『幸福な王子』の紹介
『幸福な王子』は、アイルランド・ダブリン出身の文人オスカー・ワイルドによる童話、短編小説で、1888年ロンドンで出版されました。
日本でも翻訳出版され、絵本やアニメにもなっており、昔から馴染みのある物語だろうと思います。
ここでは『幸福な王子』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『幸福な王子』ーあらすじ
ある町の高い円柱の上に、幸福な王子の像が立っていました。
その像は全身に薄い金箔が施され、二つの目には青いサファイアが、刀の柄には赤いルビーが輝いていました。
ある夜、一羽のツバメがこの町へ飛んできました。
渡り鳥のツバメは、寒い冬をあたたかい南で過ごそうと、エジプトへと渡る途中でした。
一晩の寝床を探していたツバメはその夜、幸福な王子像の足元にとまりました。
ツバメが休もうとしていると、大きなしずくが一滴、ぽたりと落ちてきたのです。
見上げると、幸福な王子像の目から涙が流れ落ちているのでした。
「なぜ、泣いているのですか?」とツバメが聞くと、王子は答えました。
「私が生きていたころは、涙など知らなかった。高い塀がめぐらしてあるお城の中で、仲間と遊び、楽しみながら生きてきた。塀の向こうに何があるかなど考えたこともなかった。ところがこうして高台から眺めると、町の惨めさや醜さが見えてしまう。私の心臓は鉛でできているが、泣かずにはいられないのだ。」
それから王子は、一軒の貧しい家の話をしました。
「小さな通りに針子の仕事をしている女の姿が見える。部屋の片隅には男の子が寝ていてオレンジを欲しがって泣いている。母親には川の水しか与えるものがない。ツバメさん、刀の柄からルビーを外して、その女の所へ持って行ってくれないか?」
ツバメはエジプトへ渡る途中でしたので断ろうと思いましたが、幸福な王子があまりに悲しそうな顔をするので、ルビーをその女のもとへ運びました。
次の日ツバメが出発しようとすると、再び王子から頼まれ、戯曲を書き上げようとしている貧しい青年に、片目のサファイアを届けました。
またその次の日には、マッチ売りの少女にもう片方の目のサファイアを届けました。
「ありがとうツバメさん。おまえはもうエジプトへ行かなくては。」
と王子は言いましたが、
「わたしは、目が見えなくなってしまった王子のおそばにいます。」
とツバメは答えて、王子の足元で眠りました。
それからツバメは王子の目のかわりに町中を飛び回り、見てきたことを話しました。
美しい邸で富豪が浮かれ騒ぐ一方、乞食が門の所に座っていたり、路地裏で飢えに苦しむ子どもたちを見ました。
「ツバメさん、わたしの体の金を一枚一枚剥がして、貧しい人々にやっておくれ。」
こうして王子の体は鈍い灰色になりはて、冬が来て、ツバメは自分の死期が近いことを知りました。
最期の力をふり絞ってツバメは飛び上がり、王子の唇にキスをすると足元に落ちて死にました。
その瞬間、何かが壊れるような音がしました。
それは王子の鉛の心臓が、真っ二つに割れた音でした。
翌朝、美しさを失った王子の像は下ろされ、炉で溶かされました。
しかし、壊れた鉛の心臓だけは溶けず、ツバメの亡骸と共に塵の山へ捨てられました。
神さまが天使に言いました。
「町中で一番貴いものを二つ持ってきなさい。」
そこで天使は、鉛の心臓と死んだ小鳥を持っていきました。
「おまえの選択は正しかった。天国のわたしの庭でこの小鳥は永遠に歌い続けるだろう。黄金の町で幸福な王子はわたしを称えるだろう。」
『幸福な王子』ー概要
主人公 | 幸福な王子 |
主な登場人物 | ツバメ、町の人々 |
主な舞台 | 王子の像が立つ町 |
時代背景 | 19世紀? |
作者 | オスカー・ワイルド |
『幸福な王子』ー解説(考察)
<作者オスカー・ワイルドについて>
『幸福な王子』の作者オスカー・ワイルドといえば耽美主義で『ドリアン・グレイの肖像』や『ウィンダミア卿夫人の扇』、そして世紀末文学の代表とされる『サロメ』などで時代の寵児となるも、男色罪で収監され(この時代のアイルランドでは同性愛は罪)不遇の晩年を送ったことで知られています。
この『幸福な王子』は1888年の出版、『ドリアン・グレイの肖像』は1890年、『ウィンダミア卿夫人の扇』と『サロメ』は1893年となっています。
ワイルドが投獄されたのが1895年(41歳)の時、亡くなったのが1900年(46歳)なので、後世に残る作品群は投獄前の知名度のある時に書かれたものといえます。
実際に1895年以降の作品というのは、ほとんどないようです。
ワイルドは芸術家気取りの派手な言動もあったようですが、今日まで読み継がれる名作を残した作家であることは、間違いありません。
<作者が考える「美しさ」とは何だったのか?>
さて、先に述べた通りオスカー・ワイルドは耽美主義として知られています。
耽美主義とは「道徳功利性を廃しての美の享受・形成に最高の価値を置く」といういわば美しさ至上主義で、そこから芸術至上主義等へ展開していく西欧の芸術思潮です。
ではこの『幸福な王子』に描かれる「美しさ」とは何なのでしょうか。
「道徳功利性を廃した美」を求めた耽美主義作家でありながら、『幸福な王子』に非道徳的な部分は少ないように思われます。
私にはこれは「精神的な美の物語」と思えるのです。
とくにキリスト教的な価値観における、慈愛による精神的な美なのではと考えました。
以下に、私なりの考察をさせて頂きたいと思います。
