『彼岸過迄』あらすじ&解説|二つの死が漱石に与えた影響とは?

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『彼岸過迄』あらすじ&解説|二つの死が漱石に与えた影響とは?

『彼岸過迄』の紹介

『彼岸過迄』は、明治45年元旦から同年4月29日まで朝日新聞に連載された夏目漱石の長編小説です。

『彼岸過迄』と、続く『行人』『こころ』は漱石の後期三部作として知られています。

『彼岸過迄』は、六つの短編が連なって一つの長編を構成しており、編によって時系列や語り手、文体が異なっているのが特徴的です。

ここでは、そんな『彼岸過迄』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。

『彼岸過迄』ーあらすじ

「風呂の後」

大学卒業後、職を探している敬太郎は、同じ下宿の森本と話をする仲でしたが、ある時森本が下宿から姿を消します。

「停留所」

友人須永の叔父・田口から、小川町の停留所に降りるある男の尾行を依頼された敬太郎は、男と、一緒にいた若い女を尾行します。

「報告」

敬太郎は田口に尾行の結果を報告します。

敬太郎が尾行した男は、田口の義弟の松本で、松本と一緒にいた若い女は、田口の娘・千代子であったと明かされます。

「雨の降る日」

敬太郎は、松本の末娘が雨の降る日に死んだ話を千代子から聞きます。

「須永の話」

須永の母親は、須永と千代子の結婚を望んでいましたが、須永は性質が真逆の千代子と結婚する気はありません。

夏、鎌倉の別荘で田口家と過ごした須永は、高木という青年が千代子と親しくする様子に嫉妬します。

千代子は、妾と結婚する気がないのに嫉妬するのは何故かと云い、「貴方は卑怯だ」と須永を責めます。

「松本の話」

須永に出生の秘密を問われた松本は、須永と彼の母は血が繋がっていない事実を明かします。

その後、気持ちの整理のため一人旅に出た須永から、松本へ届いた手紙には、内向的であった須永が次第に外の世界に関心を示していく様子が綴られていました。

『彼岸過迄』ー概要

物語の重要人物 ・田川敬太郎:大学卒業後、職を探している。作品前半の語り手役。作品を通して、狂言回しの役割を兼ねる。
・須永市蔵:敬太郎の大学の友人。内向的な性格。「須永の話」の語り手役。
・田口千代子:須永の従妹。
・松本恒三:須永、千代子の叔父。「松本の話」の語り手役。
主な舞台 ・東京
・鎌倉(「須永の話」)
時代背景 明治時代
作者 夏目漱石

『彼岸過迄』―解説(考察)

 ・二つの「死」の経験

朝日新聞入社以降、間を置かず次々と長編作品を発表していた漱石ですが、『彼岸過迄』は前作『門』から約一年半を開けて執筆開始されています。

この空白期間で、漱石は二つの「死」を経験しており、これらの経験は『彼岸過迄』以降の作品に大きな影響を与えています。

  • 【明治43年8月】修善寺の大患
  • 【明治44年11月】夏目家の五女・ひな子の死

 

順に解説を進めていきます。

① 修善寺の大患

明治43年6月、『門』を執筆中であった漱石は、胃潰瘍で入院し、同年8月に伊豆の修善寺に出掛けて転地療養することになります。

ところがそこで病状が悪化し、大吐血した漱石は一時危篤状態を迎えます。

この事件は「修善寺の大患」と呼ばれ、この出来事は、同年10月から不定期で朝日新聞に掲載された漱石の随想『思ひ出す事など』に記されています。

余は一度死んだ。そうして死んだ事実を、平生からの想像通りに経験した。はたして時間と空間を超越した。しかしその超越した事が何の能力をも意味しなかった。余は余の個性を失った。余の意識を失った。ただ失った事だけが明白なばかりである。どうして幽霊となれよう。どうして自分より大きな意識と冥合できよう。臆病にしてかつ迷信強き余は、ただこの不可思議を他人に待つばかりである。

