『冠弥左衛門』の紹介
『冠弥左衛門』は、明治25年(1892年)10月から42回にわたって『京都日出新聞』に連載された泉鏡花のデビュー作です。
最初は「泉鏡花」という筆名を使っておらず、本名の「泉鏡太郎」名義で発表されました。
発表時は賛否両論があり、ひどくこき下ろすような論評もあった作品です。
ここではそんな『冠弥左衛門』のあらすじ・解説・感想をまとめました。
『冠弥左衛門』─あらすじ
鎌倉・長谷村の分限者・石村五兵衛は、領主をとらえて暗殺し、取ってかわることを目論む執権・岩永武蔵と手を組んでいました。
五兵衛は村の土地を全て買い占め、それに反抗した鍛冶屋・鋭鎌利平夫婦を岩永に頼んで処刑してもらい、村人たちに重税を課し、暴利をむさぼっていました。
利平の甥・猿の傳次は、利平の遺児・霊山卯之助を旗頭に一揆を企てましたが、失敗し、仏師・表徳こと冠弥左衛門に助けられます。
一方、領主の忠臣・沖野新十郎は、岩永を討とうとしたものの果たせずに死亡、遺された妻・阿浪が奔走して、幽閉された領主から岩永打倒の御墨付をいただきました。
阿浪は、弥左衛門の亡き妻の妹であり、その縁で弥左衛門たちのために働いていたのです。
阿浪は殺されますが、弥左衛門は御墨付を手に入れ、村人たちをまとめて一揆を起こすことに成功しました。
傳次と卯之助は仇討ちを成し遂げ、弥左衛門は五兵衛一家を滅ぼして領主を解放し、村に平和が戻ります。
弥左衛門は、「呼びに来た行かざなるまい極楽へ 阿弥陀の修復頼まれて行く」の句をのこして飄然と姿を消しました。
『冠弥左衛門』─概要
主人公 | 冠弥左衛門 |
重要人物 | 卯之助、傳次、阿浪、石村五兵衛、岩永武蔵 |
主な舞台 | 鎌倉・長谷村 |
時代背景 | 室町時代 |
作者 | 泉鏡花 |
『冠弥左衛門』─解説(考察)
・勧善懲悪の物語
『冠弥左衛門』には、3つの「勧善懲悪」が描かれています。
- 農民一揆
- 悪臣討伐
- 仇討ち
この3つです。
善側と悪側のおもな登場人物はほぼ同じですが、その中に3つの「勧善懲悪」が入れ子状になっているのが特徴です。
日本人の心に響く「勧善懲悪」を大盤振る舞いした作品が『冠弥左衛門』であると言えます。
一つ目の勧善懲悪「農民一揆」
石村五兵衛と岩永武蔵は結託して、村人たちから税金を搾り取っていました。
傳次と卯之助は、それを止めさせようと一揆を企てますが、これは失敗してしまいます。
後先を考えず、とにかく人々を扇動して五兵衛のところへ討ち入れば何とかなるという無鉄砲な計画では、一揆を成功させることはできません。
このとき、傳次と卯之助を救った冠弥左衛門は、自分が一揆を率いるにあたって、綿密な作戦を立てました。
無用な犠牲者が出ないよう、参加した村民たちに自身や家族の身の処し方を詳しく指示する配慮、五兵衛一家を滅ぼすにしても、幼子をのこして石村家を継がせると宣言し、無駄な恨みを買わないようにするといった行動で、一揆を成功させています。
この一揆は、明治11年(1878年)に神奈川県真土村(現・平塚市)で実際に起きた村民の暴動「真土事件」を題材にしたもので、鏡花は一揆の首謀者・冠弥右衛門の名を「冠弥左衛門」に変えて、登場させました。
真土事件は市民の理解や同情を集め、首謀者らの助命嘆願運動が起き、実際に助命嘆願書が県庁に提出されたほどです。
鏡花は、人々がよく知る時事事件をデビュー作の題材とすることで、読者の興味を引き、物語に入ってもらいやすくしています。
実際の冠弥右衛門は村民の一人に過ぎませんでしたが、鏡花は、冠弥左衛門を漂泊の仏師・表徳という、もうひとつの顔を持つ謎めいた人物として描きました。
無償で仏像の修理をする無私の人物でありながら、勝手に寺門の上に居座ってしまったり、酒を飲んで絡んだりと人間くさい部分を見せることで、魅力的な登場人物とすることに成功したのです。
二つ目の勧善懲悪「悪臣討伐」
二つめの「勧善懲悪」は、領主に取って代わろうとする執権を討つ忠臣の物語です。
