『ノートルダム・ド・パリ』あらすじ&アニメとの違いまでを解説!

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『ノートルダム・ド・パリ』あらすじ&アニメとの違いまでを解説!

『ノートルダム・ド・パリ』の紹介

『ノートルダム・ド・パリ』は、フランスで国民的作家と称されるヴィクトル・ユゴーの作品です。

1831年に出版された本作は、バレエや舞台作品化、実写映画化されたり、ディズニーでも映画化されたりと、現代まで世界中の人々に愛されています。

しかし一見華やかな本作は、ドロドロした人間関係をベースに、人間のあらゆる欲望、虚栄、傲慢などが表れた、胃もたれしそうな内容なのです。

ここでは、そんな『ノートルダム・ド・パリ』について、あらすじ・解説・感想までをまとめました。

『ノートルダム・ド・パリ』-あらすじ

ノートルダム大聖堂の前に捨てられていた醜い赤ん坊が、大聖堂の助司祭・フロロに拾われます。

彼は赤ん坊にカジモドと名づけ、大聖堂から外へ出すことなく育てました。

カジモドは成長し、大聖堂の鐘つきとなります。

パリへ華やかなジプシーの踊り子・エスメラルダがやってきます。

聖職者であるフロロは彼女に心を奪われますが、信仰と欲情の狭間で葛藤することになりました。

ついにはカジモドを使って、彼女を誘拐しようとしてしまいます。

しかしカジモドは衛兵フェビュスに捕らえられ、エスメラルダは自身を助けてくれた彼に恋愛感情を抱きます。

フェビュスは婚約者がいるにも関わらず、彼女と関係を持ちます。

捕らえられてしまったカジモドは広場でさらし者にされます。

しかし心優しいエスメラルダは彼を庇い、そのことをきっかけにカジモドもまた、彼女に恋をしてしまうのです。

フロロはというと、エスメラルダをものにしてしまったフェビュスに嫉妬を募らせ、彼らの逢い引きのさなかに彼を刺して逃亡しました。

エスメラルダにはフェビュス殺害未遂の容疑がかけられ、魔女裁判で死刑が宣告されました。

カジモドはそんなエスメラルダを救出して、大聖堂にかくまうことに成功します。

しかし彼のあまりの醜さに彼女は恐怖し、顔を見ることもできませんでした。

パリでは大暴動が起き、フロロは混乱を利用してエスメラルダを連れ出します。

彼は命を救うことと引き換えに愛人になるよう彼女に迫りますが、彼女はそれを拒みました。

彼女はジプシー嫌いのおこもり婆さん(修道女)・ギュデールのもとに逃げ込み、そこで自身の出生の秘密を知ります。

再会の感動に酔いしれる二人でしたが、それも束の間、結局彼女は衛兵に捕まってしまい、転倒したギュデールは死亡しました。

大聖堂の塔の上からそれを見届けていたフロロもまた、カジモドが突き落として殺してしまいました。

数年後、エスメラルダの遺骨が掘り起こされたとき、そこには異常な骨格の男の遺骨が寄り添っていました。

『ノートルダム・ド・パリ』-概要

舞台 舞台:15世紀(1482年)のパリ
登場人物
カジモド ノートルダム大聖堂の鐘つきをしている男。背中と目の上にこぶがある。フロロに拾われ大聖堂から出されずに養育される。養父であるフロロを慕っている20歳。
フロロ カジモドの養父。司教補佐。ひたすら学問と信仰に励んできた36歳。
エスメラルダ ジプシーの娘。大変美しく、作中では3人の男(カジモド、フロロ、フェビュス)に想いを寄せられる。山羊のジャリを連れている。16歳。
フェビュス 王室射手隊の隊長。美男で婚約者がいる。女癖が悪く、エスメラルダにも手を出す。
ギュデュール 塔にこもっている老女。幼い娘をジプシーにさらわれて以降、彼らを毛嫌いしている。

『ノートルダム・ド・パリ』-解説(考察)

ユゴーのパリ鳥瞰図

この作品は、ユゴーの並々ならぬ建築愛、都市愛が随所に表れています。

俯瞰的な視点やズーム、クローズアップといった視点移動を駆使し、まるで映画のように、情景を描写しているのです。

本作の第3編2章では、大聖堂からのパリの眺めをじっくりと描いています。

鐘楼の厚い壁を垂直に貫いている暗いらせん階段の中を長いあいだ手探りでのぼっていったあげく、日の光と大気をいっぱいに浴びた二つの塔のどちらかの頂に出たとたん、目の前一面にぱっと広がる光景は、まさにみごとな一枚の絵であった。