夏目漱石,『思い出す事など』,青空文庫

余は眠から醒めたという自覚さえなかった。陰から陽に出たとも思わなかった。微かな羽音、遠きに去る物の響、逃げて行く夢の匂い、古い記憶の影、消える印象の名残――すべて人間の神秘を叙述すべき表現を数え尽してようやく髣髴すべき霊妙な境界を通過したとは無論考えなかった。ただ胸苦しくなって枕の上の頭を右に傾むけようとした次の瞬間に、赤い血を金盥の底に認めただけである。その間に入り込んだ三十分の死は、時間から云っても、空間から云っても経験の記憶として全く余に取って存在しなかったと一般である。

夏目漱石,『思い出す事など』,青空文庫

この「三十分の死」を通して、漱石は人間存在のあっけなさ・儚さ、自己の意識の不確かさ・不安定さに直面しています。

『彼岸過迄』の六つの短編の中で、主軸になっているのが「須永の話」ですが、この話から浮かび上がるのは、自意識に囚われた非常に内向的な須永の人物像です。

自意識に囚われていると言えば、まるで自己が強すぎるようにも思われますが、須永の内向的性格は、自身の出生に抱いた疑惑から生ずる、不確かな自己存在に対する不安が根本的要因にあると考えられます。

『彼岸過迄』の裏主人公とも言える須永は、命を落とす展開こそないものの、不安定で不明瞭な自己意識という、死の世界にも近いような曖昧な精神世界にいる人物です。

自己の意識という内なる問題を漱石に突きつけた修善寺の大患は、その後の漱石の作品が、人間のより内面的な部分に迫っていったことに大きく関係していると言えるでしょう。

② 夏目家の五女・ひな子の死

二つ目の「死」は、前述の修善寺の大患よりも、直接的に『彼岸過迄』の内容に影響しています。

『彼岸過迄』が執筆される前年の明治44年11月29日、夏目家の末娘・ひな子がわずか二歳にして急逝しました。

『彼岸過迄』では、「雨の降る日」という話で、松本の末娘・宵子の死に関するエピソードが語られています。

宵子は、松本家の五人きょうだいの末娘で、享年もひな子と同じ二歳です。

漱石は、ひな子の死について、明治44年の日記及び断片に細かく記録を残しています。

そして、それらの記録を読むと、「雨の降る日」はひな子の死をモチーフにしているというよりもむしろ、細かい部分までほとんどそのまま事実を記していることが分かります。

例として、「雨の降る日」で宵子が急逝した日の描写と、ひな子が急逝した明治44年11月29日と翌日の日記の比較をまとめてみました。

(以下、夏目漱石『彼岸杉迄』,1952,新潮文庫,172~176頁、夏目漱石『漱石全集 第17巻』,1929,漱石全集刊行会,224~225頁よりそれぞれ引用)

◇「雨の降る日」:宵子◇

医者は時を移さず来た。「少し模様が変です」と云ってすぐ注射をした。然し何の効能もなかった。「駄目でしょうか」という苦しく張り詰めた問が、固く結ばれた主人の唇を洩れた。そうして絶望を怖れる怪しい光に充ちた三人の眼が一度に医者の上に据えられた。鏡を出して瞳孔を眺めていた医者は、この時宵子の裾を捲って肛門を見た。

「これでは仕方がありません。瞳孔も肛門も開いてしまっていますから。どうも御気の毒です」(中略)

「辛子湯でも使わして見たらどうですか」と松本は素人料簡で聞いた。「好いでしょう」と医者はすぐ答えたが、その顔には毫も奨励の色が出なかった。(中略)医者の手に抱き取られた宵子は、湯の中に五六分浸けられていた。

◆漱石日記:ひな子◆

其通り中山さんがやつて来たが、何だか様子が可笑しいから注射をしませうと云つて注射をしたが効目がない、肛門を見ると開いてゐる。眼を開けて照らすと瞳孔が散つてゐる。是は駄目ですと手もなく云つて仕舞ふ。何だか嘘の様な氣がする。中山さんも不思議ですといふ。からし湯でも使はしたらと思つて相談すると遣つて見ろといふから瓦斯で湯を沸かしてからしを買ひにやつて腰湯を使はしたが同じ事である。

◇「雨の降る日」:宵子◇

手頃な屏風がないので、唯都合の好い位置を択って、何の囲いもない所へ、そっと北枕に寐かした。今朝方玩弄にしていた風船玉を茶の間から持って来て、御仙がその枕元に置いて遣った。(中略)

