『虞美人草』の紹介
『虞美人草』は、明治40年に朝日新聞に連載された夏目漱石の小説です。
東京帝大講師を辞職した漱石が、職業作家として初めて執筆した作品が『虞美人草』でした。
ここでは、そんな『虞美人草』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『虞美人草』ーあらすじ
秀才の小野には小夜子という許嫁がいましたが、小野は藤尾という女性に惹かれていました。
美しく聡明でありながら、我が強く、道義心に欠ける藤尾。
彼女にもまた宗近という許嫁がいましたが、藤尾は自分の意のままになりそうな小野を好み、小野の心をたぶらかしていきます。
小野の恩師・孤堂が、娘・小夜子と小野の縁談をまとめるため、小夜子を連れて京都から上京すると、小野は二人の女性の間で義理と人情の板挟みになり苦しみます。
ある時小野は、東京勧業博覧会で小夜子と一緒にいるところを藤尾に目撃され、ひどく問い詰められます。
知人の浅井を通じて、小夜子との縁談を断ることにした小野ですが、孤堂はそのやり口に激怒し、小夜子は涙を流します。
浅井に事態を相談された宗近は、小野の元に乗り込み、真面目になるべきだと説得し、小野は心を入れ替えます。
待ち合わせに現れない小野に怒り、家へ戻った藤尾は、小夜子を伴った小野に対面します。
藤尾は、亡父の遺品の金時計を、当てつけのように宗近に手渡しますが、「時計が欲しいために邪魔をしたわけではない」と宗近に一蹴されます。
我の女は虚栄の毒を仰いで斃れ、藤尾の死という悲劇を以て、作品は幕を閉じます。
『虞美人草』ー概要
物語の重要人物 | 『虞美人草』は、甲野・宗近・小野・井上の四家族の群像劇です。
〈甲野家〉 〈宗近家〉 〈小野家〉 〈井上家〉 |
主な舞台 | 東京 |
時代背景 | 明治40年 ※作中で、藤尾・欽吾・一・糸子らが訪れた東京勧業博覧会は、実際に明治40年に上野公園で開催されています。 |
作者 | 夏目漱石 |
『虞美人草』―解説(考察)
・作品の成立背景
明治38年、漱石の処女作『吾輩は猫である』が「ホトトギス」にて世間に発表されました。
当時の漱石は、まだ東京帝国大学英文科講師として勤めており、『吾輩は猫である』は当初一回限りの読み切りとして連載されたものでした。
これが好評を博し、続編が執筆されるようになると、しだいに漱石は職業作家の道を熱望するようになります。
『倫敦塔』『坊っちゃん』『草枕』など次々と発表した漱石は、明治40年2月(漱石40歳の時)、朝日新聞社から招聘を受け、教職を辞して朝日新聞社に入社します。
そして同年6月から『虞美人草』が朝日新聞に連載開始、同年10月に完結しました。
漱石にとって『虞美人草』という作品は、
職業作家として執筆した第一作目であり、並々ならぬ気合の入った作品
であったということが言えるでしょう。
漱石の職業作家としての並々ならぬ気合は、朝日新聞の「入社の辞」からも窺えます。
(中略)朝日新聞から入社せぬかと云う相談を受けた。担任の仕事はと聞くと只文芸に関する作物を適宜の量に適宜の時に供給すればよいとの事である。文芸上の述作を生命とする余にとって是程難有い事はない、是程心持ちのよい待遇はない、是程名誉な職業はない、成功するか、しないか抔と考えて居られるものじゃない。博士や教授や勅任官抔の事を念頭にかけて、うんうん、きゅうきゅう云っていられるものじゃない。
夏目漱石「入社の辞」、青空文庫
また、明治40年6月4日付の小宮豊隆宛て書簡に始まり、漱石が知人らにあてた書簡の数々で『虞美人草』に関する記述が見られます。
【明治40年7月19日 小宮豊隆宛て書簡より引用】
虞美人草は毎日かいてゐる。藤尾という女にそんな同情をもつてはいけない。あれは嫌な女だ。詩的であるが大人しくない。道義心が缺乏した女である。あいつを仕舞に殺すのが一篇の主意である。うまく殺せなければ助けてやる。然し助かれば猶々藤尾なるものは駄目な人間になる。最後に哲學をつける。此哲學は一つのセオリーである。僕は此セオリーを説明する爲めに全篇をかいてゐるのである。
夏目漱石,『漱石全集 第十六巻 書簡集』,漱石全集刊行会,1936年,564頁
【明治40年8月5日 鈴木三重吉宛て書簡より引用】
從つて自然がソレ自身をコンシユームして結末がつく迄は書かなければならない。するとことによると君と同伴行脚の榮を辱ふする譯に参らんかも知れぬ。旅行も大事だが虞美人草は胃病よりも大事だから其邊はどうか御勘辨を願ひたい。(中略)もし自然の法則に背けば虞美人草は成立せず。
夏目漱石,『漱石全集 第十六巻 書簡集』,漱石全集刊行会,1936年,579頁
【明治40年8月6日 小宮豊隆宛て書簡より引用】
あんな御目出度奴は夏の螢同様尻が光つてすぐ死ぬ許だ。さうして分りもしないのに虞美人草の批評なんかしやがる。虞美人草はそんな凡人の爲めに書いてるんぢやない。博士以上の人物即ち吾黨(※「わがとう」=仲間のこと)の士の爲めに書いてゐるんだ。
夏目漱石,『漱石全集 第十六巻 書簡集』,漱石全集刊行会,1936年,582頁~583頁
これら書簡の内容からも、漱石が強いこだわりや情熱を持って『虞美人草』の執筆に取り組んでいたことが窺えます。
漢文調を交えた美しい文章表現や、最後の「哲學」という「一つのセオリー」に向けて、様々な登場人物が入り乱れる群像劇を強力にまとめ上げていく構成など、『虞美人草』には他漱石作品にはない特色が見られます。
・なぜタイトルが『虞美人草』であったのか?
