筒井康隆『虚人たち』小説としての特殊性(実験)を解説

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筒井康隆『虚人たち』小説としての特殊性(実験)を解説

『虚人たち』の紹介

『虚人たち』は、1979(昭和54年)年から1981(昭和56年)にかけて雑誌『海』(中央公論社)に発表された筒井康隆の作品です。

SF作家として確固たる地位を築いていた作者が、純文学の志向をもって臨んだ作品で、泉鏡花賞を受賞しました。

「エンターテインメントの要素は考えず、実験的な」内容となっており、読点は全く入れず、改行も少なく、数ページに亘る空白を設けた小説で、吉本隆明には「文学は難解なものであるということを示すために書いた作品」と評されました。

21世紀に入って、テレビで取り上げられたこともあり、本作が再評価を受けましたが、「筒井文学の最高傑作」とする人もいます。ここでは、『虚人たち』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。

『虚人たち』――あらすじ

妻と娘を同時に、しかも、別々の者たちに誘拐されたサラリーマンの木村は、警察や近隣住民の助けを得られず、「父親の問題だ」として積極的に関わろうとしない息子と共に、二人の追跡を始めます。道中、息子の裏切りに遭い、事態は改善されぬまま、木村の努力も空しく、事件は最悪の結末を迎えることとなるのです。

『虚人たち』――概要

主人公

木村

重要人物

妻、伴男(息子)、弓子(娘)

舞台

主人公木村の家、他

時代背景

1980年代(作品発表と同時期と思われる)

作者

筒井康隆

 『虚人たち』――解説

『虚人たち』は、登場人物である主人公が、自ら作中のキャラクターであることを自覚しているという、メタフィクションです。ですから、自己同一性にかけており、自分や他の行動に「物語上問題がないか」と自問自答するシーンも多々あります。

さらに、時系列としては齟齬が生じるのですが、主人公の心情によって、場面転換が容易になされるという構造にもなっています。

また、文章表現において、フィクション(虚構)の世界ではお馴染みの「約束事」にあえて逆らうという「実験」がされています。例えば、食事のシーンなどは、話の流れによって、重要でなければ、事細かにその姿を描写する必要はないのですが、本作はあえてこういったことにも拘りをみせます。

こうして、小説の作法を壊していくというのが、本作のスタイルです。わかりやすいのは、読点をなくし、改行を極力排した字面です。あえて、文字の間にスペースを入れたり、縦書きなのに一部文字を横にしたり、空白のページを設けたり、見た目から、そうした実験的な姿勢を強調しています。

そこで、ここではまず、『虚人たち』の小説としての特殊性(実験)を解説していき、その上で、この作品がいかなる効果を呼んだのかを考察します。

さらに、感想で、『虚人たち』が読者にとってどのような価値を持っているかについて、みてみましょう。

感情移入の排除

『虚人たち』の登場人物は、善悪の基準では図れません。主人公である木村が、自分の存在に確固たる自信がないので、彼の行動に倫理を挟むことが出来ないのです。

もちろん、誘拐された母娘は被害者で、同情すべき存在なのですが、彼女たちはあくまで、自己を確立していない主人公木村の目を通して描かれているせいで、その心情も含め曖昧な存在となっています。

「今のところまだ何でもない彼は何もしていない。何もしていないことをしているという言いまわしを除いて何もしていない。」

筒井康隆『虚人たち』, 中公文庫, 1998, pp7

主人公の木村の意識が、本作で芽生えた冒頭の表現です。これから、彼は家の中を廻り、自分には妻や子供がいることを確認するのですが、別に記憶喪失になっていたとか、転生したとか、そういった話ではありません。本作における「木村」という設定されたキャラクターに、本人が馴染んでいる課程が書かれているのです。

木村は、自分が小説のキャラクターである以上、「何かをしなくてはいけない」、あるいは「何かに巻き込まれなくてはならない」と考えます。時計の針は(午後)6時11分を指しており、その時刻でも妻と(部屋をみて高校生と認識出来た)娘は不在で、そして、玄関ではガラス戸の一番下の部分が割れていてガラスが散らばっていることから、彼は「事件」が起きたと悟るのです。