やがて白木の机の上に、樒と線香立と白団子が並べられて、蝋燭の灯が弱い光を放った時、三人は始めて眠から覚めない宵子と自分達が遠く離れてしまったという心細い感じに打たれた。(中略)

友引は善くないという御仙の説で、葬式を一日延ばしたため、家の中は陰気な空気の裡に常よりは賑わった。

◆漱石日記:ひな子◆

屏風がないから仕方がない。六畳に置いては可哀想だから座敷の次の間へ北枕に寐かす枕元に風船を置いてある。葬具屋から白木の机と線香立、花立、樒、白團子、をもつてくる。

あした區役所へ行つて死亡届を出して埋葬證書をもらふ事は行徳に賴む。寺の談判は兄に賴む、十二月一日は友引で縁起が悪ひといふので二日にする。

◇「雨の降る日」:宵子◇

その日は女がみんなして宵子の経帷子を縫った。百代子が新たに内幸町から来たのと、外に懇意の家の細君が二人程見えたので、小さい袖や裾が、方々の手に渡った。千代子は半紙と筆と硯とを持って廻って、南無阿弥陀仏という六字を誰にも一枚ずつ書かした。

◆漱石日記:ひな子◆

經帷子をみんなが少しづゝ縫ふ。女の子が多いので袖や裾が方々の手に渡る。藤が半紙を以て來て南無阿弥陀仏といふ字を一杯かいてくれといふ。

◇「雨の降る日」:宵子◇

午過になって愈棺に入れるとき松本は千代子に「御前着物を着換さして御遣りな」と云った。千代子は泣きながら返事もせずに、冷たい宵子を裸にして抱き起した。その脊中には紫色の斑点が一面に出ていた。着換が済むと御仙が小さい数珠を手に掛けてやった。同じく小さい編笠と藁草履を棺に入れた。昨日の夕方まで穿いていた赤い毛糸の足袋も入れた。その紐の先に付けた丸い珠のぶらぶら動く姿がすぐ千代子の眼に浮んだ。みんなの呉れた玩具も足や頭の所へ押し込んだ。最後に南無阿弥陀仏の短冊を雪の様に振り掛けた上へ蓋をして、白綸子の被をした。

◆漱石日記:ひな子◆

棺に入れる。裸にすると脊の方が紫色になつてゐる。小さい珠數を手にかける、小さい藁草履、編笠を入れる。赤い毛絲の編んだ足袋を入れる。珠がぶらぶらして歩いて居る所が眼に浮ぶ。人形を入れてやる。蓋をして白綸子の布をかける。

このように、「雨の降る日」は千代子という登場人物を挟んだ描写ではありますが、行動やアイテムの一つ一つが、漱石の経験に即していることは明らかです。

また、十二月三日の日記には、次のような記述も見られます。

昨日は葬式今日は骨上げ、明後日は納骨明日はもしするとすれば待夜である。多忙である。然し凡ての努力をした後で考へると凡ての努力が無益の努力である。死を生に變化させる努力でなければ凡てが無益である。こんな遺恨な事はない。

夏目漱石『漱石全集 第17巻』,1929,漱石全集刊行会,229頁

ここからも読み取れるように、ひな子の死は、漱石に相当なショックと悲しみをもたらした事件であり、決して忘れられぬものであっただろうと推察されます。

『彼岸過迄』の「雨の降る日」は、漱石の末娘ひな子の供養のための小説と言って過言ではなく、ひな子の死が与えた影響の大きさが伝わってくるようです。

・須永は救済されたのか?

「須永の話」以降、『彼岸過迄』の後半では、須永という青年の心中の苦悩が描かれます。

僻みがあるという弱点の裏に、自身の出生の秘密が隠されていることへの不安があった須永は、叔父の松本から真実を明かされた後、気持ちを整理するため一人旅に出ます。

旅先から松本宛に届く須永の手紙には、内向的性格であった須永が外の世界に関心を向けていく様子が記され、須永の苦悩が解きほぐれているように見えたところで『彼岸過迄』は完結します。

が、須永は本当に心の苦悩から解放されたと見てよいのでしょうか?