そもそも、何故『虞美人草』のタイトルは、”虞美人草”という花の名前なのか?
『虞美人草』では、女郎花、菫、薔薇など様々な花が登場しますが、虞美人草が登場するのは一カ所だけです。
逆に立てたのは二枚折の銀屏である。一面に冴え返る月の色の方六尺のなかに、会釈もなく緑青を使って、柔婉なる茎を乱るるばかりに描た。不規則にぎざぎざを畳む鋸葉を描いた。緑青の尽きる茎の頭には、薄い弁を掌程の大さに描た。茎を弾けば、ひらひらと落つるばかりに軽く描た。吉野紙を縮まして幾重の襞を、絞りに畳み込んだ様に描いた。色は赤に描いた。紫に描いた。凡てが銀の中から生える。銀の中に咲く。落つるも銀の中と思わせる程に描いた。———花は虞美人草である。落款は抱一である。
夏目漱石『虞美人草』,新潮文庫,1951年,380頁
これは、藤尾の亡骸を描いた場面の一部です。
藤尾の部屋に置かれた逆さ屏風(仏教における死後の儀式の一つで、故人の枕元に屏風を逆さまに立てかけること)に描かれている花が虞美人草です。
実際に花が咲いているわけではなく、屏風の絵として描写され、最終章手前まで虞美人草の花の名は登場しません。
虞美人草という花の名前がタイトルに用いられた理由としては、
美しい女性の死=藤尾の死という悲劇
を読者に暗示するためということが考えられます。
この理由について考察をしていきたいと思います。
まず、漱石が虞美人草の花をタイトルに選んだ由来として、漱石自身が記した『虞美人草』予告の中に関連する記述があります。
昨夜豊隆子と森川町を散歩して草花を二鉢買った。植木屋に何と云ふ花かと聞いて見たら虞美人草だと云ふ。折柄小説の題に窮して、豫告の時期に遅れるのを氣の毒に思つて居つたので、好加減ながら、つい花の名を拜借して巻頭に冠らす事にした。
純白と、深紅と濃き紫のかたまりが逝く春の宵の灯影に、幾重の花瓣を皺苦茶に畳んで、亂れながらに、鋸を欺く粗き葉の盡くる頭に、重きに過ぎる朶々の冠を擡ぐる風情は、艷とは云へ、一種、妖冶な感じがある。余の小説が此花と同じ趣を具ふるかは、作り上げて見なければ余と雖も判じがたい。
夏目漱石,「虞美人草」豫告,『漱石全集 第20巻(別冊)』,漱石全集刊行会,1929年,277頁
漱石は、偶然目についた虞美人草の花に妖艶な美しさを感じて、小説のタイトルに選んだということを述べています。
では、妖艶な美しさを感じる花であれば、虞美人草以外でも何でも良かったのか?というと、これは否であると考えます。
これは、ヒナゲシがなぜ虞美人草という異名を持つか、その由来を見ることで説明できます。
虞美人草という異名は、中国の故事に由来しています。
秦の時代、楚国の武将・項羽には虞姫という美しい愛人がいました。
項羽が敵対する漢の国の武将・劉邦に敗れると、項羽の足手まといにならぬよう、虞姫は自害をします。
虞姫の死後、彼女の墓の側に赤いヒナゲシの花が咲いていたという伝説から、ヒナゲシは虞美人草と呼ばれるようになりました。
虞姫に関しては、故事成語「四面楚歌」の由来となる『史記』「項羽本紀」に名前が登場しており、「虞や虞や汝を如何せん」という一節を漢文の授業で習った憶えがあるという方もいらっしゃるかもしれません。
美しさを誇った藤尾の亡骸の側に描かれた虞美人草の花は、美しい虞姫の亡骸が眠る墓の側に咲いた虞美人草の光景をそのままなぞらえているように思います。
前項で引用した書簡の内容からも、漱石は早い時点で藤尾の死を構想しており、花の趣と作品の趣の一致を図るばかりではなく、藤尾の死を読者に暗示する伏線としてこの花をタイトルに選んだと考えられるでしょう。
ちなみに、この虞美人草の屏風について、作者は抱一であると説明されていますが、絵師・酒井抱一は江戸時代後期にかけて実際に存在した人物です。
漱石の作品では、『虞美人草』の他にも、『門』という作品で酒井抱一が描いた屏風が登場しています。