近所の金物屋の店主からは、妻が誘拐にあった(が、店主は、助けもせず、それ以外のことは無関心)としか情報を得られなかった彼は、ここで突然、妻に問いかけ、犯人と誘拐された情報を聞き出します(そこには妻はいないはずでおかしな話なのですが、この世界では、木村も、ある意味、「作者」である神と同等なので、こうしたこと交流が出来るのです)。

同じやり方で、娘の弓子も妻とは別に誘拐されたことを知った木村は、車で大学生の息子を連れて探索することになります。

 「息子にどのような予定があろうと誘拐された女たちは彼の息子と母親と妹であり息子には彼がさっき警察へ電話したのと同じく父親に同行すべき客観的義務がある。さらに父親と共に母や妹の行方をつきとめるという行動は息子のかくあらまほしき予定の中に織り込まれることになっているのかもしれないから彼が誘(さそ)ってやらなければ息子はかえって困るかもしれない。」

筒井康隆, 前掲書, 1998, pp41

家族が誘拐され、残された息子に声をかけるのに、木村にはこのような心理描写が課せられます。通常の小説であれば、会話数行で済む話なのですが、本作は、木村という人間が、木村を演じている以上、家族であっても他者の関係を一つひとつ吟味した上で行動しなくてはならないのです。

そして、息子は息子で次のような対応をとります。

 「これはお父さんの事件なんだ。責任逃がれで言っているんじゃなくて実際その通りなんだものな。(中略)お父さんがいたからこそ起こり得た事件じゃないのかい。お父さんがいなけりゃお母さんだって弓子だってそもそも」

筒井康隆, 前掲書, 1998, pp46

息子としては、「(本作の主人公で)父親なのだから率先して家族を守る義務がある」という返しなのです。後に、彼は父親を殴って、車で逃走し、置き去りにしていますのですが、例えば父親に恨みを抱いているなどといった、人間関係の前提が構築されていないので、その態度も善悪の対象として捉えづらい部分があります。

木村も、妻と娘の探索のために、会社を馘になってまで、努力を続けるのですが、その心情のバックボーンが、まるでそう演じなくてはいけないように、まるでストーリーを展開させる上ので「駒」として動いているように見え、必死さが伝わらず、読者との距離が生じます。

最後は、妻と娘は、誘拐犯に犯され殺されるのですが、先ほどから繰り返し行われる(本来は不可能なテレパシー的な交流の中での)やりとりで、木村に末期を訴えかける二人の言葉は、実に冷静で、説明的で悲しみも怒りも伝わってきません。つまり、「現実的」ではないのです。

こんなに残虐な事件があったのであれば、感情に揺り動かされない方がおかしいですし、それに訴えかけるのが小説における描写の軸となるのですが、本作は、まず、その小説の作法を排しているのです。従って、本作においては、たいていの場合、起こりうる読者の登場人物の感情移入がされることはなく、キャラクターの好みも話題にあがることがありません。

「遅延」の実験

これは、作者自らが語っている事なのですが、本作では意図的に、「遅延」という手法が図られています。現代のジェットコースターのような展開が求められるエンターテインメント作品全盛の時代では、あまりみることがないのですが、すぐに結末にいかずに、わざと寄り道をして、読者に苛立ちを募らせるという、少し意地が悪いですが、そういった効果が期待出来ます。

ただし、本作がユニークなのは、全編にわたって、その「遅延」の手法がとられている点です。「原稿用紙1ページ分を1分間と考えて」書いたというのです。これは、明らかに非常にめずらしいやり方です。

 「(前略)スプーンでカレーと飯を混ぜあわせながら彼はさっき食べたカレーが食道に刺激をあたえつつ下降してついに噴門部を通過したらしいと悟る。ひと口めのカレーの線香花火のような効果はふた口めには失われていてせいぜい枝垂れ柳である。あとはカツと飯とカレーの混濁した味がはたしてどれほど高級な味なのかを考えるしかない。(後略)」