結論を言うと、

須永は苦悩から真に解放されていない。須永の苦しみは継続しており、須永は内向的な性格のまま変わっていない。

ということが考えられます。

これを説明するために、『彼岸過迄』の時系列を整理していきます。

『彼岸過迄』が難しい、分かりにくいと言われる要因の一つに、六つの短編が連なっている構造のため、視点や文体、時系列がバラバラであることが挙げられると思います。

六つの短編を通した全時系列で見ていくと、作中の主な出来事の順序は以下のとおりです。

※敬太郎と須永は大学の同級生であり、時期は敬太郎と須永に共通しています。

『彼岸過迄』主な出来事 年譜

時期 主な出来事 収録話
大学二年(春) 須永の母が、千代子との結婚話を須永に持ち出す 須永の話
大学三年生位 田口家で、須永と千代子が二人きりで会話する 須永の話
大学三年~四年に移る夏休み 鎌倉で、千代子と親しくする高木に嫉妬する 須永の話
東京に戻り、高木の件で須永と千代子が衝突する 須永の話
大学四年? 松本の末娘・宵子の死 雨の降る日
大学卒業の二三カ月前 松本が須永に出生の秘密を明かす 松本の話
大学卒業試験終了後 須永が一人で関西旅行に行く 松本の話
大学卒業~その年の暮 敬太郎が下宿で森本と話す 風呂の後
敬太郎が停留所である男を尾行する 停留所
敬太郎が尾行結果を田口に報告する 報告
翌年 敬太郎が千代子から「雨の降る日」の話を聞く
敬太郎が須永から「須永の話」を聞く
敬太郎が松本から「松本の話」を聞く

このように整理すると、『彼岸過迄』は「松本の話」で完結する構成ですが、「松本の話」は時系列の最新ではないということが分かります。

では、「松本の話」以降の須永の性格について、すなわち敬太郎から見た須永評を以下に引用します。

敬太郎に須永という友達があった。これは軍人の子でありながら軍人が大嫌で、法律を修めながら役人にも会社員にもなる気のない、至って退嬰主義の男であった。尤も父は余程以前に死んだとかで、いまでは母とたった二人ぎり、淋しいような、又床しいような生活を送っている。

夏目漱石『彼岸杉迄』「停留所」,1952,新潮文庫,38頁

退嬰主義とは、しりごみすること、ひきこもること、進んで新しいことに取り組んでいこうとしない様を意味します。

この他にも、敬太郎は須永のことを「偏屈」とも評しています。

内へ内へ向かうのではなく、もっと外に浮気にならなければならないと松本から諭され、松本へ宛てた手紙の中では「僕も叔父さんから注意された様に、段々浮気になって行きます」と記した須永ですが、少なくとも敬太郎から見た時、この内向的な性格が変わったとは到底言い難い状態です。

「段々浮気になって行きます」と外に関心を向け始めた姿勢が、旅行中の一時的なものだったのか、あるいは須永が叔父に気を遣ってみせたものか、須永視点の記述がないため、この答えは分かりません。

いずれにしても、須永の内向的性格は継続しており、その性格が直らない以上、苦悩からの真の解放はあり得ないものでしょう。

『彼岸過迄』は、前向きな終わり方のように見せかけて、その実、須永の救済エンドではないと考えます。

『彼岸過迄』ー感想

・新しい取り組みの小説

漱石は、『彼岸過迄』の序文に、次のような内容を記しています。

かねてから自分は個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうかという意見を持していた。が、ついそれを試みる機会もなくて今日まで過ぎたのであるから、もし自分の手際が許すならばこの「彼岸過迄」をかねての思わく通りに作り上げたいと考えている。

夏目漱石『彼岸杉迄』「彼岸過迄に就て」,1952,新潮文庫,7頁

漱石は『彼岸過迄』を、それまでになかった新しい取り組みで構成したとしています。

ところが新潮文庫版の解説では、『彼岸過迄』は漱石の処女作『吾輩は猫である』への原点回帰であり、『彼岸過迄』の構成は新しい趣向というより『吾輩は猫である』と同じような構成で、『彼岸過迄』における敬太郎は、『吾輩は猫である』の猫と同じ役割を果たしているという論が展開されています。

