1.樋口家、竜泉寺で商売を始める
父の借金を背負い、今日明日の生活にも事欠くようになった一葉。
小説家としてデビューはしたものの、なかなか入らない原稿料をあてにして、母は娘にプレッシャーをかけてきます。
執筆は思うように進みません。
ここで彼女は決心をしました。日記にこう記しています。
“人つねの産なければ常のこころなし。手をふところにして月花にあくがれぬとも塩噌無くして(=食べることを無くして)天寿を終らるべきものならず、かつや文学は糊口の為になすべき物ならず。おもひの馳するまま、こころの趣くままにこそ筆はとらめ。いでやこれより糊口的文学の道をかへて、うきよを算盤の玉の汗に、商ひといふ事をはじめばや“
(明治26年7月)
文学とは生活のためにするのではない。我が思いの馳せるまま、心の向くままに書こう。この世を渡るために、商いを始め実業に汗を流すのだ。
自分の文章は売らない。物を売ろうというのです。
新天地は、竜泉寺町(現・台東区竜泉)となりました。吉原遊郭のすぐ隣にある町です。
これが樋口一葉を新たなる才能開花へ導く「竜泉寺時代」です。
“とにかくに 越えてを見まし空蝉の世渡る橋や 夢の浮橋“
(明治26年7月)
JR鶯谷駅から竜泉へ向かいます。
樋口一葉旧居跡
店は妹のくにが店番、姉の一葉が仕入れ担当です。
仕入れへは下谷や浅草、片道4㎞以上もある神田までも徒歩で向かいました。
朝暗いうちに家を出て、ろうそく、紙類、針や糸、しゃぼんなどの商品を仕入れ、背負って戻る。重労働です。
そのうちに店は、利益の出る荒物売りからだんだんと薄利多売への駄菓子へと移っていきました。
慣れない商売は失敗の連続だったものの、少しずつ軌道に乗ってきます。
しかし向かいに同業のライバル店があらわれ、一葉の店はあっという間に暇になってしまいました。
元々「武士の商売」のような樋口家の商いは、短期間で傾いていくのでした。
2.竜泉寺で作家が得たもの
商売はいまいちでしたが、この町での経験は、一葉の文学に大きな影響を与えました。
この竜泉寺時代がなければ、その後の樋口一葉は決して現れなかったでしょう。
<創作に新しい構想が生まれる>
彼女自身、本郷の菊坂では、生活は貧しくとも土地は山の手、士族としてのプライドも保ちつつ「萩の舎」という閉ざされた上流意識の中で人付き合いをしてきました。
それが一転、竜泉という吉原遊郭の間近で商いをしたのです。この時期、実業に忙しい一葉は、萩の舎の活動には近寄りませんでした。
そしてこの竜泉で、廓の経済に関わりながら生きる人々の現実や気性に触れ、駄菓子を求めて自分の店に集まる子どもたちをつぶさに観察し、あの名作「たけくらべ」の構想が生まれるのです。
「人生で経験することに、無駄なことなど何一つもない」ということは、彼女から学ぶことができます。
一葉記念館
明治20年2月に催された萩の舎の歌会、15歳の一葉は60名の参加者のうち最高点を獲得します。
「前編」でも少し触れましたが、彼女の晴れ着は古着の黄八丈を仕立て直したものでした。
<人間として、内面の成長を得る>
“世の中に人のなさけのなかりせば もののあはれは知らざらましを“
(明治26年11月)
世間の人の思いやりがなかったら、人間らしい優しさを味わう感覚も知らなかっただろう…
残念ながら、店は10ヶ月で閉めることになります。
しかしこの間、本郷を離れ、萩の舎からも離れていた一葉は、日々に追われつつも過去の人間関係を振り返り、内面を熟成させていきました。
創作への刺激を得る一方で、以前の自らの感情を客観的に見ています。そして桃水への悲恋さえも、
「苦中の奥がすなわち楽なり」という総括をしています。かっこいい!
