『吾輩は猫である』の紹介
『吾輩は猫である』は、夏目漱石の処女作で、明治38年に発表された長編小説です。
読んだことがない方も、「吾輩は猫である。名前はまだ無い」という書き出しはどこかで耳にしたことがあるかもしれません。
猫の「吾輩」の視点を通して、飼い主の珍野一家や、そこに集まる人々の様子を風刺的且つ滑稽に描いた作品です。
ここでは、そんな『吾輩は猫である』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『吾輩は猫である』ーあらすじ
生まれて間もなく人間に捨てられ、彷徨っていた一匹の猫は、中学の英語教師・珍野苦沙弥(ちんのくしゃみ)邸へ迷い込み、そこで飼われるようになります。
「吾輩」と自称する猫は、名前をつけられることもなく、珍野家で無名の猫として生涯を過ごすことを決意します。
偏屈で胃弱でノイローゼ気味の苦沙弥のもとには、友人の美学者・迷亭、元教え子の理学士・水島寒月、寒月の友人で新体詩人・越智東風など、多くの珍客が出入りします。
「吾輩」は珍野一家や、出入りする客人達を観察し、日々の出来事や人間模様を記録していきます。
「吾輩」がこの世に生まれて二年程経つ頃、苦沙弥の二人の元教え子の結婚が決まり、苦沙弥や客人達は前祝いのビールを飲みながら盛り上がります。
やがて宴会は終わり、「吾輩」は、飲み残されていたビールを舐めて酔っ払い、水甕に落ちてしまいます。
どうやっても出られないことを悟った「吾輩」は、自然に任せて抵抗しないことにします。
「吾輩」は念仏を唱えて溺死します。
『吾輩は猫である』ー概要
主人公 | 「吾輩」:珍野家で飼われている雄猫 |
重要人物 | 珍野苦沙弥:「吾輩」の飼い主 珍野一家:苦沙弥の妻、三人の娘、下女 珍野家の客人達:苦沙弥の友人の美学者・迷亭、苦沙弥の元教え子・水島寒月ら |
主な舞台 | 珍野苦沙弥邸 ※苦沙弥は漱石自身がモデルになっており、『吾輩は猫である』の舞台のモデルは漱石の自宅だと考えられます。当時の漱石邸は、東京都本郷区駒込千駄木町(現在の文京区向丘)にありました。 |
時代背景 | 明治時代 ※作中に「征露の第二年目」という記述があり、日露戦争の二年目を指しています。日露戦争は明治37年に開戦しているので、『吾輩は猫である』の時代設定は作品発表年と同じ明治38年から、「吾輩」が溺死するまでの約二年間の話だと推察できます。 |
作者 | 夏目漱石 |
『吾輩は猫である』―解説(考察)
・作品成立の経緯
『吾輩は猫である』を一言でまとめると、猫視点の人間観察記です。
今でこそ、動物視点の小説は珍しくありませんが、『吾輩が猫である』が執筆された当時の日本では、かなり革新的な小説であったと思われます。
そして、作品の主題・テーマ、いわゆる、作者が作品を通して読者に伝えたかったことは何か?という問いを考えた時、『吾輩は猫である』に関しては、作品を通して一貫する主題は存在しないと考えられます。
シンプルに、猫視点の人間観察の中で描かれる人間模様や談話を楽しむべき作品であり、何らかの作者のメッセージを内包する作品とは本質的に異なります。
この理由としては、作品成立の経緯が関係していると考えられます。
作者夏目漱石の経歴と合わせて、考察していきます。
以下に、『吾輩は猫である』発表までの作者略年譜をまとめました。
年 | できごと |
慶応3年(0歳) | 現在の東京都新宿区喜久井町で夏目家の五男として生まれる。本名・夏目金之助。 |
明治元年(1歳) | 塩原家の養子となる。 |
明治9年(9歳) | 義父母の離縁により生家に戻る。 |
明治16年(16歳) | 神田駿河台の成立学舎に入学、英語を学ぶ。 |
明治17年(17歳) | 大学予備門予科入学。(明治19年に第一高等中学校と改称) |
