1はじめに
今回は日本初の女性職業作家、樋口一葉 (1872-1896)です。
五千円札でおなじみの方ですね。とはいえ、私が知っている樋口一葉といえば、代表作が「たけくらべ」であること、若くして亡くなった不遇な人であるということくらいでした。
そこで一葉ゆかりの地を訪ね、その作品と生涯に触れてみました。
24年間の人生を、筆一本を武器に駆け抜けた一葉さんです。
- 萩の舎跡
- 菊坂下の旧居
- 樋口家が通った伊勢屋質店
- 「にごりえ」に登場する源覚寺
- 「大つごもり」お峯の家、初音町
- 「にごりえ」の主人公、お力が住んでいた地、白山
- 一葉終焉の地(丸山福山町)
- 樋口一葉旧居跡
- 一葉記念館
- 「たけくらべ」龍華寺のモデル、大音寺
- 「たけくらべ」太郎稲荷
- 「たけくらべ」ラストシーン、鷲神社
- 「十三夜」の新坂
- 一葉が通った東京図書館
上記を巡ってきました。前編・後編に分けて写真とともにお伝えします。
前編では、東京大学前の本郷・小石川・西片・白山を訪れました。
2歌人、樋口なつ
“細けれど人の杖とも柱とも 思はれにけり筆のいのち毛“
これは、樋口なつ(一葉の本名)が小学生時代に初めて読んだ和歌です。「人生を自分の筆一本で渡っていきたい」という思いが、このころからすでにあらわれています。
なつの父、樋口則義は、幕末に同心株を買って士族となり、明治では東京府の役人になりました。
樋口家は中流の公務員家庭です。なつは、9歳で小学校に通い始めます。しかし、女子に学問は不要という母の考えがあり、11歳で小学校の高等四級を首席で修了したものの、そのまま退学させられてしまいました。
なつは、生涯に渡り日記を書いていますが、この小学校退学についても振り返っています。
“死ぬばかり悲しかりしかど、学校はやめになりけり“
(明治26年8月の日記)
また幼少期から読書に夢中になり、9歳の彼女にはこんな願いがありました。
“九つばかりの時より、わが身一生世の常にて終わらむこと嘆かわしく、くれ竹の一ふしぬけ出てしがな、とぞあけくれに願いける“
凡人のまま終わるなんていやだ。人より抜け出たい。
幼いなつの、負けん気の強さがあらわれています。
そんな娘の向学心を、父は理解していました。なつが14歳のとき、歌塾「萩の舎」へ入門させてくれます。
ここでは和歌や書、古典も学ぶことができました。
この萩の舎こそが、樋口一葉の人生の基礎となる世界です。
何よりも14歳の少女にとって、同世代の友人や先輩たちと過ごす青春の学び舎でもありました。なつ、よかったね。
そんな萩の舎跡へ行きましょう。
後楽園駅から歩いて15分ほど。
萩の舎跡
萩の舎のお稽古日は毎週土曜日。その日は、ここに黒塗りの紋入り人力車がずらりと並びました。各家お抱えの車夫たちがお嬢様の戻りを待つのです。
「萩の舎」は、中島歌子(1844-1903)が主宰した歌塾です。
当時、和歌は教養人のたしなみでした。
歌子は、和歌のみならず、経営の才もあったようです。
有力者の援助を受けながら歌塾は成功し、萩の舎には華族など上・中流階級の子女や夫人をはじめ、1,000人近くの門弟がいました。
樋口なつは、士族とはいえ経済的には庶民でした。そんな彼女が富裕な令嬢たちとまみえるのは気後れしたことでしょう。
しかし歌子は、後ろ盾となる上流階級の門人を大切にするとともに、なつのような才能の秀でた者にも目をかけました。
とはいえ、14歳の少女が令嬢たちとともに和歌を学ぶ。向学心だけで彼女が満たされたとは思えません。