個人的に、この解説内容には、異を唱えたいところです。

確かに、敬太郎・猫という観察者的役割が存在し、複数のエピソードで構成される『彼岸過迄』・『吾輩は猫である』は似た部分があるとは思います。

しかし、当初一回限りの読み切りとしてスタートした『吾輩は猫である』とは、作品成立の前提が全く異なり、結果的に複数のエピソードが集まった『吾輩は猫である』と、最初から複数の短篇を集めて一つの長篇成立を狙った『彼岸過迄』を同じ構成と一括りにするのは無理がある気がしています。

また、『彼岸過迄』は、事件の進行を最初から最後までリアルタイムで描写した作品ではありません。

特に、作品後半の「雨の降る日」「須永の話」「松本の話」は語り手が過去に起きたことを回顧して、敬太郎に向けて話しているという構造です。

これは、昔の事を回顧して、事件の進行よりも事件そのものの真相に焦点を当てて描いた『坑夫』(明治41年)とも似ているように感じます。

『吾輩は猫である』への回帰作品というよりは、『吾輩は猫である』や『坑夫』といった過去の作品の特徴の一部を引き継いで生み出された作品というのが正しい気がします。

更に、『彼岸過迄』では、「須永の話」以降、当初の語り手・敬太郎の存在感は急速に薄くなっています。

この、語り手の入れ替わり・消滅は『彼岸過迄』以降の漱石作品、例えば『こころ』などに顕著です。

『彼岸過迄』は、それまでの漱石作品の系譜も引き継ぎつつ、『こころ』などに繋がる手法に一歩踏み入れた、新しい取り組みの小説だと私は思っています。

・『彼岸過迄』というタイトル

また、同じ序文の中で、『彼岸過迄』のタイトルの由来についても記載があります。

「彼岸過迄」というのは、元日から始めて、彼岸過迄書く予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない実は空しい標題である。

夏目漱石『彼岸杉迄』「彼岸過迄に就て」,1952,新潮文庫,7頁

ネット上の『彼岸過迄』の感想を見ていると、お彼岸をお盆と混同しているような内容がやや見受けられますが、お彼岸とお盆は全く別物です。

どちらも仏教の年中行事ですが、お彼岸は春と秋の二回あり、春のお彼岸は春分の日の前後三日ずつ(3月17日~3月24日頃)、秋のお彼岸は秋分の日の前後三日ずつ(9月20日~9月26日頃)行われ、お盆は8月13日~8月16日頃に行われます。

『彼岸過迄』の「彼岸」が春のお彼岸を指しているのであれば、『彼岸過迄』は4月29日まで朝日新聞に連載されていたので、序文の記載内容におかしな点はありません。

ただ、本当にそれだけの単純な理由でお彼岸がタイトルに選ばれたのか?というと、ちょっと違うような気もします。

例えば、先に触れたお盆は、お彼岸と同じ先祖供養のための行事ですが、タイトルにはなっていません(もちろん、連載上の都合で掲載期間が決まっていたことが大前提なので、お盆まで書くことは難しかったでしょうが…)。

お盆とお彼岸は時期の違いもありますが、意味にも違いがあります。

お盆はあの世からご先祖様が帰ってくる日で、お彼岸はあの世とこの世が最も近くなる日です。

修善寺の大患と末娘ひな子の死——漱石は二つの「死」を経験したことで、『彼岸過迄』ではそれまでの漱石作品にはなかった内面的問題の追求、亡娘の供養が行われました。

言い換えれば、『彼岸過迄』は、漱石が「死」に近づいたことで実現できた小説です。

これは、〈あの世と近くなる〉お彼岸の意味と繋がってくるようにも思われます。

また、連載期間終了に近い時期で考えるならば、同じく仏教の年中行事で見た時、花祭り(4月8日)という行事もあります。

何なら花祭りの方が連載期間終了日に近いわけですが、漱石がタイトルに絡めたのはお彼岸です。

『盆過迄』でも、『花祭過迄』でもなく、あえて『彼岸過迄』というタイトルにしたのは、やはりお彼岸の意味に絡んだ漱石の意図が隠れているのでは?とつい思ってしまいます。

そう考えると、考察で触れた、ひな子の死に関する日記中に繰り返された「無益」の言葉も、序文中の「空しい」に繋がるように感じられるのです。

以上、夏目漱石『彼岸過迄』のあらすじ・解説・感想でした。

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yumihara

文学部出身の主婦です。文学の魅力が少しでも伝わるような、わかりやすい解説・感想を心がけていきたいです。