筒井康隆, 前掲書, 1998, pp69

これは抜粋ですが、木村は、1ページを費やして、ごく普通のカレーを食べています。本作は別に料理小説でもありません。ましてや、妻と娘を探索している最中に、木村が空腹のあまりに、それに気が進まない息子と、立ち寄ったレストランでの出来事なのです。こんなところで無駄に時間を費やしていることがむしろ問題です。

 「『なぜそんなに描写するような食べかたをするのです』」

筒井康隆, 前掲書, 1998, pp69

前項で話したとおり、キャラクターを演じる「息子」が、今度は読者の気持ちの代弁者となっており、これまでとは打って変わって、英語の翻訳でもしているかのような口調で父親に指摘します。ここでも読者は、彼の立ち位置に違和感を覚えさせられます。

 「『時間の経過は無意味なようではありますがわれわれにとって何が無意味かはとりもなおさず無意味に経過しているようにしか見えないその時間が教えてくれるのですよ。だから食べている時間の経過は食べている描写や食べてものの描写によって記憶されるべきです。(後略)』」

筒井康隆, 前掲書, 1998, pp70

そして、木村も、息子同様、奇妙な内容の言葉を翻訳調で答えていくのです。

これが話の序盤での展開ですが、冒頭から「読みにくさ」を感じている読者は、ここにきて、作者が「まともに」話を進めるつもりはないことを確信するでしょう。先ほどの「遅延」の技法は、効果的な結末へ向けたりする「目的」があったのですが、本作は、その意図も見当たらないのです。

強いてあげれば、こうしていることで妻子の安否の確認がますます遠のく問題が生じることで、寄らずにすむレストランでカレーを食べて、息子と翻訳調で時間の概念について語る父親に、「まともに」納得をする読者いないでしょう。つまり、この作品は、極めて「実験的な小説」であることを作者は作中で宣言しており、読者は、その思考を変えれば、知的遊戯として、これをブラックユーモアととれる「笑い」に転じることも出来るのです。

極めつけは、息子になぐられて気絶をしてしまった木村を描写するのに、途中2行の言葉をはさみながら、空白の9ページを挿入したことです。続く他のページも数行の羅列となっているので、10分以上は気を失ったことになるのでしょうか。ページ数が増えれば、コストが高まるのですから、出版社泣かせの試みです。

多くの読者がこうした表現で「現実の」臨場感を得たとは考えづらいのですが、一方で、「現実」に忠実であろうとするのであれば、逆にこうした表現が許されなければならないという、「虚構」と「現実」の矛盾に揺れ動かされることにもなるのです。

「虚構」が描く「言葉」とは?

本作は、これまでの「お約束事」にあった小説の在り方を、あらゆる限り、捨て去ろうとした野心的な「実験小説」です。

作者は、「虚構」である小説を書くにしても、現実として使われている「言葉」を使わなくてはいけないが、言葉は非常に曖昧なまので、それが本来の「現実」とイコールの関係になるのは非常に難しいものだと考えています。

先ほどの技法の「遅延」と対照的なものに「省略」があります。例えば、いきなり物語の展開を「5年後」などと時間を飛ばしたりすることです。

「遅延」に比べて、むしろ、この方が用いられる頻度が多いのですが、それは言葉で現実をカットする(読者の想像に委ねる)ことになりますが、これはフィクションにおける「お約束事」として世に受け入れられています。

ですが、本作のように、忠実に「遅延」を全編で扱うとなると、潤滑なストーリー展開を望む多くの読者からは好まれないものとなるでしょう。

また、登場人物は、作品の中では「現実の人間」として生きているというのが建前ですが、本来は、虚構にある、それこそ「虚人たち」で、「現実」には実体をもっていない、実は脆弱な存在なのです。小説内の彼らは、本当は神である作者が創った現実社会の人間を投影すべく作られた、あくまで造形物に過ぎず、それはまた誤解を生みやすい「言葉」で作られているのです。