周りのお嬢様が着るぜいたくな着物。通学には各家お抱えの人力車。なつは劣等感を抱いたことでしょう。
しかし彼女はすぐに才能を発揮しました。入門半年にして、萩の舎の大イベントである新年の歌会に参加し、参加者60名のうち最高点を獲得したのです。歌のお題は「月前柳」。
“月前の柳
打ちなびく柳を見ればのどかなる 朧月夜も風はありけり“
(明治20年2月)
のどかな朧月夜にも風はあるのだな、ふと見ると柳の細枝がなびいている…
題詠みですから、実際の景色を目にしたわけではありません。彼女の想像力と表現力、日ごろからの観察眼は圧巻です。
なつにとって、明治20年2月の歌会は、並み居る令嬢たちの豪華な晴れ着に負けない才能の誉れでありました。
ハレの日にも、彼女には慎ましい着物しかありませんでした。
3.父の死、樋口家の戸主に
なつが歩み始めた和歌と文学への道。彼女の幸せな時期がもう少し長く続いていたら、と思わずにはいられません。
明治22年(1889)、彼女が17歳のとき、父則義が亡くなります。
樋口家の長男はすでに亡く、なつが戸主となりました。しかも、父は営んでいた副業が失敗し借金を抱えていたのです。
なつは17歳にして借金を背負い、母と妹を養うこととなり、一家三人での暮らしが始まります。
生活は内職と質屋通い、知人を頼っての借金と返済に追われる毎日でした。
そんな中、妹 くに は手先が器用で内職の出来の評判もよく、文学に進む姉を生涯に渡って助けました。
姉の亡き後はその日記を集め、「一葉日記」の出版に尽くしたのも彼女です。
明治23年(1890)、一家が暮らした菊坂下の旧居を訪れましょう。
菊坂下の旧居
本郷三丁目駅を出て、菊坂通りを下ります。
長泉寺を右に見たら左手の石段を下ります。
通りを菊坂沿いにそのまま歩き、左に見える路地の奥。
石段を上り、振り返る。
ここはどこ?令和…明治?混乱するようなタイムトリップ感があります。美しい。
現代人から見ると、羨ましくなるようなゆかしさです。そんな感覚は贅沢でしょうか。
菊坂に戻りましょう。
樋口家が通った伊勢屋質店
ここに足繁く通っては、わずかな持ち物を質に入れ、生活費を捻出しました。
4.小説を書いて、原稿料を手に入れたい!
樋口家の生活は苦しくなる一方でした。
父の生前、なつの相手にと決めた婚約者がいたものの、縁談は破談となっています。
一家総出の内職、質屋通い、知人からの借金。生活は火の車です。
なつは「小説を書いて原稿料を得る」道を目指すことにしました。
と言うのも、以前に萩の舎の先輩である田辺花圃が小説「藪の鶯」を書き、三十円の原稿料を得ています。この出来事に彼女は刺激を受けていたのです。
ところでなつに和歌の才能があるならば、歌を教え、ゆくゆくは中島歌子を追って歌塾の開業をするのが確実な道だと思いませんか。しかしそれは無理だったようです。
和歌とは上流人の教養であり、これで身を立てるには、芸事の名取のようにお披露目の会を開くなど、人付き合いをしなければなりません。
それは現代の家元制度と同じ、とてもお金がかかることでした。
それよりも今日明日の生活費を稼がなくてはなりません。
半井桃水と出会う
しかし、小説とはどのように書けばいいのでしょう。その教えを乞うた相手が、半井桃水(なからいとうすい)でした。
桃水は、戯作や新聞に興味を持ち、朝日新聞の海外特派員として朝鮮へ渡ったこともある新聞記者です。
なつは、妹くにの友人から紹介を受け、桃水の教えの下に執筆を始めます。
桃水も暮らした文人の町、西方を歩く
西片とは江戸時代、福山藩阿部家の中屋敷があり、明治期以降は、多くの文化人の家がありました。