そして前出の和歌があらわれるのです。
さあ、小説家として開花する準備は整いました。
3.それでも貧しい
もし一葉がここまで貧しくなかったら、もっとのびのびと文章が書けただろうにと思うことがあります。
竜泉の店をたたみ、ふたたび本郷近くの丸山福山町に転居した明治27年(1894)5月。樋口家はますます困窮していました。
この時期、切羽詰まった一葉は、久佐賀義孝(1864-1928)という人物を頼りました。
久佐賀は海外で学問を修め、本郷で天啓顕真術会を開いた人物です。
易学を行い、人の吉凶から相場の相談まで受けていました。
一葉は偽名を使い、コネなしで訪問、初対面で4時間に渡る熱弁をふるい、援助を申し込みました。
彼は一葉の博識ぶりと論理的なもの言いに驚いたことでしょう。
結局、久佐賀からは支援の見返りに妾になれという誘いあり。当時にはよくある話なのかもしれません。
一葉はこの誘いを断りながら、さらなる援助を申し込んでいます。
それこそ「同情するなら金をくれ」です。
ほんの数年前まで、萩の舎で「ものつつみの君」とあだ名されるほど、内向的な優等生だったのに。
この人はなんと太くたくましく成長したことでしょうか。図々しくもあっぱれという感じです。
こうして、一葉の晩年はすさまじい金策と怒涛の執筆に追われていきました。
4.創作の頂点へ
そんな中、明治27年(1894)12月に「大つごもり」が雑誌『文学界』に発表されました。
この明治27年から28年が、世に言う“奇跡の14ヶ月“。作家の頂点です。
明治28年1月から「たけくらべ」の連載開始(『文学界』)、9月「にごりえ」、12月「十三夜」を『文芸倶楽部』に発表、その他にも作品が発表されました。
名作の舞台を見てみましょう。
「たけくらべ」龍華寺のモデル、大音寺
吉原の全盛花魁を姉にもつ14歳の美登利。彼女が恋心を寄せるのは藤本信如。
信如は龍華寺の跡取りでした。
「たけくらべ」太郎稲荷
美登利は姉の商売繁盛のために、毎朝ここへお参りをした。
「たけくらべ」鷲神社
「たけくらべ」ラストシーンの酉の市。
美登利は京人形のように美しく着飾る。
姉に続き、自分も遊女になる日が近づいているのであった。
“ええ厭や厭や、大人になるのは厭な事、何故このやうに年をば取る“
(「たけくらべ」より)
「十三夜」の新坂
名家へ嫁いだお関は、夫のモラハラに耐えかねて夜遅くに実家へ帰ってくる。
実家は上野の新坂下にあった。
5.作品の鑑賞|「奇跡の14ヶ月」
一葉の小説は、現代人にはとても読みにくいですね。
これは文語体と口語体を取り混ぜた雅俗折衷体のためです。
しかしこのおかげで、話題がリズミカルに表現され、読み手の脳裏にはその様子が自然と広がり映し出されます。
これをすべて現代語訳にすれば、その文章は説明過多になってしまうでしょう。
こうして「奇跡の14ヶ月」の作品を読むと感じるのは、一葉が、とにかく書きたくて仕方なかったのだということです。
竜泉時代に得たアイデアに自身のあふれ出す言葉を載せて、一気に書き上げたという様子が、彼女のリズミカルな文章からは伝わってきます。
だからこそ、樋口一葉は、なるべく原文で読むことをおすすめしたいですね。
6.通い続けた東京図書館
24年間の生涯で、一葉が心から幸せを感じていたのはいつだったのでしょう。
私は、東京図書館を訪れている時であったのではないかと思います。通称「上野図書館」として親しまれた図書館です。
菊坂時代も竜泉寺時代も、彼女はここへ通いました。どの場所からも図書館は遠くありません。
東京藝術大学の音楽学部敷地内に、赤レンガ2号館として残っています。
当時、多くを占める男性利用者に混じって、一葉はよく利用していました。
ときには妹のくにと連れ立って行くこともあったようです。
随筆家 薄田泣菫(すすきだきゅうきん)は、図書館の目録コーナーで一葉姉妹を見かけたことを思い出として書いています。
菊坂から東京大学を抜けて、無縁坂を下ります。
池之端に出ると、目の前は上野の不忍池です。
“図書館へ行かばやとて出づ。空は一点の雲とてなく、(中略)暑しともあつし。大学を抜て池の端へ出づ。茅町のほとりより蓮の清き香遠くかをりて、心地もすがすがしくなりぬ“
(明治24年8月)
生活に追われながらも、足早にここへ通い、本を読み、調べものをする。
図書館で資料を読みふけり、あっという間に1日が過ぎる。
なんと豊かな時間でしょう。
一葉が勉強をするために、妹のくには家事や内職などの家のことはいっさいを引き受けて姉を助けていました。
優しい妹です。姉の亡き後に「一葉日記」の出版に尽くしたのも彼女でした。
家族の応援を背に図書館へ通い、家では机に向かい執筆をして夜を明かす。
樋口一葉はそうして次々と名作を生み出し、24年間の生涯を駆け抜けた人でした。
✳︎参考文献
「樋口一葉 新潮日本文学アルバム〈3〉」 新潮社,1985
「樋口一葉と歩く明治・東京 」藤井 恵子 (著), 野口 碩 (監修),小学館,2004
「こんにちは一葉さん―樋口一葉ってどんな人 」森 まゆみ (著),NHKライブラリー, 2004
「樋口一葉 日記・書簡集」関礼子(編),筑摩書房,2005
「樋口一葉 伝統的美意識を凌駕する早逝の天才歌人」島内裕子(著),笠間書院,2019
「一葉のポルトレ」小池昌代(解説),みすず書房,2012
「全集 樋口一葉 小説編」小学館,1996