『金時計』の紹介
『金時計』は、泉鏡花の手による短編小説で、明治26年(1893年)に尾崎紅葉『侠黒兒』の附録として発表されました。
鏡花は紅葉のもとで書生生活をしており、よく引き立ててもらっていました。
鏡花の小説のうちでは数少ない、子ども向けの作品です。
この記事では、そんな『金時計』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『金時計』─あらすじ
鎌倉の西洋館の主人、アーサー・ヘイゲンが、住居の門前に「紛失した金時計を探し出して届けてくれた者には、礼として金百円を呈上する」と書いた立て札を出した。
人々は、西洋館の周囲に集まり、生い茂った雑草を刈って金時計を見つけようとする。
だが、金時計を紛失したというのは、雑草を無償で刈らせようと目論んだヘイゲンの虚言だった。
思惑どおりになったヘイゲンは、浜を散歩しながら「日本人の馬鹿!」と英語で嘲笑い、愛人に金時計を見せびらかした。
それを小耳に挟んだ子爵子息の三郎は、掏摸の男に言いつけて、ヘイゲンの金時計を掏らせた。
金時計を持ってヘイゲンのところに乗り込んだ三郎は、「浜で自分が言ったことを忘れたか」と詰め寄る。
窓外から、騙されたと知った者たちが「へいげん殺せ」と囃したて、ヘイゲンは詫びて百円を差し出した。
三郎は集まった者たちで百円を分けるように告げ、どっと歓呼の声が轟いたのだった。
『金時計』─概要
主人公 | 何某子爵子息・三郎 |
重要人物 | アーサー・ヘイゲン、栗山大助 |
主な舞台 | 長谷村(西鎌倉) |
時代背景 | 不明 |
作者 | 泉鏡花 |
『金時計』─解説(考察)
子どものための作品
『金時計』は、子どものために書かれた作品であるため、筋立てが単純明快で解りやすい「勧善懲悪もの」です。
おとなたちが「西洋人だから」と無条件でヘイゲンを信じているなか、十七歳の少年が冷静に物事を見極め、ヘイゲンの企みを暴きます。
この物語を通して作者が伝えたかったのは、西洋人だからといって誰もが正しいわけではない、悪どい人間には胸を張って対峙せよ、という日本の子どもたちへの激励でした。
「西洋人は難有いよ」
無償で日本人を使い、館の周囲の雑草を綺麗にしようと考えたアーサー・ヘイゲンは、東京で政府の御雇講師を務める富豪です。
そんな人だからこそ、金時計をなくしても警察に訴えるのではなく、「懸賞して細民を賑わすにしかず」と「ありがたいこと」を言ってくれるのだ、と館に雇われている飯炊の老婦人は言いました。
散歩に出たヘイゲンと偶然に出会った老夫(貧翁)も、彼と愛人の姿を見るなり跪いて頭を下げています。
政府御雇の西洋人が、日本人からどのように思われていたかがよく解る描写です。
ヘイゲンは、こうした日本人の性根をよく理解したうえで利用したのでしょう。
立て札ひとつで百人を無償で使ったヘイゲンのやり方は、褒められたものではありません。
しかし、彼がこうした行動に出たのは、周囲の日本人から有り難がられつづけて、自己の器量を過大評価するようになったせいだとも言えます。
作者は、西洋人というくくりでしか相手を見られない日本人のことをやんわりと皮肉っているのです。
同時に、大勢から奉られることで容易に自己評価を上げてしまう人間の愚かさをも指摘しています。
三郎の気持ち
庶民階級の日本人に英語が理解できるはずはないと決めつけていたヘイゲンは、老夫の前で「日本人の馬鹿!」と平気で口にし、自分の目論見もペラペラと話してしまいます。
ヘイゲンの後ろを歩いていた三郎は、英語が理解できたために真実を知ってしまいました。
三郎は「日本人の馬鹿」という言葉そのものを否定してはいません。
いくら草刈りをしても金時計が見つからないことやヘイゲンが草刈りの現場に出てこないことについて注意深く考えれば、誰でも「利用されている可能性」に気づくことができたでしょう。
けれど、人々は深く考えることもなく、金時計を探さねばという思いで、ヘイゲンの館の周囲を綺麗にしたのです。
三郎からすれば、それはまさに「日本人の馬鹿」を象徴する行為であり、腹立たしいものでした。
三郎の従者である栗山大助も、草刈りに出向こうとしたのでしょう。
ヘイゲンの思惑を聞き取った三郎が大助に向かい、「汝も我の謂うことを肯かんで草刈をやろうものなら、やっぱり日本人の馬鹿になるのだ」と言っていることから、それが解ります。
自分が身近に使っている者も、ヘイゲンの手のひらの上で踊らされようとしていたことは、「後来多望の麒麟児」と呼ばれる三郎には、許しがたいことでした。
三郎の気持ちが、ヘイゲンに一泡吹かせたいという方向に傾いたのは無理からぬところです。
三郎の心意気
三郎という少年は、作者の「日本男児観」の具現化です。
三郎は日本男児としてヘイゲンを懲らしめてやりたいと考えていました。
しかし、証拠と呼べるものは存在しません。
