寺田寅彦と「銀座アルプス」
「天災は忘れた頃にやってくる」。これは寺田寅彦の言葉です。
彼は大正12年(1923年)に起きた関東大震災を体験し、地震学、防災学に力を入れた学者でした。そして科学者としての視点から、さまざまな文章を発表しています。
なかでも「銀座アルプス(1933年)」は銀座を愛した寅彦のエッセイです。今日はこの文章をたどって銀ブラをいたしましょう。
1 新富座
寅彦は、幼いころ、銀座の新富座で歌舞伎を観た記憶を書いています。
当時八歳の自分は両親に連れられて新富座の芝居を見に行ったことになっている
寺田寅彦『銀座アルプス』
この新富座から始めましょう。
やってきました!ピッカピカのビルディングですね。
ここが新富座跡です。
新富座は1923年(大正12年)の関東大震災で焼失するまで、新富町にあった劇場。明治維新後、築地の外国人居留地の客を見込んでこの地にできた花街に、新富座はありました。
今では「新富町駅」の駅名にあるように、その町名だけが残っているようですね。
でもそんな中、劇場の名残を見つけました。
新富町の先は、築地です。そして築地には「明石町」という地名があります。
2 築地明石町
ここまできたら、鏑木清方の名画「築地明石町」に触れないわけにはいきません。
当時、東西で美人画を描かせたら「西の(上村)松園、東の(鏑木)清方」と言われた鏑木清方。
その代表作が「築地明石町」「新富町」「浜町河岸」からなる「美人画三部作」です。
そのうち一枚はここ新富町が舞台になっています。
参考:鏑木清方の美しすぎる三部作を間近で!画業をたどる展覧会が東京で開催中 - Sfumart
三部作のうち、真ん中がもっとも有名な「築地明石町(1927年)」。この絵は鏑木清方の没後、44年間行方不明だったものが2019年に見つかり、大ニュースとなりました。
そして、築地明石町の右にある絵が「新富町」。傘をさし、前のめりに先を急ぐ新富芸者の姿です。女性の背景には新富座が描かれています。
私、ここで鏑木清方と寺田寅彦の共通点を発見いたしました!
二人は同い年。明治11年(1878年)生まれ。同時期を生きた二人なんだ…
それぞれの視点で、今から100年以上前の銀座を見ていたのですね。感動です。
こんな偶然に出会えるのですもの、文学と歴史と文化を掘ることはやめられませんね。
新富座を後にし、柳通りを戻ります。昭和通りを渡る歩道橋上にて。奥には汐留のビル群が見えました。
3 銀座一丁目〜三丁目まで
銀座一、二丁目。中央通りにやってきました。
ここは、ハイカラ岸田吟香の洋品店(=雑貨店)がありました。
「銀座アルプス」では、Sちゃんがここへ歯磨きを買いに行ったとき、店頭でいつもの癖で口ごもって伝えたところ、勘違いをした小僧がニヤニヤしながらゴム製の袋(コンドーム?)を出してきた、という愉快なエピソードが出てきます。
旧時代のハイカラ岸田吟香の洋品店へ、Sちゃんが象印の歯みがきを買いに行ったら、どう聞き違えたものか、おかしなゴム製の袋を小僧がにやにやしながら持ち出したと言って、ひどくおかしがって話したことを思い出す。
寺田寅彦『銀座アルプス』
岸田吟香とは当時の実業家です。彼の息子はあの岸田劉生(1891年誕生)。
岸田劉生は、日本一有名な少女像「麗子像」を描いた人です。寅彦は「幼い岸田劉生氏があるいはそのころ店先をちょちょこ歩いていたかもしれない」と書いています。
そしてもう一つ。岸田吟香はなんと「卵かけご飯」の食べ方を考案した人なのだそうです。おお!ありがとう吟香!21世紀ではさらにブームが到来、TKGと呼ばれているよ。
江戸時代は銀座役所があり、明治2年(1969年)に町名を銀座と制定したそうです。
この碑の向こうに東京風月堂が見えますね。
ところでみなさん、銀座には二つの風月堂があるのをご存じでしょうか。
ここ二丁目の「東京風月堂」と、六丁目の「銀座風月堂」。寅彦がよく訪れたのは銀座六丁目にある「銀座風月堂」です。
鍋町の風月の二階に、すでにそのころから喫茶室があって、片すみには古色蒼然たるボコボコのピアノが一台すえてあった。「ミルクのはいったおまんじゅう」をごちそうすると言ったS君が自分を連れて行ったのがこの喫茶室であった。