明治21年(21歳) | 第一高等中学校予科卒業。英文学専攻を決意し、本科第一部入学。 |
明治22年(22歳) | 正岡子規に出会う。子規の詩文集を漢文で批評し、初めて漱石の号を用いる。 |
明治23年(23歳) | 第一高等中学校本科卒業。帝国大学文科大学英文科入学。 |
明治25年(25歳) | 東京専門学校講師就任。8月、正岡子規の家を訪ねて、高浜虚子と出会う。 |
明治26年(26歳) | 文科大学英文科第二回卒業。大学院に入学。東京高等師範学校英語教師に就任。 |
明治28年(28歳) | 愛媛県尋常中学校教諭に就任。12月に帰京し、中根鏡子と見合い婚約。 |
明治29年(29歳) | 第五高等学校講師に就任し、熊本へ赴任。 |
明治30年(30歳) | 俳壇でも活躍し、名声を上げるようになる。 |
明治32年(32歳) | 長女筆子誕生。 |
明治33年(33歳) | 文部省に英語研究のため二年間の英国留学を命じられ、単身でロンドンへ出発。 |
明治34年(34歳) | 次女恒子誕生。この頃から、孤独感などから神経衰弱に陥る。 |
明治36年(36歳) | 帰国。第一高等学校の講師に就任。同時に、小泉八雲の後任として東京帝国大学英文科講師を兼任するようになるが、八雲の詩的な講義に対し、漱石の分析的な講義は学生に不評となった。10月、三女栄子誕生。再び神経衰弱を患うようになる。 |
明治37年(37歳) | 明治大学講師を兼任。高浜虚子から神経衰弱の治療の一環として創作を勧められ、『吾輩は猫である』を執筆。子規門下の文章会で発表され、好評を博す。 |
明治38年(38歳) | 『吾輩は猫である』を雑誌「ホトトギス」に発表。一回の読み切りとして掲載されたところ、好評を博し、続編を執筆。翌年の明治39年8月まで全11回連載され、完結 |
『吾輩は猫である』は、漱石の作品の中でもトップレベルの長編小説ですが、元々は読み切りの短編でした。
執筆のきっかけも、神経衰弱の治療の一環として高浜虚子が勧めたことによるもので、他作品とは成立経緯の毛色が違います。
『吾輩は猫である』は、執筆開始時点では、最終話の結末や、最終話まで一貫するテーマが用意されていたわけではないと考えられるでしょう。
言い換えれば、『吾輩は猫である』は読者に読まれながら、徐々に形を成していった作品なのです。
例として、第二話の冒頭文を以下に抜粋します。
吾輩は新年来多少有名になったので、猫ながらちょっと鼻が高く感ぜらるるのはありがたい。
夏目石,『吾輩は猫である』,宝島社,23頁
この第二話冒頭文は、「ホトトギス」で連載された第一話が好評を博したことを受けて、
第二話が執筆されたということを示しています。
読者の反響を受けて、作品が出来上がっていったという事実を、第二話冒頭文からも窺い知ることができるのです。
ちなみに余談として、『吾輩は猫である』執筆のきっかけとなった高浜虚子は、苦沙弥と客人の会話中に名前が登場しています。
作者夏目漱石も「送籍」という漢字で名前が登場します。
このように、作品成立に関わった人物とのリンク・パロディも、『吾輩は猫である』を読む上で面白さを感じられるポイントの一つでしょう。
・登場人物のモデル
『吾輩は猫である』には、主人公の「吾輩」や、「吾輩」の主人・苦沙弥を始めとして、多くの登場人物(登場動物?)が描かれています。
そして、その中には、実際にモデルがいた者もいます。
ここでは、主人公「吾輩」と、その主人・珍野苦沙弥について考察を進めていきます。
結論を言うと、
- 珍野苦沙弥 = 夏目漱石
- 「吾輩」 = 夏目漱石が実際に飼っていた黒猫
がモデルになっています。
・珍野苦沙弥のモデルについて
まず、珍野苦沙弥=夏目漱石について、説明します。
作中で描かれる珍野苦沙弥の特徴を、以下にいくつか挙げてみました。
