『行人』の紹介
『行人』は、大正元年12月から朝日新聞に連載された夏目漱石の長編小説です。
標題は「こうじん」と読み、「友達」「兄」「帰ってから」「塵労」の四編から成る作品です。
連載途中で漱石が胃潰瘍を患い、「帰ってから」と「塵労」の間に約五カ月の中断を挟むため、連載は翌年11月まで及び、他作品と比べて完結までに長期間を要しています。
ここでは、そんな『行人』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『行人』ーあらすじ
「友達」
友人の三沢と会うため大阪を訪れた二郎ですが、三沢は胃腸を悪くして入院していました。
二郎が何度も三沢を見舞ううち、三沢は以前同じ家に住んでいた精神を病んだ娘さんの話を始めます。
「兄」
退院した三沢と別れた翌日、二郎の母と兄夫婦が大阪にやって来ます。
しばらく大阪に滞在することになった四人ですが、妻を信じられずに悩む兄・一郎は、一郎の妻・直と二人きりで一晩を過ごし、妻の節操を試してほしいと二郎に頼みます。
二郎は兄の依頼を拒否しますが、止むを得ない事情から、嵐の中で直と一晩泊まることになります。
詳しい話は東京で話すと兄に約束し、二郎らは東京に戻ります。
「帰ってから」
東京に帰ってから、二郎は嵐の晩のことを一郎から問い詰められます。
話をそらす二郎に対して一郎は激怒し、居心地が悪くなった二郎は家を出て下宿暮らしを始めます。
それからしばらくして、二郎は、兄の様子がおかしくなったことを周囲の人から耳にします。
「塵労」
二郎は、一郎の親友・Hに、兄を旅行に連れ出してほしいとお願いします。
旅行中の兄の様子を手紙に書いてもらうよう、二郎はHに頼みます。
やがてHから届いた手紙には、一郎が抱える苦悩が詳細に記されていました。
『彼岸過迄』ー概要
物語の重要人物 | ・長野二郎:「友達」「兄」「帰ってから」の語り手。兄と妹がいる。実家暮らしで独身(作中後半で下宿暮らしを開始)。 ・長野一郎:二郎の兄。学者。物事を深く考えすぎる性格。 ・長野直:一郎の妻。二郎の兄嫁にあたる。 ・H:一郎の親友。 |
主な舞台 | 「友達」:大阪 「兄」:大阪~和歌山(和歌浦) 「帰ってから」:東京 「塵労」:静岡(沼津、修善寺)~神奈川(小田原、、箱根、鎌倉) |
時代背景 | 明治末期 |
作者 | 夏目漱石 |
『行人』―解説(考察)
・後期三部作の共通点
『行人』は、前作『彼岸過迄』(明治45年)、次作『こころ』(大正3年)と並んで、漱石の後期三部作として知られる作品です。
話の内容に繋がりがある前期三部作(『三四郎』『それから』『門』)に対して、後期三部作の内容はそれぞれ完全に独立しています。
しかし、後期三部作には、いくつかの共通点を見出すことができます。
- テーマにおける共通点:「人間のエゴイズム」「近代知識人の苦悩」を描いている
- 小説の構成における共通点:後半部分での語り手の入れ替わり・消失が見られる
順番に解説を進めます。
まずテーマにおける共通点として、後期三部作は「人間のエゴイズム」とそれに伴う「近代知識人の苦悩」に焦点が当てられた作品群です。
エゴイズムとは、一般的に利己主義のことを指し、自分の利益を重視して他人の利益を考えないことを意味します。
後期三部作という全体を見ていく上では、より広く、自分本位というような意味合いで捉えてよいでしょう。
『彼岸過迄』の須永は、従妹の千代子と結婚する気がまるでないのに、千代子の前に別の男性が現れると嫉妬心を抱き、自分のコントロールできない感情に思い悩みます。
『こころ』の先生は、お嬢さんへの恋心から、お嬢さんとの距離が近づきつつあったKに嫉妬し、Kを出し抜いてお嬢さんに結婚を申し込みます。
