『道草』の紹介
『道草』は、大正4年に朝日新聞に連載された夏目漱石の長編小説です。
漱石自身の体験を素材にした自伝的作品として知られています。
次作『明暗』の執筆途中で漱石は病死したため、完結した長編小説としては『道草』が最後の作品になります。
ここでは、そんな『道草』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『道草』ーあらすじ
海外留学から戻って教師をしている健三の元に、絶縁していたかつての養父・島田が現れます。
島田は自身の窮状を訴え、健三に金を無心します。
健三に金銭を要求する人物は島田だけではありません。
健三の腹違いの姉や、かつての養母、健三の妻の実父までもが困窮を訴えてやって来ます。
健三は教師業の他にも執筆をしており、ある程度の稼ぎはありますが、決して裕福なわけではありません。
それでも、不快な思いを抱きつつ、健三は彼らに金を渡していました。
健三を悩ませるものは、金銭を要求する親類だけではありません。
妻・御住とは口論が絶えず、夫婦仲も上手くいっていませんでした。
しだいに島田の金の要求はエスカレートしていき、健三は手切れ金として百円を渡し、島田に絶縁を約束させます。
島田の件が片付いたと喜ぶ妻を否定し、健三は「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない」と苦々しく吐き出すのでした。
『道草』ー概要
物語の登場人物 | ・健三:大学教師。駒込在住。36歳。 ・御住:健三の妻。持病のヒステリーがある。 ・島田:健三の養父。健三が3歳から7歳になるまで引き取って育てていた。自身の不倫・離婚問題が原因で、健三の父に絶縁される。以降、健三は生家に戻ることになった。 ・御常:健三の養母。島田の元妻。 ・御藤:島田の後妻。前夫に先立たれ、島田と不倫の後に再婚。前夫との間に御縫という娘がいる。 ・御夏:健三の腹違いの姉。毎月健三から小遣いをもらっている。持病の喘息を患っている。 |
主な舞台 | 東京(駒込) |
時代背景 | 明治時代 |
作者 | 夏目漱石 |
『道草』―解説(考察)
・『道草』の素材
『道草』が、作者夏目漱石の自伝的小説であることは、既に多くの識者が指摘しています。
具体的な時期としては、
『吾輩は猫である』執筆当時の夏目漱石の生活
が素材になっている小説です。
東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業した漱石は、明治28年に愛媛県尋常中学校教諭に就任し、翌年には第五高等学校講師に転じて熊本へ赴任しました。
そして明治33年に文部省から二年間の英国留学を命じられ、単身ロンドンへと渡ります。
明治36年に帰国した漱石は、本来であれば熊本へ戻らなければいけないところ、本人の意向もあり、第一高等学校と東京帝国大学英文科の講師を兼任する形で東京千駄木に戻ります。
英国留学の間に神経衰弱を患い、帰国後もこれに苦しんでいた漱石は、高浜虚子から治療の一環として創作を勧められ、明治37年に『吾輩は猫である』の執筆を開始しました。
(※上記詳細は、『吾輩は猫である』解説中に作者略年譜をまとめておりますので、あわせてご参照ください)
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参考夏目漱石『吾輩は猫である』登場人物のモデルから成立の経緯まで!