忠臣・沖野新十郎は領主を救うべく、岩永武蔵を討とうとしましたが失敗、餓死させることが目的の「経師ヶ谷の地獄牢」に送られます。
ここから、ひとり逃れた妻・阿浪の活躍が始まるのです。
阿浪は、武士の誇りがあるなら餓死することなど耐えがたかろうと夫に短刀を差し入れるほどの烈婦として描かれました。
日本人は義士や烈婦の活躍が大好きなので、この行動を魅力的に感じた読者は多かったことでしょう。
阿浪は、夫の死後も義兄(亡姉の夫)である弥左衛門に協力して、幽閉されている領主のもとへ岩永討伐の御墨付をいただきに行き、それを持ち帰る途中で捕らえられてしまいます。
苛烈な拷問によって死に至る阿浪ですが、命がけで手に入れた御墨付は無事に弥左衛門の手にわたって、岩永を討つことの正当性をもたらしました。
あからさまな悪臣であっても、ただ討ったのでは世間、この場合は読者に正しい行いだと納得してもらうことができません。
そのため、鏡花は阿浪という登場人物を使って、手順に則った「勧善懲悪」の物語を完成させたのです。
三つ目の勧善懲悪「仇討ち」
鏡花の時代の人々の誰もが、「日本三大仇討ち」(曾我兄弟、赤穂浪士、荒木又右衛門)を知っていたことでしょう。
「仇討ち」とは、それほどまでに日本人に好かれる筋立てです。
傳次と卯之助は、岩永武蔵によって処刑された鋭鎌利平の甥と遺児で、彼らが岩永を殺して仇討ちをするというのが三つめの「勧善懲悪」です。
卯之助は、霊山高妙寺の是空上人が拾った「首の無き女襦袢一枚に剝かれて数ヶ所の切疵、疵口破れて脇腹から今生れたという嬰兒」でした。
「首の無き女」は利平の妻・渚で、是空はそれを承知で卯之助を手元に置いて育てたのです。
生まれながらに両親を亡くし、親の顔も知らない卯之助は、この物語の時点で十八歳、「嬋娟たる嬢子と見紛うばかり」「其匂やかなる姿には、花も色なく見えにけり」という美少年に育っていました。
しかも、地元の暴れん坊たち何人もを相手にして叩き伏せてしまうほどの腕達者です。
ただの捨て子ではなく、人々のために尽力して処刑された悲劇の英雄の遺児であること、美しい容姿、容姿に似合わない腕っ節といった「ヒーローとしての要素」を、鏡花はこれでもかというほど、卯之助に詰め込みました。
卯之助の恋人・小萩が岩永に目を付けられて拐かされるという悲恋を背負わせることで、ちょっとした影をまとわせたりもしています。
仇討ち後、岩永のところへ潜入した女装姿のままで人々の前を歩かせるといった演出も盛り込まれており、卯之助は仇討ち物語の立役者として、これ以上にないほどの魅力を持った人物として作り上げられたのです。
人殺しである仇討ちを、美しく魅力的な物語として伝えるために卯之助は生みだされました。
鏡花は、どのような登場人物が読み手の心をとらえるか、作品を引っ張っていってくれるかということを深く考えたのでしょう。
登場人物を作るにあたって、鏡花が何を重視していたかということを見られる良い例だといえます。
幻想文学の芽生え
『冠弥左衛門』の主要登場人物である阿浪は、魔侘羅という犬を連れています。
拷問によって殺された阿浪は、領主の御墨付を口中に含んだままでした。
その首を食いちぎり、弥左衛門のもとへ首ごと御墨付を運んだのが魔侘羅です。
美しい女性と人の首を食いちぎるほどの犬というと、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』における伏姫と八房を思い出させます。
鏡花の脳内にも、おそらく同じ発想があったことでしょう。
後に日本の幻想文学の先駆けと言われる鏡花は、こうした江戸文芸の伝奇的な要素を、デビュー作から積極的に取り入れていたわけです。
一部からは酷評された『冠弥左衛門』ですが、作家・泉鏡花が最初に世に送り出した作品として考えれば、作家として大成したときの「鏡花らしさ」が随所に見られる佳作と言えるのではないでしょうか。
『冠弥左衛門』─感想
阿浪の魅力
私は、この物語の登場人物のうちでは、領主の忠臣・沖野新十郎の妻である「阿浪」がいちばん好きです。