その後、Kが自殺をしたことで、先生は誰にも打ち明けられない罪の意識に長年苛まれます。
そして、『行人』の一郎はと言うと、妻と弟の仲を疑って、弟を使って妻の節操を試そうとしたり(実際、二郎と直の間に男女の関係はなかったわけですが)、あげく妻を何発も殴ったり、これだけ見るととんでもない自己中野郎です。
一郎の苦悩の詳細については後述しますが、須永・先生・一郎はともに、自分本位な考えに囚われ、孤独な世界で思い悩むという点で共通しています。
こうして、後期の漱石作品では繰り返し人間のエゴイズムの問題が描かれ、近代的自我とはどうあるべきか、その追求が進んでいったのです。
次に、後期三部作では、いずれも作品の後半部分で語り手役が入れ替わるという、構成上の共通点が見られます。
言い換えると、作品前半の語り手役は、後半部分で聞き手役に回ることになり、存在感が非常に薄くなっています。
特に、『行人』と『こころ』は非常に似た構成をとっており、どちらも最後の編が手紙という形で締められていて、その手紙は前半部の語り手宛てに書かれています。
構成は共通しているものの、両作品には大きな違いが見られます。
『こころ』では前半部分で先生の過去や秘密についての匂わせが多く、手紙の内容がそれに呼応していることから、作品前半部分と手紙部分の内容の繋がりはしっかりと感じられます。
一方、『行人』は、前半部分と手紙部分であまりに様子が異なり、ある種の断絶を感じます。
この断絶が、力量不足によるものか、故意によるものか、これについても次で詳しく検討を進めていきたいと思います。
・一郎が抱える苦悩とは
既に触れたとおり、『行人』は四つの編で構成されていて、最終編のタイトルが「塵労」となっています。
塵労とは、世の中や俗世間におけるわずらわしい苦労を指す言葉です。
「塵労」は前の三つの編とは全く雰囲気が異なっています。
例として挙げると、
- 前の三編では男女の問題に関する内容が多いのに対し、「塵労」では男女の問題に関する内容は薄い
- 編の大部分が手紙の形式をとっており、語り手役が一郎の親友のHになっている
- 「塵労」だけ宗教色が強い内容になっている
このように、前の三編にはない特徴が見られます。
そして、漱石後期三部作に共通するテーマ「近代知識人の苦悩」、すなわち一郎が抱える苦悩の詳細が記されているのが「塵労」です。
一郎が抱える苦悩とは、下記のようなものが考えられます。
- 神経が鋭敏すぎるばかりに、ありとあらゆる物事が気になりすぎて不安に襲われること
- それを周囲の人に理解してもらえない孤独感
- 上記の苦しみを生み出す己の性格上の問題や矛盾点を理解しているものの、己を曲げられない苦しみ
- 揺るぎのない絶対的自分になって安心を得たいと考えているのに、その境地に到達できない苦しみ
これらの苦悩は、以下に引用する描写などに明らかです(※以下引用文はすべてHが二郎にあてて書いた体裁であり、引用文中の「兄さん」は一郎を指しています)。
兄さんは書物を読んでも、理屈を考えても、飯を食っても、散歩をしても、二六時中何をしても、そこに安住することができないのだそうです。何をしても、こんなことをしてはいられないという気分に追いかけられるのだそうです。(中略)
兄さんの苦しむのは、兄さんが何をどうしても、それが目的にならないばかりでなく、方便にもならないと思うからです。ただ不安なのです。
夏目漱石『行人』,2014,集英社文庫,413頁
そうして実際孤独の感に堪えないのだといい張りました。私はその時はじめて兄さんの口から、彼がただに社会に立ってのみならず、家庭にあっても一様に孤独であるという痛ましい自白を聞かされました。(中略)兄さんの眼にはお父さんもお母さんも偽りの器なのです。細君は殊にそう見えるらしいので、兄さんはその細君の頭にこの間手を加えたといいました。