『吾輩は猫である』は夏目漱石の処女作で、明治38年に発表された長編小説です。猫の「吾輩」の視点を通して、飼い主の珍野一家や、そこに集まる人々の様子が風刺的且つ滑稽に描かれています。そんな『我輩は猫である』のあらすじ・解説・モデルなどをまとめました。
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『道草』の冒頭は、「健三が遠い所から帰って来て駒込の奥に世帯を持ったのは東京を出てから何年目になるだろう。」という一文から始まりますが、この一文や、健三が大学講師を勤めながら執筆作業をしていることなどから、素材となった時期の推定は容易です。
漱石の次男・夏目伸六氏の随筆でも、『道草』の素材や成立背景に関して触れており、以下にその一部を引用します。
しかし極端に切りつめられて孤独の生活と、過度の勉強のためか、留学中強度の神経衰弱に罹り、気が違ったのではないかと思われる妙な印象まで傍の者に与えたというその悪化した父の頭の状態は、何年ぶりかで踏む故国の土に接しても、決してからりとは晴れなかったようである。(中略)
恐らくロンドンの下宿の主婦にも向けられたらしい父の並はずれた憎悪と焦燥は、帰朝後、自分の妻であるという封建的な隔てのない関係から、より一層露骨に、母の一身にぶち撒けられたろうし、一方下宿の主婦が抱いたと同様な、母の父の精神状態に対する疑惧の念は、ますます父の異常な神経を筅のようにそそけ立たせたに違いない。
「道草」はこうした当時の暗い家庭生活を背景に、恵まれなかった哀れな父の出立と、そこから未だに微かな糸を引く不快な因縁を綯い交ぜた、父にとって最初の自伝的な小説である。
夏目伸六『父・夏目漱石』(「道草」の頃),文春文庫,1991年初版,138~139頁
また、『道草』では、健三の過去の因縁が持ち出されますが、これも漱石自身の生い立ちが素材になっています。
三歳から七歳まで島田家の養子として育てられた健三ですが、漱石も幼い頃に塩原家の養子に出されています。
漱石の養父・塩原昌之助の不倫と離婚が元で夏目家に戻った経緯も、『道草』の主人公・健三の生い立ちほぼそのままです。
『道草』の素材について、更に細かく見ていくと、『道草』の登場人物は、妻(御住⇔夏目鏡子)、養父(島田⇔塩原昌之助)のようにモデルとなった実在の人物がいますが、これは主要人物に限った話ではありません。
例えば、島田の後妻の連れ子・御縫という女性。
かつて島田が健三と御縫を結婚させようと考えていたことや、結果的に御縫が陸軍の少尉か中尉であった男の元に嫁いだことが明かされていますが、これは漱石の養父・塩原昌之助の後妻の連れ子・日根野れんの境遇と概ね一致します。
(※漱石と塩原家の関係や日根野れんの詳細は、『文鳥』解説にて触れておりますので、あわせてご参照ください)
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参考夏目漱石『文鳥』「美しい女」のモデルから漱石との関連まで
『文鳥』は、明治41年に発表された夏目漱石の短編小説。稿用紙25枚程の短編ながら、白文鳥の可憐で繊細な描写が印象深い作品です。ここでは、そんな『文鳥』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。『文鳥』はあくまで漱石の実体験に基づく小説であり、私小説とノンフィクションは似て非なるものなのです。
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このように、細部に至るまで、『道草』には素材が存在していたという事実が窺えます。
但し、あくまで『道草』は漱石の自伝「的」小説であり、漱石の実体験をそっくりそのまま書き起こしたわけではありません。
ですから、『道草』では、漱石の実体験との時間のズレがある他(例えば、実際に塩原昌之助が金の無心を始めたのは『吾輩は猫である』執筆時ではなく、漱石が朝日新聞社に入社して専業作家としてデビューした後です)、わざとぼかしたような抽象的表現などがしばしば見受けられます。
この抽象的表現の一つを、次で詳しく考察していきたいと思います。
・「遠い所」とはどこか?
先にも触れましたが、『道草』は次のような文章から作品が始まります。
健三が遠い所から帰って来て駒込の奥に世帯を持ったのは東京を出てから何年目になるだろう。彼は故郷の土を踏む珍らしさのうちに一種の淋し味さえ感じた。
夏目漱石『道草』,新潮文庫,1951年初版,5頁
漱石の実体験としてはイギリスへの留学がありましたが、『道草』でははっきりとした国名は出てきません。
作品中盤になってようやく、健三が西洋にいたことが分かりますが、「遠い所」がどこを指しているのかは読者に明示されていないのです。
では、「遠い所」とはどこか?