ヘイゲンと愛人との会話を聞いて理解できたのは三郎だけで、そんな話はしていないと否定されても反論できないのです。
子爵家の子息とはいえ、父親は隠居状態、本人も十七歳という若さでは、証拠もなしに正面からもの申すことは難しいのが現実です。
そこで三郎は掏摸を使ってヘイゲンから金時計を奪い、それを持って乗り込むことを考えました。
金時計を見たヘイゲンに「汝は掏摸だ」と大喝され、テーブルを叩かれても三郎は動じません。
盲目的に西洋人に怯えることのない、芯の通った日本男児の様子がはっきりと表現される場面です。
そして、三郎は「名誉ということを御存じがありませんか」と相手の心に切り込みます。
ヘイゲンの態度を咎めるのではなく、相手の矜恃を尊重するという、これも立派な日本男児としての姿です。
その援護射撃として、窓外の海上から「へいげん殺せッ」と吶喊の声を上げる人々、「も一番やれ!」と彼らに呼ばわる従者・大助の姿は、日本男児の一面である「益荒男」の象徴として書かれています。
三郎は、自身の英会話力、真実を知って「へえあの毛唐が!」と憤慨した掏摸の男の心意気、真実を知った者たちの団結力を集約し、日本人は馬鹿にされるような存在ではないということをヘイゲンに見せつけたのです。
さらに三郎は、ヘイゲンから懸賞金の百円を受け取り、集まった人たちに分け与えると宣言しました。
こうした公正で寛大な行動も、作者が読み手に伝えたかった日本男児像です。
『金時計』は、純粋な心を持った子どもたちへ、自らの才を磨き、「日本人は馬鹿だ」とひとくくりにされない人物に成長しなさいという鼓舞の思いが詰まった作品なのです。
『金時計』─感想
ヴィジュアルの麗しさ
この小説の主人公、何某子爵の子息である三郎は、「紅顔の可憐児、二十歳に満たざる美少」と描写されています。
この時代の十七歳といえば、成人あつかいされてもおかしくはないですが、三郎の場合は身分柄、まだ働いていないでしょうし、「可憐児」や「美少」と表現されてもおかしくはありません。
しかし、そういった彼の立場以上に鏡花が意識したのは、大柄な西洋人であるヘイゲンと向かい合った時の絵面ではないかと思います。
大きな西洋人を相手に、小柄ながら整った顔立ちをした日本人の若武者が一歩も引かず、むしろ優位に立って攻めていく様子を読み手の脳裏に描きたかったのではないでしょうか。
また、従者の大助のことも「南海の健児」「勇士の相あり」という表現を使って、たくましく力強い容姿であることを伝えています。
ヘイゲンの愛人も「横浜風を粧う日本の美婦人」と描写されていて、最先端のファッションをまとった美女が思い浮かびます。
一方で、ヘイゲンについては「白皙の面」、つまり「色白の顔」という表現しかされておらず、物語の敵役にしては素っ気ないほどです。
鏡花にとって、描写する価値があるのは日本人の登場人物だけだったのでしょう。
もっとも、役どころのある日本人の登場人物でありながら、金時計を盗むように言いつけられた掏摸には、とくに容姿の描写がありません。
その代わり、時計を掏ってこいと言われて「事も無げに」頷いたり、ヘイゲンの企みを聞かされて憤慨し、「私ゃこんなものでもね、日本が大の贔屓さ」と見得を切るなど、日本人ならばパッと頭に浮かぶような格好の良い科白まわしや仕草を与えられています。
いずれも、日本人を正義とした単純明快な勧善懲悪ものに相応しい描写だと思いました。
歌舞伎の舞台を観るように、読み手の脳裏に絵面を描き出す文章の妙と言えるでしょう。
物語の続きを思う
小学校のころ、教科書に載っている短編小説の続きを書きなさい、という課題がありました。
ひとつの形にまとまっている小説の続きを勝手に考えるなど、国語教育として如何なものかと思う反面、物語の続きを考えることに楽しさを覚えたのも事実です。
『金時計』ならば、掏摸の男が大助とともに三郎に仕えるようになったら、などという展開はどうでしょうか?
市井の噂を三郎のもとに届け、見聞を広げる手助けをする役割です。
大助は文句を言いながらも、何だかんだで掏摸の男とウマが合い、ときには従者二人だけで事件を解決するなどということがあるかもしれません。
また、愛人という立場上、当然のことだったのかもしれませんが、通訳ができるほどに英語を身につけている女性の将来はどうでしょうか?
それだけの才があるのなら、愛人という不安定な立場ではなく、職業婦人になれる可能性があります。
三郎と知り合う縁を得たのですから、子爵家に仕える、子爵家に関わっている商家に雇われるなど、いくらでも道はあるでしょう。
一も二もなく西洋人を崇めてしまう日本人と、ヘイゲンのように「日本人の馬鹿!」と利用しようとする西洋人との間に立って、日本人に損がないように、時には西洋人に頭を下げさせるくらいのことはしてくれそうです。
短い小説だからこそ想像を広げる余地があり、いろいろな意味で余韻を楽しむことができる作品だなと感じました。
以上、『金時計』のあらすじ、考察、感想でした。