物語とは、この頼りない言葉による「虚構」の世界だということを赤裸々にしたのが、本作となります。本作の読みづらさは、「虚構」を構築するのに言葉がいかに頼りにないものであるかを証明しているのと同時に、本作の理解が深まれば、頼りないのは言葉ではなく、現実そのものではないかという疑念がわき、「虚構」が現実を凌駕してしまうです。

最後は、妻と娘、職を失い、息子に逃げられた木村が、一人、自宅に佇んでいます。

 "「おれにはもうやりたいことは何も残っていないのかと彼は思う。妻や娘にもう一度だけ会いたいという気がしないでもないでもない。しかし会おうと思えば今すぐにでも会えるのだということに思い到って彼は凝然とする。この事件の性質及び事件の中に占めている彼の立場からすればいつでも会えるのだ。しかしもはや会う必要はないのだ事件はもう終ったのだからなと彼は思う。彼は何もしていない。何もしていないことをしているという言いまわしを除いて何もしていない。」"

筒井康隆, 前掲書, 1998, pp280

と、メタフィクションの人間である木村は、自分が物語をコントロールできる立場にいながら、その役目を降りて、結末を迎えようとします。そして、冒頭にあった「何者でもない自分」となって、作品上で消滅を迎えるのです。

展開だけ追っていくと、妻と娘を救えず、何一つ守れなかった哀れな中年男の最後となり、読後感としてはやりきれなさを残すのですが、これがいわゆるブラックエンドかというとそうとも言い切れません。

なぜならば、作中では神的存在でもある木村は、物語の「やり直し」が出来たからです。つまり、ハッピーエンドになる可能性を自ら放棄したのだと言えます。そういう役割から下りたと表現したらよいでしょうか。

そして、この実験小説である『虚人たち』は、作者の「実験」に駆り出された主人公木村が、理不尽な世界で疾走した挙句、痕跡を残さずにキャラクターとして消え去った話となりました。

『虚人たち』――感想

本作は、作者曰く、「出たときにはあまり評価されなかったけれども、今ごろ(注:2016年)になって褒めてくれる人が」でてきたという話です。

確かに、読点がなく、1ページ内に改行なしはざらにある本作は、手に取った瞬間から読者を遠ざける要因があることは否めないでしょう。

ですが、解説で述べたように、「虚構」の意味を問う、過激で、知的好奇心を充足させてくれる「実験小説」として捉えれば、小説研究として、名だたる文学評論と同等の価値を持つと称されても間違いないと思います。

これから、その価値をもう一度、考えてみましょう。

「わかりやすく」してしまった「虚構」へのアンチテーゼ

本作は、読者を突き放す作品です。起承転結、伏線回収に慣れた読者ならば尚更です。本来、使われている小説のルールをことごとく破壊しているのですから。

かといって、韻文のような「省略」の文学ではないので、見方によっては、情報過多に生きている現代人には馴染める可能性が高い作品です。

本作で与えられる情報(「言葉」)は、一般の読者の欲しているものから、意図的にずらされています。心の武装をしていない読者は、文学に、魅力のある登場人物やその行動、わくわくするストーリー展開、あるいは、知的な教養に満ちた滋養のある世界などを得ようしています。もちろん、中には、笑いであったり、道徳・倫理観を揺さぶられる悲劇であったり、そうした刺激を求める人もいるでしょう。

ですが、これらを表向きには拒絶し、なおかつ、「言葉」を用いて「虚構」を自立させた本作は、ある意味、文学史上において画期的な存在だと言えます。

日常生活で、言葉の洪水に私たちはさらされており、ネット社会が普及し、情報がより一般化したいま、あらゆるメディアでは「わかりやすく」表現することが求められています。「理解できない」のは、受け手のせいではなく、送り手の技量不足とされるのです。