夏目漱石『行人』,2014,集英社文庫,427頁
私のいう意味はよく兄さんに解っているのです。けれども是非、善悪、美醜の区別において、自分の今日までに養い上げた高い標準を生活の中心としなければ生きていられない兄さんは、さらりとそれを擲って、幸福を求める気になれないのです。むしろそれに振ら下がりながら、幸福を得ようと焦燥るのです。そうしてその矛盾も兄さんにはよく飲み込めているのです。
夏目漱石『行人』,2014,集英社文庫,436頁
兄さんは純粋に心の落ちつきを得た人は、求めないでも自然にこの境地に入れるべきだといいます。一度この境界に入れば天地も万有も、すべての対象というものが悉くなくなって、ただ自分だけが存在するのだといいます。(中略)
すなわち絶対だといいます。(中略)言葉を換えて同じ意味を表すと、絶対即相対になるのだというのです、したがって自分以外に物を置き他を作って、苦しむ必要がなくなるし、また苦しめられる懸念も起こらないのだというのです。
夏目漱石『行人』,2014,集英社文庫,447頁
ただし注意したいのは、これら一郎の苦悩は、Hという他者を介して記されているという点です。
『彼岸過迄』『こころ』の苦悩については知識人自身(『彼岸過迄』の須永、『こころ』の先生)の語りで記されるものの、『行人』では一郎が語り手役に回ることは一度もありません。
よって、読者が一郎の苦悩について考える場合、一郎の心をすべて理解するというのは不可能だと言えるでしょう。
また、一郎の心という点について注目していくと、前の三編と「塵労」との断絶が、ある種の効果を持っているようにも感じられてきます。
『行人』を読んだ時、「塵労」の前の三編で登場する一郎だけを見れば、一郎は理解不能のとんでも変人自己中野郎としか私には思えませんでした。
ところが、「塵労」を読んで一郎の心の一部が分かることで初めて、一側面からの一郎しか見えていなかった事実に気が付きます。
語り手を変え、男女の問題などの俗な内容を切り離し、内へ内へと突き詰めていく「塵労」は、前半部分との繋がりをあえて断つことで、一郎と他者との断絶・その孤独感の深さを読者にはっと気づかせてくれるようにも思います。
・漱石と禅
神やモハメドなど、宗教に関連した記載が多い「塵労」では、禅にまつわる話も記されています。
禅にまつわる話は、漱石の他作品にも見ていくことができます。
『夢十夜』第二夜、『門』では参禅の様子が描かれ、登場人物らはそれぞれ公案という修行のための禅の問題を与えられ、禅問答を受けています。
『夢十夜』第二夜では「狗子仏性」という、絶対的な「無」の境地とは何かを考えるための公案が記されています。
『門』では、「父母未生以前本来の面目」という、父親や母親が生まれる前の自分は何者であったのかを問う公案が記されています。
そして『行人』の「塵労」では、公案の一つでもある香厳禅師の逸話が登場しています。
※香厳撃竹とは
唐の時代、鄧州に香厳という僧がいました。
香厳は非常に聡明で、一を言えば十を理解するほど博識な人物でした。
香厳は、潙山霊佑という禅師から、父母未生以前本来の面目の公案を与えられます。
経典から習い覚えたことしか答えられない香厳は、書物を点検し直しますが、当然そこに答えは書かれていません。
絶望した香厳は、書物をすべて焼き捨て、山に籠り墓守として過ごし始めます。
ある時、掃除をしていた香厳は、石を竹林の中に投げ捨てます。
すると投げた石が、竹に当たって高い音を立てました。
その音を聞いた途端に、香厳ははっと悟りを得ることができ、喜んだといいます。
『夢十夜』『門』など、それまでの漱石の作品では、登場人物自身が禅の公案を受ける立場にあり、なんとかして悟ろうと藻掻く様子が描かれています。