夏目漱石も住んでいたことがあります。
一葉のいた菊坂下からは歩いて10分ほどの台地。閑静な住宅街です。
西片はいくつもの坂に守られています。現代人には電動自転車が必須ですね。
桃水のもとで
桃水はなつに「文字を原稿用紙に一文字ずつ書く」「和文っぽさが過ぎる、もう少し俗調に」など、小説表現の指導をしてくれました。
明治25年(1892)3月、半井桃水は『武蔵野』という同人誌を創刊します。ここに、樋口一葉の小説「闇桜」が初めて活字となったのです。
この年は「たま襷」「五月雨」「別れ霜」など、初期作品が次々と生み出されました。
そして21歳の一葉にとって、32歳の桃水は初恋の相手でもありました。
しかしこの時代、独身の女が男へ頻繁に連絡をとり、しばしばその家を訪問する。その相手は新聞記者。上流歌人が集う萩の舎では、よからぬ噂となってしまいました。中島歌子も桃水との付き合いを反対しています。
そして、一葉は桃水と師弟関係を断つ決心をするのでした。
“いとどしくつらかりぬべき別れ路を あはぬ今よりしのばるるかな“
(明治25年5月)
今日からあの人と会うことはない。辛い人生になる…
辛いね。一葉さん。
5.小説家としてデビューはしたけれど
さあ、失恋の痛手に酔っている暇はありません。桃水を踏み台に(ごめん桃水)小説デビューのきっかけをつかんだ一葉は、田辺花圃の紹介で文芸誌『都の花』や『文学界』に作品を発表します。
しかし、この時期には安定した原稿料は入りませんでした。
そんな中、母からはどんどん書くようにというプレッシャーが高まる。これでは執筆も追い詰められてしまいます。
ここで樋口家は家族会議の結果、ある決意をします。明治26年(1893)7月のことです。
そしてこのことが、図らずも一葉が名作を開花させるきっかけになろうとは。世の中は何が幸いするかわかりません。
“とにかくに越えてを見まし 空蝉の世渡る橋や夢の浮橋“
(明治26年7月)
何はともあれ世渡りの橋を越えてみよう…
さて一葉の人生はどうなるのか。
後編へ続きます。
6.この地には代表作の舞台がたくさん
終わりに、一葉名作の舞台を訪れましょう。
「にごりえ」に登場する源覚寺
「大つごもり」お峯の家、初音町
“初音町といへばゆかしけれど、世をうぐひすの貧乏町ぞかし“
(「大つごもり」より)
「にごりえ」の主人公、お力が住んでいた地、白山
お屋敷街西片町の西側は「崖下」「新開地」と呼ばれ、歓楽街がありました。
街には飲み屋をうたいながら奥で売春をおこなう「銘酒屋」が立ち並びました。その店の売れっ子がお力です。
一葉終焉の地(丸山福山町)
樋口家は明治26年に台東区へ転居しましたが、明治27年(1894)5月にはこの地へ戻りました。
丸山福山町は、菊坂下の旧居からごく近く、まさに西片の崖下です。
ここで彼女は、次々と名作を生み出しました。明治27年から28年は世に言う「奇跡の14ヶ月」です。
その作品を森鴎外らが絶賛し「小説家 樋口一葉」の名が知れ渡りました。
しかしこの直後、彼女は結核を発症します。
明治29年11月23日。一葉は24歳の若さで亡くなりました。
7.文京区の本郷・西片・小石川・白山
今回は、文京区の本郷・西片・小石川・白山を訪れました。
本郷は、父が健在な幼少期に過ごしたこともあり、やはりここが一葉のホームですね。
しかしもう一つ、樋口一葉にはなくてはならない超重要な場所があります。
それが、台東区竜泉なのです。一葉旧居跡、一葉記念館などもここにあります。
(後編へ)