「言葉」そのものは、日常生活においても誤解が生じるように、実はとても脆弱な存在ですから、こうした「わかりやすくする」という社会の要請を受けしまうと、極力、難解な言葉をなくし、語彙を減らして、文章の構造も主語述語の関係を明確にし、修飾語の数はなるべく減らした、短文を多用することを求められます。

それでも、人の知的欲求は厄介なもので、情報が一般化する(表現がマンネリ化する)と、どこかでそれに対して疑問や不満を抱かせる、何かが生まれるのです。そして、それが歴史の中でも社会経済や文化の発展へとつながってきました。文学も然りで、日本で、日常言語と異なる俳句や短歌がすたれることがないのは、情報の一般化への永遠の反抗です。

アプローチは違いますが、同じことが本作にも言えて、「お約束事」=情報の一般化を、あえて情報(「言葉」)を多用することによって、対抗してみせたのです。

「理解できない」と一般的に言われることは、作者にしてみれば、そのように書いているのだから、想定内の感想です。それでも、情報の一般化によって、情報の奴隷、情報の麻薬漬けになってしまっている人が、本書で目を覚ましてもらえる期待があったのでしょう。

本書が発表されたのは、1980年代ですが、当時は特にテレビドラマが黄金期を迎えていました。本来はフィクション(虚構)を取り扱っていたテレビが大衆化して、「現実をもってきたホームドラマ」が主流となりました。そうすると、虚構の立ち位置はなくなって、「フィクションも何もかもすべて現実だ」となったのです。物語、情報の一般化です。

作者は、その状況を憂いて、「『虚構』の自立」への拘りを見せてきました。「現実に文句を言わせない」という意気で。本作はその実験なのです。例えば、ファンタジーにしても、その世界観に形がつくられ、それに従属してしまっては、その「現実」に従属したことになります。あるいは、反道徳を謳った悪漢小説にしても、やはり、その出来上がった空間をなぞることばかりになってしまえば、「現実(市場の要求)の奴隷」となってしまうのです。

本作が、現在でも「わかりにくく」、現実と隔離しているのであれば、その構築された「虚構」の世界は実に強固なもので、古びることのないものなのでしょう。こうした観点から読み解くと、その味わいが深まります。

創造者の選択

作者はかつて「現実の社会とか政治とかいったものにまるで関心がない、いやでいやでしかたがない」と発言しています。

これは、大江健三郎と井上ひさしとの鼎談でのことなのですが、大江も井上も、核の問題など、時に直截的に政治的なメッセージを出したことがあったのですが、そうした彼らとは一線を引いています。

それでも、創作者として、作者は、大江、井上と共感する部分が多く、小松左京へ、大江の(発表時は厳しい評価を受けていた)『同時代ゲーム』に何とか賞を与えたくて、日本SF大賞設立を働きかけ、賞は出来たものの、結果、大江の作品が選ばれなかったとみるや、井上の『吉里吉里人』を推して受賞に結びつけるなどの骨を折っていますので、これは選択(作風)の問題です。

本作も、テレビメディアについては婉曲的な揶揄があるものの、政治・社会的メッセージを強く投げかけることはありません。作者にとって、政治社会はあまりに「現実」過ぎて、「虚構」と「現実」の対立から、未来を見出そうとしている思想とは相いれないものがあるのでしょうし、「虚構」の自立のためには、そうしたものはむしろ、邪魔になると考えているのです。

一方で、社会的な事実(現実)を丹念に取材し、作品全体を構築した上で、そこに在ったであろう人物の声を翻案し、フィクションとして世に広めた、吉村昭という作家もいます。これも対照的ながら、これもまた「虚構」を構築する一つのアプローチです。

また、先ほどの井上ひさしのように、作者と同じく、ユーモアや、時には卑猥な表現を織り込みながら、ここは作者と違って、根底では、日本の政治社会を批判するといった手法をとる作家もいます。