『虞美人草』に登場する虞美人草の花の屏風は、実際には酒井抱一が描いたという記録はなく、どうやら漱石が作った架空の屏風であるようです。
・二人の女の対比構造
『虞美人草』には、秀才の小野をめぐって、二人の若い女性が登場します。
女主人公とも呼ぶべき甲野藤尾、小野の許嫁である井上小夜子の二人です。
優れた美貌を持つ一方、プライドが強く、道義心に欠ける藤尾は、「美しき女」「クレオパトラ」「ハイカラ」「曲者」「あさはかな跳ね返り」などと作中で表現されています。
対する小夜子は「過去の女」と表現され、控えめな性格をした古風な女性として描かれています。
藤尾と小夜子は非常に対照的な女性として描かれており、その対比表現は作中至る所に見られます。
二人の対比が特に印象的に感じられるのが、次の二つの表現です。
- イメージカラー
- 例えられる花
作中では、藤尾は紫というカラーでしばしば結びつけられています。
初登場のシーンでは紫色の着物を着用し、「紫の女」と表現され、作品後半では紫色のリボンを身に着けています。
紫というカラーは、明治時代の流行色で、華族が用いる高貴な色とされていました。
ハイカラで、恋も何事も自分が上位に立ちたいと望む藤尾らしいカラーと言えるでしょう。
紫色の藤尾に対して、小夜子のイメージカラーは黄色です。
これは、小夜子の名前が初めて登場した第七章の場面から明らかです。
紫に驕るものは招く、黄に深く情濃きものは追う。東西の春は二百里の鉄路に連なるを、願の意図の一筋に、恋こそ誠なれと、髪に掛けたる丈長をふるわせながら、長き夜を縫うて走る。古き五年は夢である。(中略)小夜子はこの明らかなる夢を、春寒の懐に暖めつつ、黒く動く一条の車に載せて東に行く。
夏目漱石『虞美人草』,新潮文庫,1951年,104頁
上記引用は、孤堂先生と小夜子が、小野との縁談をまとめるため、京都から電車で上京するシーンの描写です。
小野を家に招いてはその心を誑かしていく藤尾、五年間想い続けていた小野を追って東京へ向かう小夜子が、それぞれ紫・黄という色で示されています。
小夜子が次に登場する第九章の冒頭表現にも注目したいと思います。
真葛が原に女郎花が咲いた。すらすらと薄を抜けて、悔ある高き身に、秋風を品よく避けて通す心細さを、秋は時雨て冬になる。茶に、黒に、ちりちりに降る霜に、冬は果てしなく続くなかに、細い命を朝夕に頼み少なく繋なぐ。冬は五年の長きを厭わず。淋しき花は寒い夜を抜け出でて、紅緑に貧を知らぬ春の天下に紛れ込んだ。地に空に春風のわたる程は物みな燃え立って富貴に色づくを、ひそやかなる黄を、一本の細き末に頂て、住むまじき世に肩身狭く憚かりの呼吸を吹く様である。
夏目漱石『虞美人草』,新潮文庫,1951年,104頁
「真葛が原」は現在の京都の円山公園の一部で、「五年」は小夜子が小野を想い続けてきた期間であることから、女郎花は小夜子の暗喩です。
秋の七草の一つとしても知られる女郎花(オミナエシ)は、「思い草」という異名を持ち、黄色い小さな花をつけます。
一説によると、読みの「エシ」は「圧し(へし)」に由来しており、花の美しさは美女を圧倒するという意味だとする見解もあるようです。
小夜子が小野を想い続けていることや、最終的に小野の未来の妻の座を手に入れる結果を踏まえると、女郎花はこれ以上ない程小夜子にぴったりの花だと思います。
第九章の女郎花の描写を通して、小夜子のイメージの黄色が再度強調されるわけですが、色相環で見ると、黄色の反対色こそが紫色です。
色相環には、マンセル色相環とPCCS色相環があり、マンセル色相環の創案となったアメリカの画家アルバート・マンセルの著書は1905年に発表されていますから、漱石がこれを知っていたとすれば(※『虞美人草』は西暦1907年の執筆)、紫・黄の二つのカラーは、藤尾と小夜子という対称的な二人を強調するために、明確な意図・狙いをもって用いられたと言うことができるでしょう。
また小夜子は、前述の女郎花の他に、甲野欽吾の台詞の中で鷺草や菫にも例えられています。
