『居酒屋』の紹介
『居酒屋』は1877年に発表されたエミール・ゾラの小説です。
ゾラは19世紀後半に活躍したフランスの国民的作家の一人であり、自然主義小説の先駆者とされています。
ここでは、そんな彼の出世作である『居酒屋』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。
『居酒屋』―あらすじ
うら若い女性ジェルヴェーズは、息子二人と恋人のランティエと共にパリの古いホテルに仮住まいを得て暮らしていました。
ランティエは何も告げずに浮気相手の女と失踪し、金も持ち逃げしてしまいます。残されたジェルヴェーズは途方に暮れますが、クーポーという真面目な労働者と出会い、決して暴力は振るわず酒も飲まないと誓った彼と結婚することにします。
3年よく働いた彼らの間にはアンナという娘が生まれ、ジェルヴェーズは洗濯屋を開き、幸せな生活を手に入れました。
しかしある日、仕事中のクーポーが落下事故に遭って働けなくなってしまいます。この頃から彼は酒浸りになり、ジェルヴェーズの生活も次第に貧窮していくことになりました。
この家族にランティエが入り込んできて、奇妙な同居生活が始まることに。
アルコール依存症になって暴力を振るうようになってしまったクーポーと、そんな状況に耐えかねてついに酒に手を出したジェルヴェーズは、破滅の道を進みます。
クーポーは最後には精神を病んで狂死し、ジェルヴェーズは壮絶な狂気の末に衰弱死してしまうのです。
『居酒屋』―概要
主な舞台:フランス・パリ
時代背景:フランス第二帝政期(1852年~1870年)頃
作者:エミール・ゾラ
おもな登場人物 | 作品前半の様子 | 作品後半の様子 |
ジェルヴェーズ (主人公) |
田舎から出てきた洗濯女。生まれつき障害があり、片足を引きずっている。 ランティエに裏切られた後クーポーと結婚、洗濯屋を開いて人を雇うほど繁盛する。 |
貯金して開店した洗濯屋が潰れ、下働きに。戻ってきたランティエと関係を持つ。働かない夫に絶望して飲酒、売春を試みるも断念。夫の死後気が狂い、アパートの階段下の狭い空間で衰弱死。 |
クーポー | 真面目な屋根葺き職人。 ジェルヴェーズと結婚。 |
落下事故後、働かなくなる。アルコール依存症となり、ジェルヴェーズやアンナに暴力を振るうように。最後は病院で狂死。 |
ランティエ | ジェルヴェーズのもとから金を持って出奔。 | 帽子職人。ジェルヴェーズの洗濯屋に入り浸り、後に同居するようになる。 |
グージェ | ジェルヴェーズを慕う、硬派で腕の良い鍛冶職人。洗濯屋の開業資金を貸す。 | 絶望して売春しようとしたジェルヴェーズを保護し、食事を与える。 |
クーポー婆さん | クーポーの母で、ジェルヴェーズにとっては義母。ジェルヴェーズ夫妻と同居する。 | 死去。 |
ロリユ夫妻 | クーポーの姉夫婦で、ジェルヴェーズにとっては義姉兄。金鎖職人。ジェルヴェーズを良く思っていない。 | ジェルヴェーズの凄惨な死について、怠けた罰だと言いふらしている。 |
オーギュスト | ジェルヴェーズとランティエの息子。ゾラが後に発表する『制作』の主人公。 | |
エティエンヌ | ジェルヴェーズとランティエの息子。ゾラが後に発表する『ジェルミナル』の主人公。 | |
アンナ | クーポーとジェルヴェーズの娘。結婚3年目に誕生。 | 造花作りの仕事に就く。派手好きで遊び歩くようになり、後に家出する。ゾラが後に発表する『ナナ』の主人公。 |
バズージュ | 葬儀人夫。 | ジェルヴェーズに不吉な予兆を感じさせる。彼女の死後に棺桶を運ぶ。 |
『居酒屋』―解説(考察)
・批判にさらされた作品
『居酒屋』はゾラが執筆した『ルーゴン=マッカール叢書』という20作に及ぶシリーズの7作目にあたります。
出版当時、下層階級の生活をあまりに凄惨に描いているとして、特に中・上流階級の人々の批判にさらされました。しかし、作家はこう書き残しています。
労働者階級を描いたわたしの絵は、ことさらの陰影もぼかしもつけずに、描きたいと思った通りにわたしが描いたものです。(中略)わたしの作品は、党派的なものでもなければ、プロパガンダでもない。真実の作品なのです。
ゾラ『居酒屋』古賀照一訳,新潮文庫,あとがき,p.734
当時、文学が扱うテーマに労働者や下層階級は含まれていませんでした。ジェルヴェーズのような人々を主人公にすること自体、画期的な試みだったのです。
この作品には他にも、いくつかの仕掛けが隠れています。以下、そのほんの一部をご紹介します。
ゾラと「遺伝」論
『ルーゴン=マッカール叢書』のシリーズで一大テーマとして掲げられているのが「遺伝」です。
シリーズの主人公たちは、アルコール依存、虚弱体質、衝動的な性格などが「遺伝」する一族の人々です。ジェルヴェーズもその血を引く一人でした。