「遠い所」とは、特定の国や地域を指すものではなく、
漱石が歩んできた人生という時の経過そのもの、あるいは、作家人生を通して進めてきた自己・自我の追求の果てに辿り着いた理念や観念など
を指す抽象的表現であると考えます。
「遠い所」がどこか、この問題については既に多くの先行研究で指摘されています。
例えば、江藤淳氏は「遠い所」を「他人から遠く離れた場所、孤独な自己追求が何ものかをもたらすと信じられた場所」(『「道草」と「明暗」』)と指摘しています。
また、越智治雄氏は、「修善寺の三十分の死を通じて遠い時空のあわいから帰って来た」作家の、「いまあらためて遠いところからの帰還」(『道草の世界』)であると指摘しています。
多くの先行研究が、「遠い所」を特定の場所として見ておらず、象徴的なものとして捉えています。
『道草』の素材が、漱石帰国後の数カ月中に起きた実体験に留まらず、より長いスパンの出来事に及んでいることからも、『道草』執筆にあたり、人生という時の経過の中で得た体験や観念の総振り返りがあったはずだと思われます。
それらを振り返った上で、『吾輩は猫である』という作家・夏目漱石の始まりの地点に「帰って来た」小説、それが『道草』という作品なのだと私は思います。
・漱石の妻、鏡子夫人について
『道草』の健三と御住は、夏目漱石とその妻・夏目鏡子が素材になっていますが、作中の健三と御住は常に口論が絶えず、二人の仲は最悪に見えます。
では、実際の漱石と鏡子夫人の夫婦仲はどのようなものであったか?
これについて解説をしていきます。
前提として、まず、鏡子夫人がどのような人物であったのかという問いが浮かびますが、夏目鏡子で調べると必ず出てくるのが「夏目鏡子悪妻説」です。
裕福な生まれの鏡子は、明治29年に漱石と見合い結婚をします。
結婚当時、漱石は29歳、鏡子は19歳でした。
お嬢様育ちであった鏡子は、家事が苦手で、朝寝坊も直らず、新天地での慣れない結婚生活からかヒステリーを起こすこともありました。
裏表のないオープンな性格で、鏡子を叱る漱石に対して言い返し、漱石を閉口させることもしばしばあったようです。
当時は男尊女卑の風潮が強く、夫の後ろを三歩下がって歩くような妻が好まれたのでしょうが、そういう意味では鏡子は良妻賢母とは言い難かったようです。
また、漱石が亡くなって十年程経ってから、鏡子が漱石との夫婦生活について語った談話『漱石の思ひ出』が世間に発表されました。
その談話には漱石の酷い癇癪っぷりも赤裸々に語られており、小宮豊隆ら漱石を尊敬していた門下生達は、これが文豪夏目漱石のイメージを損なうものとして批判し、鏡子の行為は死者への冒涜だとして怒りました。
この他にも、漱石の亡き後、鏡子が漱石の印税で家を買っていたりしたことも悪妻説助長に繋がったように思います。
これらが鏡子が悪妻と言われるようになった所以ですが、今の時代基準で見ると、どの辺りが悪妻なのか正直謎です。
時代柄、鏡子のような性格の女性が珍しかったことや、漱石崇拝勢力の圧が強かった故に批判の目に晒されただけで、決定的な悪行があったわけではありません。
少なくとも今日の日本で考えた場合、鏡子が悪妻というのであれば、日本の既婚女性の大半がとんでもない悪妻だと言えるのではないでしょうか。
夏目鏡子悪妻説については、身内もこれを否定しています。
例えば、漱石の次男・夏目伸六氏は、随筆の中で次のように寄せています。
(中略)「道草」当時の父の癇癪を思うと、むしろ、母がよく辛抱したものだと、無論私は、この母の方に同情的である。というのも、母は、決して、いわゆるかかあ天下でもなかったし、ヒステリーを起して、亭主の頭から、水をぶっかけたり、金切り声をあげて、これに刃向うといった性質の女ではなかったのである。
夏目伸六『父・夏目漱石』(母のこと),文春文庫,1991年初版,290頁
思うに、この母が、世間一般から、反感を持たれがちの所以は、小宮豊隆さんと似たりよったりの、父に対する同情が、いつの間にか悪妻という先入観に変ったので、牛どし生れのむっとした、まるで世辞気のないところも、初対面の人間には、はなはだ尊大に見え、さらに、生来派手な性分から、父の死後、印税の入るにまかせて、これをぱっぱっと使ったなどと、数えあげれば、その理由はいくらでもある。尤も、そのおかげで、豊隆さんの如きは、待合や料理屋の払いを、どれほどこの母に押しつけたか解らぬほどであり、他にも、母の豊な頃に、金を借りに来ては、結局そのままになってしまったものも、決して少なくはないのである。