花言葉はそれぞれ、女郎花が「親切、美人」、鷺草が「清純、繊細、夢でもあなたを想う」、菫が「謙虚、誠実」です。
いずれの植物も、日本・アジア原産の野草で、小さくて可憐な花をつけるイメージがあります。
作中では、藤尾が花に例えられている明確な描写はありませんが、小夜子と話している小野が藤尾を思い出すシーンで、薔薇の香という表現が登場します。
———粧は鏡に向って凝らす、玻璃瓶裏に薔薇の香を浮かして、軽く雲鬟を浸し去る時、琥珀の櫛は条々の翠を解く。———小野さんはすぐ藤尾の事を思い出した。
夏目漱石『虞美人草』,新潮文庫,1951年,130頁
薔薇は美しい花を咲かせますが、棘があります。
西洋原産の庭木で、香りが強く、大輪の花を咲かせる品種も少なくありません。
薔薇の西洋的で派手なイメージは、女郎花・鷺草・菫などの野草とは非常に対称的です。
色と花の表現は、藤尾と小夜子の対比構造を表す大きな要素であると考えられるでしょう。
なお、ここでは色と花の表現に注目しましたが、
- 着物の柄や着こなし:藤尾は派手でハイカラな着物⇔小夜子はありきたりの柄の着物
- 体格の違い:高い背の藤尾⇔小野の背中に隠れられるほど小さい小夜子
など細かな部分に至るまで、藤尾と小夜子は徹底的に対称的な存在として描かれています。
これらの対比構造の徹底ぶりは、『虞美人草』という作品が、いかに丁寧に練られ、緻密に組み立てられていったかを示す一つの証拠とも言えるでしょう。
『虞美人草』ー感想
・『虞美人草』は駄作か?
漱石の『虞美人草』は、職業作家デビュー後初の作品ということもあって、連載開始前からかなりの注目を集めていたそうです。
予告文が出るや否や、大手百貨店などが虞美人草浴衣、虞美人草指環なるものを次々発売したことからも、相当な期待値であったことが窺えます。
解説中で触れたとおり、漱石の『虞美人草』に向けた気合も並々ではなく、『虞美人草』は漱石の作家人生史上一二を争う名作になったのかと思いきや、なんと数年後には漱石本人がこれを出来栄えがよくないとして否定しています。
【大正2年11月21日 高原操宛て書簡より引用】
偖御申越の小生著翻譯の件光榮の至には存じ候へども愚存一通り河田君並びにエ夫人へ申述候、御指名の虞美人草なるものは第一に日本の代表的作者に無之第二に小六づかしくて到底外國語には譯せ不申、第三に該著作は小生の尤も興味なきもの第四に出来榮よろしからざるものに有之。
夏目漱石,『漱石全集 第十七巻 續書簡集』,漱石全集刊行会,1937年,304頁
がちがちに固めた登場人物の設定や、飾りの多い文章、分かりやすい勧善懲悪的内容が、ともすれば時代遅れの小説に見て取れ、否定的態度に繋がったのではないでしょうか。
実際、漱石が朝日新聞社に入社後、第二作目として執筆した『坑夫』は、実在の青年の経験を淡々と綴っていくドキュメンタリー的作品となっており、まるで演劇を見ているかのような『虞美人草』とは全く別の手法が試みられています。
私個人としては、好きな漱石作品ランキングをつけるとすれば、『虞美人草』はかなり上位に入る作品です。
美しい文章表現や、四家族の人間模様が絡みあっていく展開の面白さはさることながら、『虞美人草』にはその後の漱石の代表作にも繋がっていくエッセンスが多く見られ、漱石の世界観や作品テーマの変遷を考えていく上でも興味深い作品だと感じています。
「出来榮よろしからざるもの」か否か、是非一度読んで確かめてみてほしい作品です。
以上、夏目漱石『虞美人草』のあらすじ・解説・感想でした。
【参考】
・夏目漱石,「入社の辞」,青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/2673_6500.html
・夏目漱石,『漱石全集』は国立国会図書館デジタルコレクションを参照
https://www.dl.ndl.go.jp