『ノートル=ダム・ド・パリ(上)』,ユゴー作,辻昶・松下和則訳,岩波文庫,P234

十五世紀当時のパリは、はっきりと別々になった三つの区に分かれていて、それぞれが独自の外観や、特性や、風俗や、慣習や、特権や、歴史を持っていた。中の島と大学区と市街区である。(中略)中の島には教会が、市街区には宮殿が、大学区には学校がいやというほどあった。

『ノートル=ダム・ド・パリ(上)』,ユゴー作,辻昶・松下和則訳,岩波文庫,P239-240

息を切らせながら塔の頂にのぼりついた人は、無数の屋根や、煙突や、通りや、橋や、広場や、尖塔や、鐘楼などが繰り広げられているのを見て、まず目のくらむような思いをするに違いない。しきたりどおりにつくられた切妻、とがった屋根、壁の角にぶらさがっているように見える尖塔、十一世紀時代の石造りの尖塔、十五世紀に建てられたスレート造りの方尖塔、天守閣の丸い裸の塔、教会の装飾のついた四角な塔、大きいのや、小さいのや、どっしりしたのや、かろやかなのが一度にどっと目をとらえるのだ。

『ノートル=ダム・ド・パリ(上)』,ユゴー作,辻昶・松下和則訳,岩波文庫,P244

ほんの一部を引用しただけでも、これだけパリについての説明がなされています。

19世紀に書かれた本作ですが、ユゴーは15世紀の街の様子を調査したうえで、この作品を書いていることが分かります。

塔の描写だけでこれほど種類を分け、それぞれの特徴を一言で表しつつ紹介しているところを見ると、作者の建築愛はすさまじいものだったようです。

19世紀の小説は、「神の視点」で描くという方法が流行していました。

完全な三人称、つまり物語を俯瞰する存在が、物語を語るのです。

しかし具体的に風景を描写するにあたって、このような方法をとった作家はいませんでした。

ヘリコプターもなかった時代に空からの景色、すなわち鳥観図を見事に文字表現し、映画もなかった時代にロングショットやズームを想起させる描写をしていたユゴーは、並々ならぬ想像力を持っていたのです。

フロロは残虐か?

あらすじをご覧になって、皆さんは、フロロをどんな人物としてとらえたでしょうか。

バレエやオペラ、映画では、残虐で自己中心的な悪役という解釈で描かれている場合が多くあります。

しかし、彼は10代の時、醜い捨て子だったカジモドを拾って養育しました。これは矛盾を感じざるを得ない点であると思います。

フロロはなぜ赤ん坊を、しかもよりによって非常に醜い、通りすがりの女性達が嘲笑しながら見捨てていた子供を拾ったのでしょうか。

彼には当時、まだ幼い弟がいました。ペストで両親を失って兄弟二人になってしまい、とにかく勉強して聖職者になり、弟を養ってやらなければならない、それがフロロの置かれていた状況でした。