寺田寅彦『銀座アルプス』
寺田寅彦はヨーロッパ留学の経験があり、西洋の食文化に通じていました。そしてコーヒーが大好きでした。
帰国してからも、銀座でコーヒーを飲み、その中でも銀座風月堂のコーヒーは作品中によく登場します。
銀座でコーヒーを飲ませる家は数え切れないほどたくさんあるが、家ごとにみんなコーヒーの味がちがう。そうして自分でほんとうにうまいと思うコーヒーを飲ましてくれる家がきわめて少ない。日本の東京の銀座も案外不便なところだと思うことがある。日本でのんだいちばんうまいコーヒーはずっと以前にF画伯がそのきたない画室のすみの流しで、みずから湯を沸かしてこしらえてくれた一杯のそれであった。
寺田寅彦『銀座アルプス』
その風月堂とは、この先六丁目の銀座風月堂です。このまま中央通りを南へ歩きましょう。
「銀座アルプス」には、寅彦自身、当時の銀座一帯を歩きながら100年後の銀座の姿を想像していただろうなという記述が数多く出てきます。
しかし彼が思い描く未来の日本、それは輝かしい未来というよりも、災害の憂いと防災の必要性が多くを占めているものでした。
しかしもし自然の歴史が繰り返すとすれば二十世紀の終わりか二十一世紀の初めごろまでにはもう一度関東大地震が襲来するはずである。その時に銀座の運命はどうなるか
寺田寅彦『銀座アルプス』
それは21世紀に生きる私たちにも同じこと。地震国に生きる日本人の宿命といえるものですね。
そうは言っても、やはり気持ちが華やぐファッションストリート!
さすが銀座。寺田寅彦が愛しただけあります。
次は銀座三丁目、ウブロとロロピアーナがあるところです。
ここに「銀座アルプス」で新富座の帰り、銀ブラで寅彦の父が寄ってみる「玉屋」がありました。玉屋は、眼鏡、時計、測量機械などの高価な品を扱うハイカラなお店でした。
芝居がはねて後に一同で銀座までぶらぶら歩いたものらしい。そうして当時の玉屋の店へはいって父が時計か何かをひやかしたと思われる
寺田寅彦『銀座アルプス』
教文館も、寅彦の日記にはよく登場しています。
“電車で銀座へ行って教文館をのぞいてみたが別にさしあたって見たいと思う本がなかった(大正9年)“
わかるわかる。私も、教文館はついふらりと入ってしまいます。
ちなみに私はこのビル内のお手洗いをいつも借りてしまいます。ありがとう教文館。
4 銀座四丁目〜五丁目
銀座四丁目、和光前に来ました。この辺りが天ぷら「天金」跡地です。
天金は、銀座四丁目和光の西側、今は拡張された晴海通りのあたりにありました。
父に連れられてはじめて西洋料理というものを食ったのが、今の「天金」の向かい側あたりの洋食店であった。変な味のする奇妙な肉片を食わされたあとで、今のは牛の舌だと聞いて胸が悪くなって困った。その時に、うまいと思ったのは、おしまいの菓子とコーヒーだけであった
寺田寅彦『銀座アルプス』
5 銀座五丁目 竹葉亭
銀座四丁目の和光から晴海通りを渡った斜め向かいに見えるのが、竹葉亭です。
18歳で上京した寅彦は、この竹葉亭のお隣にあったI 家の二階に滞在していました。当時、銀座五丁目は尾張町といい、「銀座アルプス」には尾張のI 家がよく登場します。
“Iの家の二階や階下の便所の窓からは、幅三尺の路地を隔てた竹葉の料理場でうなぎを焼く団扇うちわの羽ばたきが見え、音が聞こえ、においが嗅かがれた“
寺田寅彦『銀座アルプス』
いいな…
I 家の跡とは、今はお隣の呉服屋になっているお宅でしょうか。幅三尺の路地がちゃんと見えますね。
6 銀座六丁目〜八丁目
中央通りを新橋方面へ。銀座六丁目へやってきました。
“銀座の西裏通りで、今のジャーマンベーカリの向かいあたりの銭湯へはいりに行っていた。今あるのと同じかどうかはわからない。芸者がよく出入りしていた“
寺田寅彦『銀座アルプス』
金春湯は、文久三年(1863年)創業。2023年で160周年を迎える銭湯です。
✳︎銀座風月堂へ
さあ、お待ちかねのお茶タイムにいたしましょう。場所はもちろん「銀座風月堂」!