珍野苦沙弥の人物像
- 中学校の英語教師
- 既婚者で、三人の娘がいる
- 胃弱でノイローゼ気味
- 偏屈で頑固な性格
- 喫煙者で、酒はあまり飲めない
前述の略年譜からも分かるように、漱石は英語教師を勤めていました。
漱石には、『吾輩は猫である』発表時点では娘が三人います。
神経衰弱を患っており、酷い時には授業中でも癇癪を起こしていました。
後の談話の中で、愛煙家であり、下戸であることも明かしています。
珍野苦沙弥=夏目漱石がモデルであることは、自明でしょう。
また、『吾輩は猫である』の特徴の一つとして、登場人物のユニークな名前が挙げられると思います。
珍野苦沙弥という名前も、他に類を見ない、インパクトある珍ネームと言えるでしょう。
同じく、夏目漱石というペンネームも、ユニークかつ珍しいものだと思います。
この「漱石」というペンネームは、中国の故事「漱石枕流」に由来しています。
※「枕石漱石」とは
中国の詩に「枕石漱水」(流れにくちすすぎ、石に枕す)という言葉があります。
俗世間から離れて、川の流れで口をすすぎ、石を枕として眠るような隠居生活を送りたい、という意味の詩です。
中国の晋の孫楚という人物が、この詩を用いて友人に隠居したい旨を伝える時、間違えて「漱石枕流」と言ってしまいます。
この語順の場合、「石で口をすすぎ、川の流れを枕としたい」という意味になりますが、孫楚は間違いを認めず、「石で口をすすぐのは歯を磨くためで、川の流れを枕にするのは耳の中を洗うため」と負け惜しみを言います。
このことから「漱石枕流」は「負け惜しみが強いこと、偏屈で頑固なこと」などの例えとして知られています。
漱石のペンネームからも、苦沙弥の偏屈で頑固な性格との関連を見ることができます。
・「吾輩」のモデルについて
続いて、「吾輩」のモデルについて説明します。
漱石が37歳の時、野良の黒猫が夏目邸に迷い込んできました。
漱石の妻は猫が嫌いで、最初はこの黒猫を追い出そうとしたようですが、猫に気づいた漱石が「置いてやったらいいじゃないか」ということを言って、夏目家で飼われるようになったそうです。
「吾輩」が珍野家で飼われるようになった経緯は、そっくりそのまま漱石の実体験であったと言えるでしょう。
この黒猫も、名前はなかったようですが、明治41年に猫が死んだ時には猫の死亡通知が親しい人たちに向けて出されたり、漱石の書斎裏に猫の墓が作られたり、死後も大事に思われていたようです。
ちなみにこの黒猫が死んだのは「吾輩」の死よりも後の話です。
病気か老いか死因は判然としませんが、少なくともビールに酔って溺死するような死に方はしていません。
黒猫の死の直前の様子、死後の弔いについては、明治42年から朝日新聞にて掲載された
『永日小品』の「猫の墓」でも触れられています。
苦沙弥と「吾輩」のモデルについての説明は以上になりますが、『吾輩は猫である』には、モデルが実在する登場人物達が他にも複数おり、漱石の実際の交友関係などと照らし合わせて読んでいくのも面白いかもしれません。
・変化する「吾輩」
「吾輩」が猫であるということは揺るぎない事柄ですが、「吾輩」の人物像(動物像?)は作中で徐々に変化をしています。
具体的には、次の変化が「吾輩」に起っています。
- 「吾輩」の交流関係の変化
- 「吾輩」の人間に対する態度・認識の変化
まず、①について考察をします。
『吾輩は猫である』は、「吾輩」の人間観察を主とする構成ですが、作品の始めの方では「吾輩」以外の猫も登場しています。
「吾輩」が恋心を抱く隣宅の雌猫・三毛子、車屋で飼われている乱暴者の雄猫・黒など、猫同士の交流が第一話、第二話には描かれています。
ところが第三話以降、他の猫は殆ど作品に登場しなくなります。(※三毛子に至っては、第二話で風邪をこじらせて死んでしまいます)