『行人』では、一郎がHに「香厳撃竹」の逸話を話し、「どうかして香厳になりたい」という一言を漏らすものの、一郎自身が参禅して、禅の悟りを得ようとしているわけではありません。
『夢十夜』の侍、『門』の宗助は手段と目的を混同していて、悟りを得たらそれでヨシ!感がありますが、一郎には絶対的自分を得て苦悩から解放されたいという願望があります。
「どうかして香厳になりたい」という一言は、禅の悟りを得たいと言っているわけではなく、聡明であるが故に絶望の中にあった香厳がついに苦痛から解放されたことに対する、羨望の気持ちから来た発言だと言えるでしょう。
漱石の作品では『行人』以前も禅に関する内容が登場していましたが、「悟るか悟れないか」という二択問題の題材になっていた禅が、『行人』では苦悩からの解放に至る道筋として提示されたということは、漱石自身の禅への考え・関わり方が新たな境地に達しつつあったという見方に変えることができるでしょう。
実際、漱石自身の体験として参禅の記録がありますが、漱石が初めて与えられた公案は「父母未生以前本来の面目」で、香厳が与えられたものと同じです。
かつて漱石自身が与えられ、その答えを見いだせなかった公案から悟りを得た香厳禅師の逸話を持ってくることで、『行人』では漱石と禅の関係に何らかの帰結がもたらされているように思われます。
『行人』ー感想
・「行人」とは誰なのか?
私が初めて『行人』を読んだ時、「塵労」までは二郎が「行人」かと思っていました。
冒頭から大阪に旅行しているし、和歌山にも行っているし、二郎の旅で起こる事件を書いている系小説かなあ〜と考えていました。
しかし、実際には「行人」は一郎のことです。
前作『彼岸過迄』では、気持ちを整理するためといって須永が一人旅に出た話が最後の編に描かれて完結しますが、『行人』もまさに同様の流れです。
漱石は、苦悩を抱える近代知識人を旅に送り、旅の中で自己との対話を進めていったのです。
・後期三部作の中で最も苦しい小説
そして、『行人』という作品は、私の中では後期三部作の中で読了感が最も重たい作品です。
その理由は、三作品の中で『行人』が苦しみの途上にある作品だからです。
『彼岸過迄』の須永は一人旅に出ますが、その後、旅から戻ってきて日常を送る様子が描かれています。
苦悩からの真の解放はなっていないものの、表面上は変わらず過ごしています。
『こころ』の先生は、明治の精神の終焉とともに心中し、ある意味、苦悩から突き抜けて行ってしまいます。
『行人』の一郎は、旅の途中にあり、彼がどうなっていくのか読者は答えが与えられていません。
結果だけで言うと、『こころ』の先生の自死の方が重そうですが、『こころ』は全編を通して先生の諦念のようなものが漂っているのに対して、『行人』ではままならない感情に挟まれている一郎の激情がしばしば見られます。
進行形の苦悩だからこそ、読んでいて苦しい部分です。
更に、「塵労」まではただのヤバい奴だと思っていた一郎の苦悩が、最後の最後で明かされていくことで、何とも言えない気持ちになります。
現実社会で事件が起きた時、加害者のバックグラウンドが報道されていく内に、同情の目が向けられていくことがありますが、それに似ているかもしれません。
結局、自分は自分、他者は他者であり、自分のことは自分にしか分かり得ず、他者を真に理解するのは難しいことです。
人間は、自分から見えている、見ようとしている物差しでしか、他者を認識できません。
だからこそ、「見えない」で終わりにするのではなく、広い視野で見ようとしていかなければいけないのだと思います。
『行人』は、非常に難解で、重たい小説ではありますが、生きていく上で大切なことを教えてくれる作品です。
以上、夏目漱石『行人』のあらすじ・解説・感想でした。