寅彦がよく書いている「鍋町の風月」にやってきました。(鍋町=銀座五〜七丁目)
“鍋町の風月の二階に、すでにそのころから喫茶室があって、片すみには古色蒼然たるボコボコのピアノが一台すえてあった“
寺田寅彦『銀座アルプス』
寅彦を思いながらクールにコーヒーだけを嗜むつもりだったのに。
メニューを開いた私は迷うことなく「モンブランお願いします。」と注文してしまう。そりゃあ秋だもの栗だもの。
なんて芸術的なプレート。そしてめちゃうま…
♪秋スイーツの、銀座アルプス登山や〜 (彦摩呂風)
寅彦先生、100年後の銀座風月堂はコーヒーもスイーツもとっても美味しいです。
✳︎松坂屋デパートへ
銀座散歩のラストは、こちらの銀座アルプスに挑みます。
松坂屋跡地です。惜しまれながら2013年に閉店し、GINZA SIXとして生まれ変わりました。
“アルプスと言えば銀座にもアルプスができた。デパートの階段を頂上まで登るのはなかなかの労働である“
寺田寅彦『銀座アルプス』
そうです、銀座のアルプス登山とは、銀座のデパートを登っていくことなのです。
寺田寅彦には銀座に次々と現れるビルディング群が、まるでアルプスの山々のように見えたのです。それを「銀座アルプス」と表したのでした。
やったー。
GINZA SIXの屋上に着きました。寅彦の言う通り、見下ろすとうっかり目を突いてしまいそうなビルが、競うように上へ上へとのびていますね。
“デパートアルプスの頂上から見下ろした銀座界隈の光景は、飛行機から見たニューヨーク、マンハッタン辺のようにはなはだしい凸凹がある“
“うっかりすると眼を突きそうである“寺田寅彦『銀座アルプス』
また、寺田寅彦は次のようにも述べています。
百歳まで生きなくとも銀座アルプスの頂上に飛行機の着発所のできるのは、そう遠いことでもないかもしれない
寺田寅彦『銀座アルプス』
現代では、銀座から近いところにはきっとヘリポートがありますよね。寅彦の予測は当たりです。
そして最後に「銀座アルプス」は、1923年の関東大震災を経験した寅彦が未来へ送る警告で締められています。
“しかしもし自然の歴史が繰り返すとなれば、二十世紀の終か二十一世紀の初ごろまでにはもう一度関東大震災が襲来するはずである“
“その時に東京市民は大地震のことなど綺麗に忘れてしまっていて、大地震が来たときの災害を助長するあらゆる危険な施設を累積しているであろう“寺田寅彦『銀座アルプス』
冷静な指摘です。そう、私たちは地震国日本で生きています。
今日の私のように、銀座散歩を楽しみ、デパートの屋上で景色に癒される。そんな都会の恩恵を受けながらも、災害はいつやってくるかわかりません。
「天災と国防(1934年)」では次のようにも言っています。
“しかもいつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である“
これを言われてドキッとしない現代人はいないでしょう。
とはいえ、災害対策のためにこの素晴らしい銀座アルプスを全否定なんてことはあり得ませんし。
“天災は忘れられたる頃に来る“
関東大震災の後、寅彦が残した警句は、100年後を生きる私たちにも十分通用しています。開発と防災、この二つが常に両輪となって未来へ進んでいく日本であってほしいですね。