夏目伸六『父・夏目漱石』(母のこと),文春文庫,1991年初版,295~296頁
また、夏目伸六氏は自身の夫婦関係についても触れ、夫婦観に関する以下の内容も記しています。
ことに、父と同様気の短い私は、わがままで勝手な女房に腹を立て、時には、互に、口をきくのも、顔を見るのも嫌だといった喧嘩をすることもあるのだが、振り返ってみると、すべては、どんな場合にも、互に決して別れもしなければ、見すてもしないという信頼感の上に胡坐をかいてのいさかいであって、私等夫婦も、ようやく、長い努力のすえ、この「夫婦愛」の第一段階である信頼感にまで、到達したのだと考えている。
夏目伸六『父・夏目漱石』(母のこと),文春文庫,1991年初版,296頁
喧嘩をしたり、相手の愚痴をこぼしたりしても、そこに夫婦愛がないというわけではありません。
むしろ逆で、信頼感があるからこそ喧嘩できたりもするのです。
漱石と鏡子夫人もまさにそれで、論理的で神経質な漱石と、大らかで強気な鏡子夫人とは性格も真逆ではありましたが、数ある二人のエピソードをよくよく見ていけば「一周回ってめっちゃ仲いいじゃん」と言いたくなるようなものばかりです。
『道草』の素材となった当時の夫婦関係が特別ピリピリしていたというだけで、実際の漱石と鏡子夫人の約二十年の夫婦関係は、決して悪いだけのものではなかったように思います。
『道草』ー感想
・『道草』という標題
一般的に「道草」という言葉には、次の二つの意味があります。
- 道に生えている草
- 目的の場所に行く途中で、他のことに関わって時間を費やしてしまうこと
漱石の『道草』の標題が、どちらの意味に由来しているかというと、作品終盤の描写から、2)の意味であると考えます。
作品終盤、年の暮れ直前に、島田の代理人が金の無心にやって来て、健三は百円やると返事をします。
代理人が帰った後、健三は書斎に籠りますが、すぐに往来に飛び出していきます。
以下はそのシーンの引用です。
人通りの少ない町を歩いている間、彼は自分の事ばかり考えた。
「御前は必竟何をしに世の中に生れて来たのだ」
彼の頭の何処かでこういう質問を彼に掛けるものがあった。(中略)彼は最後に叫んだ。
「分らない」
その声は忽ちせせら笑った。
「分らないのじゃあるまい。分っていても、其所へ行けないのだろう。途中で引懸っているのだろう」夏目漱石『道草』,新潮文庫,1951年初版,313~314頁
過去の因縁や、自分の身に起きている嫌なことなど、人間の苦悩は、切ったつもりでいてもきれいさっぱりないものにすることはできません。
やりたいこと、目指すもの、やるべきことなどに向かって一直線に進みたくとも、それら苦悩に足を引っ張られるのは誰にでも起こり得ることです。
そして人生とは、そうした「道草」の連続であると、『道草』を読んでいてふと気が付くのです。
・自然主義と余裕派
日本文学には様々な流派がありますが、漱石は「余裕派」に属する作家です。
現実に対して一定の距離を保ち、余裕をもって物事を捉えようとする傾向があることから、「余裕派」と言われます。
また別の流派として、明治40年代に最盛期を迎えていた「自然主義」があります。
日本の自然主義文学は、人間の本質をありのままに描き出そうとする傾向があります。
漱石の作品は、自然主義の作家からは長らく批判的に見られていましたが、自伝的小説となった『道草』は、彼らから初めて高い評価を得たといいます。
逆に私にとって『道草』は、私が今まで自然主義の作品をあまり読んでこなかったせいか、読破までにやたら時間を要した作品です。
話の内容も、ひたすら金・金・金、夫婦の口論の繰り返しで、漱石未読の人が初めて読む本としては、個人的にはおすすめできません。
しかし、漱石の自伝的小説であることから、夏目漱石という作家がどういう人であったのか、その一面を窺い知れる点では非常に興味深い作品とも言えます。
夏目鏡子の談話や、漱石の子供たちの随筆などと併せて読んでみるのも面白い読み方かもしれません。
以上、夏目漱石『道草』のあらすじ・解説・感想でした。