒れてしまいますが、これは庄太郎だけで終わる話ではなく、安易にパナマの帽子を欲しがる健さんもまた、近い将来豚に襲われ倒れていくのでしょう。

『夢十夜』(第十夜)ー感想

・『夢十夜』は一つの作品か?

第十夜で、『夢十夜』すべての解説を終えましたが、ここで改めて考えたいのが、『夢十夜』の10の夢の話は、一つのまとまりある作品として読むことができるのかという問題です。

私は、一つのまとまりある作品として、読むべきものだと思います。

『夢十夜』第一夜から第五夜までは、〈生と死〉の問題が各話の根底に流れていました。

そして、後半の第六夜から第十夜については、近代化・近代日本に関する問題が、様々な比喩・象徴を通して表現されていました。

すなわち、〈生と死〉という人間の根源的な問題から、現実社会での生き方という問題に、話の関心が移っていったと見ることができるでしょう。

この関心の変化は、まるで深い眠りの中にある意識が、どんどん浅いところへ浮上していくように、あるいはどんどん現実社会に近づいて覚醒していくように、作者の明確な意図をもって、構成されたものであると思います。

深い眠りの中で見る抽象的な夢から、浅い眠りの中で見る現実的で具体的な夢に、『夢十夜』の夢は徐々に質を変えていっているのです。

それは、『夢十夜』前半に夜の闇を描いた作品が集中していることや、「自分」が様々な姿に変身した作品が集中していることからも読み取ることが可能です。

漱石は、ごく短い10の短編作品を通して、人間の夢、そして人間が抱えている問題を描き出し、一つのまとまりのある作品として仕上げたのだと言うことができるでしょう。

・夢の解釈方法について

とはいえ、これはあくまで私の個人的な『夢十夜』の解釈です。

『夢十夜』には、多くの先行研究がありますが、主題をどのように読むか、どのようなアプローチで読解を進めていくか、様々な論があり、解釈の幅は非常に広い作品だと思います。

一連の解説の中では触れていませんが、フロイトの夢に関する理論を用いたアプローチなども、やり方の一つとして面白いと感じています。

漱石が亡くなっている以上、漱石の真意がどのようなものであったのか、いずれのアプローチをもってしても、完璧な正解を見出すことは難しいことでしょう。

しかし、『夢十夜』が多くの読者によって、様々に解釈されることは、漱石が10の夢を作り出す上で期待していたことではないかと思うのです。

なぜなら、人間が見る夢は自由で、好きなようにその意味を想像することができるのですから。

以上、『夢十夜』第十夜のあらすじと考察と感想でした。


【引用URL】
夏目漱石『現代日本の開化』,青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/759_44901.html

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yumihara

文学部出身の主婦です。文学の魅力が少しでも伝わるような、わかりやすい解説・感想を心がけていきたいです。