今回、引用する『幸福な王子』は新潮社文庫版ですが、子ども向け絵本では省かれている、貧富の差や人間社会への皮肉が多く出てきます。
以下にいくつか記します。
■なぜ泣いているのかとツバメが王子に問う場面
「わたしが生きていて人間の心をもっていたころは、涙とはどんなものか、知らなかった。(中略)
庭のまわりにはとても高い塀がめぐらしてあったが、その塀のむこうには何があるのか、聞いてみたいとも思わなかった、まわりのものがみんなそれほどきれいだったから。廷臣たちはわたしを幸福な王子と呼んだし、わたしもじっさい幸福だったのだ、もし快楽が幸福であるとしたらね。そんなふうにわたしは生き、そんなふうにしてわたしは死んだ。(後略)」『幸福な王子』新潮社,西村孝次訳,12P
■病気の男の子が寝ている針子の家の話
「ずっとむこうの小さな通りに、貧しい家が一軒ある。窓がひとつあいていて、テーブルに向かって坐っている女の姿が窓ごしに見える。顔はやせて、やつれており、がさがさした、赤い手、針の跡だらけの手をしている、針子なのでね。女王の官女のなかでいちばんきれいなひとが、今度の宮中の舞踏会で着る繻子のガウンに、トケイソウを縫い取っているのだ。(後略)」
『幸福な王子』新潮社,西村孝次訳,13P
美しい少女が恋人とともにバルコニーへ出てきました。
(中略)
「わたくしの衣装が宮中大舞踏会に間に合うといいのですけれど。トケイソウの縫い取りをしておくように言いつけてありますの。でも、お針子なんて、とても怠けものですものね。」『幸福な王子』新潮社,西村孝次訳,14~15P
■みすぼらしくなった王子像を見た町民たち
そこでみんなは幸福な王子の像を引きおろしました。
「もはや美しくないのだから、もはや役に立ちはしない」と大学の美術の教授が言いました。(中略)
「もちろん、別の像を立てねばならん」と市長は言いました、「そしてそれはわしの像にしよう」
「わしのだ」と市議会議員はめいめい主張して、口論しました。『幸福な王子』新潮社,西村孝次訳,24~25P
このように、貧しいものたちの悲惨な生活を描く一方で、富豪たちの無知や強欲が描かれています。
生きていたころの王子も無知でしたが、像になってから多くを知り、変わっていきます。
そしてツバメと王子は人々に知られることなく、貧しいものたちを救済していきます。
ツバメがルビーを貧しい人に届けたあと、王子とこのような会話をします。
「奇妙ですね、いまとても暖かい気持ちがするのですよ、気候はひどく寒いのに」
「それはおまえが、よいおこないをしたからだよ」と王子は言いました。『幸福な王子』新潮社,西村孝次訳,15p
人間の醜さを描くからこそ、王子とツバメの献身が対比され、際立っているように思います。
そしてその献身は、最後に登場する神さま以外には知られることがありません。
王子とツバメは人々に何も悟られることなく死んでいくからです。
キリスト教的な価値観から考えると、ここには慈愛や救済による死後の幸福が描かれていると言えるのではないでしょうか。
<読み継がれる要因とは?>
物質的な豊かさを求める強欲さではなく、献身による精神的な美しさと豊かさ。
この作品においては、そのことが作者の思う「美しさ」だったのではとの考えは先に述べました。
しかし、この『幸福な王子』は他国でも翻訳、出版されています。
それはキリスト教圏だけに限りません。
日本人であり、キリスト教徒ではない私も、この話を悲しく美しい話と感じています。
絵本版を自分の子どもたちに読み聞かせたときも、子どもたちなりに神妙に聞いておりました。
『幸福な王子』にはキリスト教的な枠を超えた、人に訴える部分での普遍性があるのではないでしょうか。
それがこうして読み継がれている要因の一つではと思われます。
『幸福な王子』ー感想
私が初めて『幸福な王子』の話を知ったのは、子どもの頃のテレビ番組だったと記憶しています。
自分たちを犠牲にして貧しい人を助けたのに、王子もツバメも死んでしまう悲しいお話だと当時は感じたのですが、その番組が色彩豊かに描かれていたこともあって美しいお話だとも思っていたのです。
大人になった今、改めて読み返してみると、先の考察に述べたように「美しさ」はありますが、子どもの頃に思った「美しさ」とは質が異なりました。
子どもの頃は子どもなりに、大人になってからは大人なりに読み、深みが増したような気がするのです。
さらに作者オスカー・ワイルドについて知るにつれ、ますます考える余地が増えました。
ワイルド自身は派手な生活をして、結婚し子どももいたけれども、同性愛で投獄され、その後は不遇な状況のまま亡くなります。
そのような人が書いた『幸福な王子』をじっくり読むと、人間の欲望に対して抗えない悲しみのようなものも感じました。
王子やツバメのように自分を犠牲にしてまで他人を助けるなど、実際どれほどの人が実践できるのでしょうか。
欲望の発散に必死で、人を助けることが美しい事だと言われても難しいのが実際のところでしょう。
ワイルドは作家として観察眼には優れていたでしょうから、そんな人間をみて、自分自身をみて、悲しくなるときもあったのかもしれません。
耽美主義として世間の批判に晒される作品も残したワイルドですが、人間らしいといえばらしいな、と思いながら読みました。
ともあれ『幸福な王子』は子ども向け童話にはとどまらない、深みのある作品であることは間違いなく、大人にも読んでほしい一冊です。
以上、『幸福な王子』のあらすじ、解説、感想でした。