彼は両親に見捨てられた赤ん坊に、自身の弟を重ねて見ていたに違いありません。

その時の彼は決して残虐な悪役ではなく、人間らしい温かい気持ちを持った青年でした。

カジモドは鐘つきをするようになってから、その大音響によって聴力を失いました。

孤独な生活が続く中、彼が慕うのは養父フロロだけでした。

一方真面目に学問に生きてきたフロロは、よりかたくなな人物となっていきました。

状況が少しでも違えば、もしかするとこの二人には、もっと違った関係性もあったのではないか。そう思わずにはいられません。

刑罰と救済

ユゴーは死刑廃止論者だったとされています。

『死刑囚最後の日』という作品では明確に死刑廃止を唱えました。

同作家の名作『レ・ミゼラブル』がフランス革命の激動を描いているのも、弱者への社会的な処罰が理不尽に行われているという怒りからでした。

カジモドがエスメラルダ誘拐に失敗して捕えられ、さらし者にされた場面で出てくるグレーヴ広場は、現在パリの市庁舎がある場所でもあります。

当時の刑罰、特に死刑や作中の晒し者などは、民衆の娯楽でもありました。

裕福な人々はわざわざ広場の周りの部屋を借りて飲み食いしながらそれを眺め、庶民は処刑台を取り巻いて見物していたのです。

こうした場所はグレーヴ広場だけにとどまらず、あちこちにあったといいます。

ここで鞭うたれ、人々の嘲笑を浴びるカジモドですが、エスメラルダは彼が水を求めているのに気づき、彼のもとへ駆け寄って水筒の中身を与えました。

これにはさすがの群衆も拍手喝采します。

弱者を容赦なく愚弄する群衆は、一方で流されやすい反応を見せるのです。

ユゴーはなぜ、カジモドに公開刑罰を受けさせ、エスメラルダとの運命的な場面をここに置いたのか。

もちろん物語上の展開のためではありますが、一方で、晒し刑の残虐さや大衆心理の愚かさを際立たせる意図があったのではないかとも考えられます。

激しい苦しみを主人公に味わわせること、そしてそれを重要な場面におくことで、読者は自然と処刑の広場の情景を鮮明に想像することになります。

そして、カジモドがエスメラルダを誘拐しようとしたのはフロロに命じられたためであり、その意味で、カジモド自身が刑罰を受けるのは理不尽であるというのは自明です。

作者は中世からフランス革命を経た後、19世紀という時代に、自国の歴史を振り返って、その随所で起きた処刑の残虐性に心を痛めたのでしょう。

弱者を痛めつける社会の制度や、簡単に煽動されてしまう群衆へのアンチテーゼが、この場面に込められているのではないでしょうか。

フェビュスのバッドエンド

婚約者を裏切ってエスメラルダと関係を持ち、フロロに刺されたフェビュスは、物語の最後に婚約者と無事結婚します。

登場人物のほとんどが死亡した本作において、彼だけが一応救われたかのように見えますが、実際はどうだったのでしょうか。

フェビュスはとにかく女遊びの激しい人物でした。

自身の外見が好青年であることを利用して奔放に生きている彼に、婚約者は不安を覚えます。

婚約者の名前はフルール・ド・リと言いますが、これは百合の花を表すフランス語です。

その名の通り純真で、裕福な家庭で大切に育てられてきた女性です。

まさに世間知らずのお嬢様である彼女のことを、フェビュスはつまらない女だと感じていました。

遊びたい彼は彼女の家を訪問するのも気乗りせず、フルールはエスメラルダに激しい嫉妬を覚えるのです。

ある意味で、この結末はフルールの一人勝ちと言えるかもしれません。

フェビュスは家庭の夫という立場に囚われることとなり、浮気相手だったエスメラルダが死亡して物語が終わるからです。

フェビュスもまた、遊びほうけてきた青春時代の終わりという一種の死をもって、この作品のバッドエンドに加わることになったのです。

フェビュス・ド・シャトーベールもまた悲劇的な最期をとげた。結婚したのである。

『ノートル=ダム・ド・パリ(下)』,ユゴー作,辻昶・松下和則訳,岩波文庫,p.550

『ノートルダム・ド・パリ』-感想

改変されていった作品ー原作とアニメ『ノートルダムの鐘』などの違い

本作は冒頭でも述べたとおり、様々な形で改案されてきました。

ディズニー映画ではフェビュスとエスメラルダが結ばれるハッピーエンドになります。

その他の作品でもフロロが明確な悪役として描かれたり、ギュデュールの存在そのものが全く描かれなかったりと、かなりの改変が行われている場合がほとんどです。

実際、あまりに悲劇的で救いのない本作は、登場人物がほぼ全員バッドエンドを迎えていると言っても過言ではありません。

また、そういった悲劇が一人一人丁寧に描かれていることをふまえると、本作の要素全てを脚本化・映像化することは非常に困難であると思われます。

そのため、作品名を知っていていずれかの改案作品を鑑賞したことがあっても、原作であるユゴーの作品を読むと、あまりの内容の重さに衝撃を受けることもあるでしょう。

しかし、そこにこそユゴーの作家としての並外れた力量が現れてもいるのです。

エスメラルダは悲しい過去を背負いつつ、優しく強い女性に成長しました。

悪役とされがちなフロロも場合によっては深い慈愛を持ち合わせ、多くの葛藤を抱え、人間らしい感情と共に生きた人物でした。

原作の『ノートルダム・ド・パリ』を読むと、登場人物達の内面がより豊かに、鮮やかに読者の心をとらえます。

ユゴーは生き生きとした人々の姿を描き、一人一人の人物について、まるで彼らがそこにいるかのような深みを与えているのです。

長く重い大作ではありますが、読んでみてからもう一度改案作品を鑑賞すると、新しい視点でそれらを楽しめるのではないでしょうか。

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vanit

フランス文学を学んでいる学生です。生まれたときから本に触れて育ってきました。高校生の時から中原中也が大好きです。フランス文学を専攻したのも、もとはその趣味が高じたようなものでした。現在は様々な作品に魅了され、特に19世紀のフランス文学に強い関心を持っています。実際の社会情勢に影響を受けていたり、当時の人々の生活が垣間見えるような作品に惹かれます。読書の他には、映画鑑賞も大好きです。フランスではゴダール監督の映画を、日本のものでは市川崑監督の映画をよく観ています。世の中には本当に沢山の作品があり、その一つ一つに作者の思いが込められています。その一部を分かりやすく、魅力的に感じてもらえるような記事を書きたいです。