最初は「沖野新十郎が宿の妻」とだけ記され、名前もなかったので、そんなに重要な登場人物とは思っていなかったのですが、話が進むにつれて、夫の誇りを守り、夫の死後は彼に代わって領主を救うために奔走するという活躍をします。
領主の御墨付を運ぶ最中に石村一味に捕らえられた阿浪は、岩永の配下である中村大六によって、酷い拷問を受けました。
そのへんから集めた刀の「鋸のごとく刃をこぼし、碁盤の目に組合わして」敷いた上に座らされ、おびただしい鮮血を流しながらも「なまくら武士の魂は女の臀に敷かれたな」と言ってのける女丈夫ぶりは、生々しく残酷な拷問の場面であるにも関わらず、清々しささえ感じさせてくれました。
それを聞いた大六は腹を立て、阿浪の膝の上に石地蔵を転がします。
「左の足は太股より斬れて血の中に横たはり、右なる白脛は犇と朱に染みて絞るが如し」という状況になりながら、「あゝ先立たれし我夫様、阿浪は閨の淋しさに、石の地蔵を抱きました。と完爾り笑うて気絶えたり」という死に様は、烈婦の鑑であると同時に、夫を想うかわいらしさがあって、心に迫るものがありました。
しかし、鏡花の阿浪に対する扱いはこれで終わらず、愛犬・魔侘羅によって首を食いちぎられることになります。
物語としては当然の流れであり、阿浪の死を賭した行動が無駄ではなかったことが解るのですが、なんとも気の毒に感じました。
この魔侘羅も最後の場面で走り去って、弥左衛門同様、その行方は知れないままです。
案外どこかで弥左衛門と再会し、阿浪の思い出と三人連れで旅をしているかもしれないと想像すると、阿浪の無念がすこし晴れるような気がしました。
卯之助の恋
卯之助という稀代の美少年が登場する以上、「勧善懲悪」以外にも「恋愛話」が題材とされていてもおかしくはありません。
実際、卯之助には小萩という恋人がいて、岩永に見初められたり、監禁されたりするのですが、どうも鏡花はこの二人の恋愛を扱いかねた観があります。
小萩は、卯之助が寺を出るきっかけになるなど、重要な役どころです。
かくまってもらっている身なのに、卯之助に逢いたいばかりで屋敷を脱け出したり、岩永を殺せば卯之助と夫婦になれるからと沖野夫妻の計画の実行犯を引き受けたり、というところは、いかにも恋する一途な少女という感じなのですが、その一方で、母親の墓前で沖野夫妻への恩返しを誓うなど、芯が定まっていない印象を受けました。
そのため、卯之助と小萩の恋そのものがあやふやになっている気がします。
最終的には「霊山汝を妻とすべし」とあるので、二人は夫婦になるのでしょうが、それと同時に、岩永のところに潜入する協力をした歌次という芸妓について「棄てた女にあらねば、愛妾の候補者勿論なり」としていて、そんな簡単に愛人を作らせるのかと、これも呆気にとられました。
結局のところ、八百屋お七のような狂乱するほどの恋心を体現できたわけでもなく、恩返しをするような気丈さも見せないままで、小萩の活躍が終わってしまったのは、とても残念に思います。
後の鏡花ならば、小萩の心をもっと複雑に描写していそうなものですが、デビュー作ではそこまで展開させることができなかったのでしょう。
個人的には、もう少し艶やかな恋模様を読んでみたかったな、と思いました。
闊達な場面描写
『冠弥左衛門』は、さまざまな場面が非常に活き活きと書かれた作品です。
ことに、卯之助の立ち回りなどの動きがある場面、風景を細密に描写している場面では、七五調の連続で、そのシーンが眼前に浮かび上がって見えるほどに文章が息づいています。
気に入った場面を声に出して読んでみると、効果音まで聞こえてくるようで、よりリアルに感じられました。
卯之助が敵に襲われた時の「欄干に手を突羽根や、擬宝珠を飛ぶ牛若丸」といった懸詞を交えての表現、小萩に別れを告げる「袂を切って立つ汐や、二本まで読む小松原、蝶の羽返し一散に」という描写などは、日本語を音読する楽しさを教えてくれます。
この作品のおかげで、時には声を出しながらの読書が面白い、と知ることができたように思います。
以上、『冠弥左衛門』のあらすじ、考察、感想でした。