「吾輩」が身を置く世界の比重が、猫社会から人間社会に移ってきていることが分かります。
また、②について考察を進めます。
第一話では、「吾輩」は人間や人間社会に対して常に批判的な目を向けており、猫対人間の構造が見られます。
以下に、第一話からいくつか抜粋します。
・吾輩は人間と同居して彼等を観察すればするほど、彼等は我儘なものだと断言せざるを得ないようになった。
夏目漱石,『吾輩は猫である』,宝島社,9頁
・いくら人間だって、そういつまでも栄える事もあるまい。まあ気を永く猫の時節を待つがよかろう。
夏目漱石,『吾輩は猫である』,宝島社,10頁
・元来人間というものは自己の力量に慢じてみんな増長している。少し人間より強いものが出て来て虐めてやらなくてはこの先どこまで増長するか分らない。
夏目漱石,『吾輩は猫である』,宝島社,13頁
「吾輩」にとって、人間とは極めて理解のできない存在であって、常に人間を見下したような態度をとっています。
ところが、この「吾輩」の態度、猫対人間の構造は、話数が進むとともに軟化していきます。
最初に変化がはっきりと分かるのが、第三話です。
三毛子は死ぬ。
黒は相手にならず、いささか寂寞の感はあるが、幸い人間に知己が出来たのでさほど退屈とも思わぬ。(中略)
だんだん人間から同情を寄せらるるに従って、己が猫である事はようやく忘却してくる。
猫よりはいつの間にか人間の方へ接近して来たような心持になって、同族を糾合して二本足の先生と雌雄を決しようなどと云う量見は昨今のところ毛頭ない。
それのみか折々は吾輩もまた人間世界の一人だと思う折さえあるくらいに進化したのはたのもしい。夏目漱石,『吾輩は猫である』,宝島社,85頁
猫対人間の姿勢をとっていた「吾輩」が、人間に接近し、人間世界の一員と思うようにさえなるのです。
①、②の変化は、「吾輩」が猫から人間のスタンスに近づいているということを示しています。
「吾輩」が人間のスタンスに近づいてきていることは、「吾輩」の死に対する考え方、心持にも表れています。
【第二話抜粋、三毛子の死を受けて】
死ぬと云う事はどんなものか、まだ経験した事がないから好きとも嫌いとも云えないが、先日あまり寒いので火消壺の中へもぐり込んでいたら、下女が吾輩がいるのも知らんで上から蓋をした事があった。
その時の苦しさは考えても恐しくなるほどであった。(中略)
(中略)、あの苦しみを受けなくては死ぬ事が出来ないのなら、誰のためでも死にたくはない。夏目漱石,『吾輩は猫である』,宝島社,82頁
【第十一話抜粋、「吾輩」が水甕に落ちて溺死する場面より】
(中略)前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。
次第に楽になってくる。(中略)
日月を切り落し、天地を粉韲して不可思議の太平に入る。
吾輩は死ぬ。
死んでこの太平を得る。
太平は死ななければ得られぬ。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。
ありがたいありがたい。夏目漱石,『吾輩は猫である』,宝島社,517頁
第二話では、「吾輩」は死に対して恐怖心を抱き、死にたくないと思っています。
ところが最終話では、一応事故死であるものの、「吾輩」はいっそ死んで安らぎを得ようと、死に抗うこともやめて、念仏を唱え始める始末です。
猫という動物の本能として、それでいいのかと少々突っ込みたくなる終わり方です。
人間や人間社会の風刺を徹底するため、猫を語り手に置いた『吾輩は猫である』は、猫が人間に近づき、風刺が不徹底になってきたところで、語り手の死という形を以て終幕するのです。
『吾輩は猫である』ー感想
・ユーモア溢れる作品
私が初めて出会った漱石の小説は、高校の授業がきっかけで読んだ『こゝろ』でした。
