『怪談牡丹灯籠』のあらすじ
カラーンコローン…カラーンコローン
草木も眠る夜八つ時(深夜二時)。静まり返った根津清水町に、駒下駄の足音が鳴り響く。
時は江戸。
亡き女性への未練に眠れぬ夜をすごしている萩原新三郎。ふと見ると生垣の、向こうを通るは上品な歳三十ばかりの女中。牡丹芍薬など流行りの花飾りがついた灯籠を提げている。
その後ろから歳十七、八ばかりの美しい娘、髪は文金の高髷に結い、秋草模様の振袖に緋縮緬(ひぢりめん)の長襦袢、繻子(しゅす)の帯をしどけなくしめ、上方風の団扇を手に、ぱたりぱたりと過ぎて行く…
その娘こそが新三郎の愛しい女性、先日亡くなったと聞いていたお露あった。
まさか、と引き留める新三郎。見れば紛れもない女二人連れ、お露とその女中のお米である。
驚くも問へば、あちらも新三郎は亡くなったと聞かされている。さては二人の恋を諦めさせようとした嘘だとわかる。
その夜、新三郎の宅に二人は泊まり、夜が明けぬうちに帰った。
この日より雨の夜も風の夜も、毎晩来ては夜の明けぬうちに帰る事七日間にもなれば、新三郎とお露は恋の初々しさもすでに馴れ馴れしく、誠の夫婦のごとくなったのだった。
ああ無事に結ばれたのね、めでたしめでたし。と言いたいところですが、何を何を。
お露とお米は、谷中の墓場から毎夜根津へ通ってくる幽霊だったのです。
新三郎への強い恋心に焦がれ死んだお露。その看病疲れで亡くなったお米。二人が葬られたのは谷中の新幡通院でした。
さて、愛しい相手とはいえ幽霊と七日間も契りを交わしてしまった新三郎はどうなるのか。
これが明治の落語家、三遊亭円朝の怪談「牡丹灯籠」の前半クライマックスです。
今日は「牡丹灯籠」をめぐる谷中根津散歩をいたしましょう。
三遊亭円朝「怪談牡丹灯籠」の舞台をめぐる
1.三遊亭円朝のお墓参り:谷中の全生庵
三遊亭円朝(1839-1900)は、落語家として知る人ぞ知る名人です。
その芸風は、客を笑わせる滑稽噺よりも、人情噺や怪談という講談に近いかたちで築かれた独自の世界でした。
そんな円朝が、中国に伝わる怪談や江戸のお旗本で聞いたお家騒動などをもとに創作したのが「牡丹灯籠」です。
「牡丹灯籠」の噺は人気となり、とうとう口演速記本が出版されます。
これにより、円朝の落語を聞いたことがない人にも円朝の人情噺が読まれるようになりました。
二葉亭四迷は「浮雲」の執筆にあたり、この速記本を参考にしたといいます。そう、円朝の落語は、明治文学の言文一致運動へ大きな影響を与えたのです。
円朝のお墓は谷中の全生庵にあります。
円朝は怪談話の参考にでしょうか、幽霊画を数多く収集していました。それがここ全生庵で、夏に一挙公開されます。
伝円山応挙の幽霊画など、まさに日本の幽霊ここにあり、という幽霊たち。美しくも恨めしい、名画がいっぱいです。
外部リンク:全生庵の幽霊画展
2.お露と新三郎の恋路をたどる:谷中の新幡通院跡(朝日湯)から旧根津清水町まで
さあ、お露が新三郎の元へカランコロンと下駄を鳴らした道をたどりましょう。
三崎(さんさき)坂を下ると、左手に「朝日湯」という銭湯が見えてきます。
正しくは新幡通院法住寺といいます。現在は、関東大震災を経て昭和10年に足立区へ移転し、法受寺となっています。
この朝日湯の先を左に入ります。くねくねと曲がりくねった細道になりました。
元は藍染川が流れていました。表の不忍通りはまだない時代です。
ここを夜な夜な清水町へ通う幽霊二人連れ。カラーンコローン…カランコロンとはいきませんが、私も歩いてみました。
へび道とはよく言ったもの、幾重にも蛇行した道です。生活道路なので自転車もビュンビュン、道はくねくね。現代と異世界が交互に訪れます。
へび道が終わるとそこは根津。根津神社の門前町です。不忍通りを渡って少しいくと、立派な鳥居と鮮やかな銀杏が見えてきました。
さてここで牡丹灯籠の登場人物、萩原新三郎についてご紹介しましょう。
根津の清水谷に田畑や貸長屋を持ち、その上がりで生計を立てている浪人の、萩原新三郎と申しますものがありまして、生まれつき美男で、歳は二十一なれどまだ妻をもめとらず、独身で暮らすやもお(=男やもめ)に似ず、極内気でございますから、外出もいたさず閉じこもり、鬱々と書見のみしております
(牡丹灯籠より)
…“生まれつき美男“!というパワーワードがきました。誰しもそんな風に生まれてみたいものです。
浪人とはいえ家賃収入があるから生活には困らない内気な美青年、新三郎。インドア派で読書ばかりをしている。そんな男がどうしてお露とただならぬ仲になったのでしょうか。