本作が「筒井文学の極北」と言われ、ファンの中で最高傑作と評されるなど、話題となったのは、他の作家とは違う、作者の姿勢が色濃く表れているからかもしれません。先ほどは「邪魔」としましたが、現実と対峙する際に、具体的な政治社会問題を混ぜると、それは逆に不純物となってしまう危険性があり、知的遊戯という観点からすると、興を削がれる可能性があります。例えば、密室トリックなどを扱ったパズルを主眼としたミステリに、殺人に関する倫理的な問答が挿入されたら、焦点がぼやけることになるでしょう(筒井作品自体は哲学的な要素はいくつかありますが)。

彼の著作である『文学部唯野教授』でも、結果としてアカデミズム(大学行政)の内幕を暴露することになったし、社会的な反響も呼んだのですが、その創作の出発点は、文学理論をいかに虚構の中でいかに落し込んで、小説として成立させるかということにあったのです。

この「虚構」と「現実」における姿勢は、創作者の選択でもあり、作者筒井と、ここで取り上げた、大江、井上、吉村という作家の優劣を判断するものでもなく、どのように応えるかは、読者の好みに委ねられることかと思います。

読書の「余力」

多くの読者は、仕事として「読書」をすることはないでしょう。ある意味、自由な空間にいると言えます。それが故に、作風によっての「好き」「嫌い」の判断で語ることが許されています。

ただ、一線として長く活動を続けている作家の多くは、私たちの想像以上の知識を持ち、途方もない研究を重ね、作品を創造しているのも事実です。

おそらく評価として作家を苛立たせるのは、まともな「勉強」もしていないで、自分の主観で作品の良し悪しを決めている、「批評家」なのでしょう。

もちろん、一般の読者にまで、評価の精度を求めることはないのですが、私が一つ言えるのは、最初の印象だけで「再読」する機会を失わないことです。

本作のように挑戦的な作品は、途中で「脱落」してしまう読者も多いはずです。けれども、時を経たり、あるいは、周縁の知識で、作者の意図を知ったりした場合に「再読」すると、新たな視点から興味がつながることがあるのです。

これまでも述べたとおり、本作で、劇的なカタルシスや、教養小説のような人物の社会的な成長を求めるわけにはいきません。ベースは、小説の「約束事」を排した実験小説であり、小説を数多く読んでいる(通常の小説に読み飽きている)人への、あるいは、行き詰っている創作者への、誤解を恐れずに言えば「玄人向けの」作品です。

ですが、本作が刊行して30年以上経ってから、また売上を伸ばしたといったように、作品の再評価というのは、その時々の社会的背景もあるのでしょうが、何かのきっかけでやってくることがあります。有名なところでは、刊行後、80年経って起きた、プロレタリア文学の「蟹工船ブーム」です。こうした再燃ブームが起こることによって、過去の作品の新たな読解、批評が生まれ、それが輝きを増すことになるのです。

本作に限らず、かつて挫折したという作品も、もう一度、評価を整理してから、読みほどいていくと大きな感動が得られるかもしれません。そうした「余力」を持って、読書を楽しんでいただければ幸いです。

★参考文献
筒井康隆『筒井康隆、自作を語る』、早川書房、2018
筒井康隆『創作の極意と掟』、講談社、2014
筒井康隆『短篇小説講義』(増補版)、岩波新書、2019
井上ひさし、大江健三郎、筒井康隆『ユートピア探し 物語探し』、岩波書店、1988
大江健三郎『新しい文学のために』、岩波新書、1988

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まつもとあゆむ

千葉大学文学部文学科文学理論専攻。自分も含めた読者が本を通して導かれる小宇宙、その無限の世界で様々な読み方に出会えることをいつも期待しています。あまり固定ジャンルに囚われないように本を読んでいますが、個人的な好みは「ビターエンド」の作品です。本も大事ですが、本から得た刺激を実社会に生かしてこそ、本の価値が生まれると信じているので、皆さんにそれが伝えられることも意識しています。本来、書評というのは誰でもできるのですが、「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく(以下略)…」といくのは大変で、その修行として、まだ道四分の一ですが執筆中です。