『こゝろ』を読んで、夏目漱石は暗くて重苦しい小説を書く旧千円札の人、というイメージを長らく抱いていました。
ですから、『吾輩は猫である』を初めて読んだ時は、かなりの衝撃を受けました。
風刺的でユーモアたっぷりの内容に、それまで抱いていた漱石のイメージが崩壊したのを覚えています。
『吾輩は猫である』は、基本的には滑稽文で、くすっと笑える内容ですが、時々胸に刺さるような言葉があるのも好きなところです。
第六話で、「吾輩」が人間を次のように語る場面があります。
第一、足が四本あるのに二本しか使わないと云うのから贅沢だ。
四本であるけばそれだけはかも行く訳だのに、いつでも二本ですまして、残る二本は到来の棒鱈のように手持無沙汰にぶら下げているのは馬鹿馬鹿しい。
これで見ると人間はよほど猫より閑なもので退屈のあまりかようないたずらを考案して楽んでいるものと察せられる。
ただおかしいのはこの閑人がよると障わると多忙だ多忙だと触れ廻わるのみならず、その顔色がいかにも多忙らしい、わるくすると多忙に食い殺されはしまいかと思われるほどこせついている。
彼等のあるものは吾輩を見て時々あんなになったら気楽でよかろうなどと云うが、気楽でよければなるが好い。
そんなにこせこせしてくれと誰も頼んだ訳でもなかろう。夏目漱石,『吾輩は猫である』,宝島社,210~211頁
日々の忙しさに余裕をなくしがちの現代人にとっても、仰る通りと言いたくなるような表現です。
人間の愚かさや馬鹿馬鹿しさを皮肉る猫の気楽さ・気ままさは、時に羨ましくも思え、とてもユーモアを感じます。
・漱石の個人主義論
『吾輩は猫である』は、章ごとに何らかの談義や、事件が描かれています。
最終章となる第十一話では、寒月らの結婚に絡んで、苦沙弥、迷亭らで夫婦論が話し合われます。
この会話の中で、近代個人主義に関して、迷亭が以下のように発言しています。
驚ろくなかれ、結婚の不可能。訳はこうさ。
前申す通り今の世は個性中心の世である。
一家を主人が代表し、一郡を代官が代表し、一国を領主が代表した時分には、代表者以外の人間には人格はまるでなかった。(中略)
それががらりと変ると、あらゆる生存者がことごとく個性を主張し出して、だれを見ても君は君、僕は僕だよと云わぬばかりの風をするようになる。(中略)
それだけ個人が強くなった。
個人が平等に強くなったから、個人が平等に弱くなった訳になる。夏目漱石,『吾輩は猫である』,宝島社,497頁
漱石の近代個人主義に対する考えは、『吾輩は猫である』以降の作品や講演の中にも繰り返し見ることができます。
『吾輩は猫である』は、漱石の処女作でありますが、この頃から既に、作家夏目漱石の根幹を成す考え方は確立されつつあったと言えるでしょう。
最後になりますが、『吾輩は猫である』が単行本化する際、漱石が寄せた自序の一部を載せておきます。
此書は趣向もなく、構造もなく、尾頭の心元なき海鼠の様な文章であるから、たとい此一巻で消えてなくなった所で一向差し支えはない。(中略)
然し将来忙中に閑を偸んで硯の塵を吹く機会があれば再び稿を続ぐ積である。
猫が生きて居る間は――猫が丈夫で居る間は――猫が気が向くときは――余も亦筆を執らねばらぬ。夏目漱石,『吾輩は猫である』上篇自序,青空文庫
漱石がなまこのような文章と言うように、『吾輩は猫である』は難しく考えず、自由に読んで楽しめる小説です。
読者もまた、気が向くまま、思い思いに読んでいいというメッセージを、自序からも感じ取れるように思います。
以上、『吾輩は猫である』のあらすじと考察と感想でした。
【参考URL】
夏目漱石,『吾輩は猫である』上篇自序,青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/47148_32217.html