根津神社の南側にあるのが旧名「根津清水町」です。根津小学校の東側に清水町の案内板があります。
円朝は“根津の清水谷に田畑や貸長屋を持ち“といいますから、新三郎の貸長屋はこの町にあったようです。
谷中の新幡通院跡(朝日湯)からこの旧根津清水町まで歩いてみましたが、ゆっくり歩いても15分ほどでした。
しかし、まずいのはお露が幽霊であったということです。そうとは知らぬ新三郎は恋にうつつを抜かしてしまいました。
死霊と夫婦仲になった新三郎。この世の人間である彼にも、だんだんと死相が現れてきます。
彼の様子がおかしいことに気づいた貸長屋の夫婦や人相見から「お露はこの世の者でない」と知らされ震え上がった新三郎。新幡通院の和尚の力を借り、幽霊が入って来られないよう家中にお札を貼りました。
それでも夜はやってくる。さて無事にお露と縁を切ることができるのか…
この先は、どうぞご自身で牡丹灯籠の続きをお読みいただきたいと思います。
最近ではNHKで「令和元年版怪談牡丹灯籠」としてドラマ化されていました。恐ろしくも心惹かれる物語です。
4.お露の生まれた飯島家。牛込の屋敷へ行ってみた
ここでお露についても紹介しましょう。新三郎に焦がれ死にした挙句、死霊となって出てくるほどの強い念をもつ女性ですが、一体どんな人物なのでしょうか。
牛込の軽子坂上に屋敷を持つ、旗本飯島平左衛門。お露はその一人娘です。
お旗本といえば、直参の中でも将軍様にお目通りがかなう家柄。エリート中のエリート官僚です。お露はそんな名家のお嬢様でした。
牛込軽子坂とは、飯田橋の外濠にあった揚場から荷を運ぶ「軽子」が登った坂。ちょうど現在の神楽坂の東側に並行して伸びています。
お茶の水から外濠通りを西へ西へと歩きます。水道橋を過ぎて飯田橋まで20分くらいです。
途中には神田上水の懸樋跡(かけひあと)もありました。ここから外濠の向こう側へ神田上水の水道を通していたのですね。
ここから左側が揚場町、軽子坂があるところです。
歩道橋を渡り、ゆるい坂を登る途中に「軽子坂」の名前を見つけることができました。
お露は飯島家の一人娘として生まれ、器量もよく、たいへん可愛がられておりました。
しかし、お露十六の年に母である奥方が亡くなってしまいます。
その奥方に仕えていたお国という如才ない女中に殿のお手がつき妾となったものの、お姫様であるお露と、女中の出であるお国の仲は良くありません。
面倒に思った飯島は、柳島の別荘にお露と女中のお米を住まわせ、しばらく別居させていたのです。
この柳島の別荘をご機嫌伺いに訪れたのが、飯島家出入りのお幇間(たいこ)医者である山本志丈と、それに付き合わされた萩原新三郎です。
若い男女は互いに一目惚れ。とはいえお旗本のお嬢様と浪人では釣り合うはずもありません。
きっかけを作ってしまった志丈も、これ以上は危ういと、新三郎が柳島を再訪しないよう新三郎との付き合いを控えていたのですが、お露の初恋はいよいよ燃え盛り。
お露が新三郎に、
“あなた、また来てくだされなければ私は死んでしまいますよ“
と訴えたとおり、まもなく彼女は焦がれ死んでしまいました。
谷中の新幡通院に葬られ、成仏できずに幽霊となったお露が、新三郎と夫婦になるために根津へ通ってきたのは先に申し上げた通りです。
三遊亭円朝の牡丹灯籠のゆかりの地めぐり
今日は三遊亭円朝の牡丹灯籠のゆかりの地を歩きました。
この落語は、前半の幽霊譚ばかりが有名なのですが、実はまだまだ先があります。お露と新三郎はどうなるのか。
それに一枚噛んだ貸長屋の欲深い夫婦。飯島家では妾のお国がこれ以上の身分を望んでおり、よからぬことを企みます。
愛欲、横領、刃傷、孝行、仇討ちと、人間の欲と業とが入りじった壮大な展開になるのです。
円朝はこの牡丹灯籠を、十五日間十五席にも分けて演じたそうです。
話して聞かせた円朝はもちろん、この壮大な怪談噺を楽しんだ当時のお客たち。その文化水準の高さには驚かされます。
帰り道、神楽坂から飯田橋駅へ向かう途中で目に入ったのは「牛込見附跡」。江戸城に置かれた見附(見張り番所)の一つです。
当時の石垣が残っていました。遺された石垣はほんの一部でしょうが、その大きさ、堂々たる姿は圧巻です。
今はオフィスビルと大学と便利な駅がきらびやかな飯田橋。その地名や遺跡を追っていくと、まだまだ江戸時代が遠くない過去であることがわかります。
谷中・根津〜飯田橋。訪れたどの土地も、文学と歴史をたどる私たちを当時へと誘ってくれているようでした。
参考文献
「怪談牡丹灯籠」三遊亭円朝/作(岩波文庫)
「円朝 牡丹灯籠 怪談噺の深淵を探る」石井明/著(東京堂出版)
「円朝ざんまい」森まゆみ/著(平凡社)