彼女は、幼少期にアルコール依存症の父親から暴力を受けていました。
自分が片足に障害を持っているのは、父親が妊娠中の母親に暴力を振るったのが原因だと考えてもいます。
そんな経緯から彼女は酒を嫌悪するのですが、夫が酒浸りになって生活がどんどん荒れていった中で、最後には飲酒してしまいます。
結局は運命から逃れられないという悲劇を、作家は冷酷なまでに描きだしました。
作者のエミール・ゾラは、作家であると同時にジャーナリストでもあり、いわゆる社会派の気質を持っていました。
そんな彼は、当時流行していた科学主義、実証主義の考え方に強い影響を受けます。
作品の中で、遺伝学・生理学の理論を応用してキャラクターを作り、実際の社会で彼らを行動させてみる「科学的実験」を行っているのです。
もって生まれた性質や体質に条件付けられている人間が、社会の中でどのように生きていくのか。
それを客観的に分析して描くというのがゾラのねらいでした。
「遺伝」した気質は常に人間を付け狙い、幸福な女性の人生をも破壊する力を持っている、それが本作の「実験」でゾラが出した答えの一つと言えるでしょう。
蒸留器という怪物
ジェルヴェーズの繁栄と破滅は、前者はシンデレラのようなサクセスストーリー、後者は積み上げてきたものが崩壊していく絶望の物語として捉えられます。
そんな二つの物語が切り替わる時、主人公の前に姿を現わすのが蒸留器でした。以下は夫となるクーポーとのデートの場面です。
銅器の鈍い光沢の蒸留器は炎ひとつあげず、陽気な影ひとつ見せず、ただひっそりと働き続けてアルコールの汗を緩慢で執拗な泉のように吹きだしていた。そのアルコールの汗は、この部屋を浸してからあふれ出て、郭外大通りの上に広がり、パリという巨大な穴じゅうをいっぱいに満たしてゆくこととなるなんて。ジェルヴェーズは戦慄を覚えて後退りした。
ゾラ『居酒屋』古賀照一訳,新潮文庫,p.76
続いては、商売も家族も上手くいかなくなって自棄になってきた彼女が、居酒屋を訪れた際の蒸留器の描写です。
彼女は、うしろにある、この酔っぱらいつくりの器械を横目で睨んだ。この大釜のような器械は、太った金物屋の女房の腹のようにまん丸で、鼻を突出したりくねらせたりして、彼女の肩のあたりへ欲望と恐怖の入り交じった戦慄を吹きつけた。そうだ、それは、まるで大きな淫売婦か、胎内の火を一滴ずつ漏らしている魔女かなにかの金属でできた腸のようだった。みごとな毒の源泉、穴倉に埋葬すべき仕事である。それは、それほど図々しく、嫌らしかった!
ゾラ『居酒屋』古賀照一訳,新潮文庫,p.567
彼女のシンデレラストーリーと絶望の物語、そのそれぞれの入り口にこの機械との邂逅があります。
彼女は終始一貫して、この機械に強い恐怖を覚えています。蒸留器は酒を生産する機械です。
そしてそのアルコールは『ルーゴン=マッカール叢書』の複数の主人公の人生を破壊する悪しき「遺伝」と繋がっています。
つまり、血に根付くアルコール依存への本能的忌避感が、彼女を蒸留器から遠ざけようとするのです。
では、実際に彼女は飲酒を回避することができたのか。答えは勿論ノーです。
蒸留器は彼女が人生の岐路に立つとき、問いを投げかける存在でもあります。「酒を飲むのか、本能的恐怖を乗り越えてまで酒がほしいのか。」と。
幸福に向かうジェルヴェーズは、自身の恐れや嫌悪に従って酒を飲まずに帰りました。
しかし絶望に向かうジェルヴェーズは、理性の声であった恐怖感を越えて酒を口にします。
怪物である蒸留器は、彼女の人生にとって地獄の番人でした。
「遺伝」であるアルコール依存への道、その扉の前に陣取っている存在だったのです。
彼女にとってそれはただの機械ではなく、最後のボーダーラインだったのではないでしょうか。
『居酒屋』―感想
自然主義とは何か
エミール・ゾラは、自然主義小説の先駆者として今もなお著名な作家の一人です。
しかし、彼以降、自然主義そのものの定義は曖昧になっていきます。
「ありのままに描くこと」が自然主義なのか、「描かれてこなかったものを描く」のが自然主義なのか、今日では一言で定義するのが難しいほどです。
そのヒントとして、『居酒屋』はある答えを出しています。それは、文学から捨象されてきた世界を描いているという点です。
『居酒屋』以降、ゾラはさらに数多くの作品を遺し、その中のいくつかは労働者階級を描いています。
『ジェルミナル』しかり『獣人』しかり、彼は執筆にあたって綿密な取材を行いました。
実際に起きた事件が元になっていたり、当時の社会情勢が色濃く反映されていたりと、そのジャーナリズム精神と作品に込められた熱量には目を見張るものがあります。
描きたいと思ったもの、描かなければならないと思ったものを描く、それが彼の自然主義の真髄なのではないでしょうか。
以上、『居酒屋』のあらすじ、考察、感想でした。