筒井康隆『文学部唯野教授』小説の二重構造を解説!モデルとなった人物も!

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筒井康隆『文学部唯野教授』小説の二重構造を解説!モデルとなった人物も!

『文学部唯野教授』の紹介

『文学部唯野教授』は、1987(昭和62)年から1989(平成元年)にかけて雑誌『へるめす』(岩波書店、第1221号、ただし第19号は休載)に発表された筒井康隆の作品です。

SF作家として確固たる地位を築く一方、泉鏡花賞、谷崎潤一郎賞を受賞した作者が、大学の学内政治を戯画化すると共に、並行して文学理論講義を取り入れるという他の小説に類のない試みをすることにより、読者に文学における虚構(フィクション)がもたらす味わいを投げかけています。

本作は、日本のみならず、フランスでも評判となり、その挑戦的な試みが海外でも認められることとなりました。ここでは、『文学部唯野教授』のあらすじ・解説・感想までをまとめました。

『文学部唯野教授』――あらすじ

早治大学文学部英米文学科の新任教授である唯野仁は、学内で目立たないように、主任教授の蟻巣川の顔色をうかがいながら、粛々と会議と研究、授業の毎日を送っていました。しかし、同じ大学のフランス文学科の助教授で、友人でもある牧口が、大学から支給されたフランスの留学費を自分が教授になるための資金に流用しようと、2ヵ月で留学を切り上げて日本に隠れていたことを知ります。唯野は、早治大学では教授になる見込みが薄い牧口のために、非常勤講師として「文芸批評論」の講義をしている立智大学へ働きかけたのですが、大学には知らせず覆面作家として書いていた自身の小説が文学賞の候補になったり、講師昇進を巡る学内騒動に巻き込まれたりして、自分の地位を守ることすら怪しくなっていくのでした。

『文学部唯野教授』――概要

主人公

唯野仁

重要人物

蟻巣川主任教授、獅子成教授、水戸助教授、

牧口助教授、斎木主任教授、蟇目助手、日根野教授、河北文学部長、番場、井森、

榎本奈美子、京子

舞台

早治大学、立智大学、他

時代背景

1980年代(作品発表と同時期と思われる)

作者

筒井康隆

 『文学部唯野教授』――解説

『文学部唯野教授』は、9つの章で構成されており、各章は、「第一講 印象批評」というように、文学理論のテーマが用いられています。本作は、章の中で主人公唯野が遭遇する大学に関係したエピソードと、彼が非常勤講師をしている立智大学の講義がセットとなっています。例えば、第一講では、「印象批評」の講義が行われるというわけです。

例外はあるのですが、基本的にエピソードと講義内容は強く関わることはないので、多少の修正により、エピソードと講義をそれぞれ抽出して、別の話として成り立たせることもできます。

もちろん、そうしてしまうと本作の味わいが激減してしまうのですが、物語の内容を整理することを目的とすると、有効な読み方の一つとなります。というのも、本作の講義内容は、全体としては実にわかりやすいのですが、「第四講 現象学」から、(本文にも書いてあるとおり)難しいテーマを取り扱うようになっており、これにより読者もエピソードから思考の中断を強いられることになるからです。

そこで、ここではまず、『文学部唯野教授』のエピソードと講義を分けて解説していき、その上で、この小説の二重構造がいかなる効果を呼んだのかを解説していきます。

さらに、感想で、『文学部唯野教授』の重要なテーマとなった「虚構」と虚構を自己言及する「メタフィクション」としての本作の性質を紐解いていきます。

浮遊する「非」権力者

『文学部唯野教授』のエピソードでは、主に大学内の閉鎖的な権威に対して揶揄されており、この他にも「文壇」や「マスコミ」に対して手厳しい指摘をしています。

まず、第一講で、新任教授唯野が所属する早治大学文学部英米文学科の学科会議が紹介されます。そこでは、雑誌に寄稿をしていることでやっかまれ、教授の道を閉ざされてしまっている助教授の水戸がまだ来ていないことをよいことに、主任教授の蟻巣川を中心に陰口が叩かれています。

「『これ、ご覧になりましたか』助教授の深井戸がへつらって『プルートス』最新号を出し、蟻巣川に見せる。『ここにも『アメリカの小説に学ぼう』などという低俗なものを書いています』

『困ったもんだ』蟻巣川は顔をしかめる。『どうしてもっと紀要論文を書こうとせんのだろうね。これじゃこのひと、教授になれませんよ』」

筒井康隆『文学部唯野教授』, 岩波現代文庫, 2000, pp23

 

大学からすれば、「学内の雑誌や学会誌以外はすべて低俗なマスコミなのであり、そういうところへ書きはじめた者は学内の権力機構からただちに疎外されてしまう」というのです。

次章で明かされるのですが、唯野も文芸誌に小説を書いていますが、彼は研究を続けるため大学の路線から外れないように、それをひた隠しにしてペンネームにして誤魔化しています。

かといって、真面目に「まともなこと」をいって目立ってしまっても、主任教授に目をつけられてしまうので、彼は会議ではほとんど発言することなく、「蟻巣川が案を出した時だけ『おっ。それ名案。賛成。さすが主任教授』などとよいしょする」だけでした。ただ、あまりに彼の言動が軽薄なので、それが功を奏しているともいえないことが語られます。

このように、主人公の唯野は、表向きは波風を立たせることのない、体制に迎合したお調子者として描かれているのですが、陰では自分の研究の実作として小説を書いたり、同じ大学のフランス文学科助教授で友人でもある牧口の教授推薦のため奔走したりするという、二面性をもった人間であることが示されているのです。

本作では、実際の人物がすぐにわかってしまうような名前まで登場します。先のようにマスコミと付き合いがあるだけで大学の正規ルートを外れてしまった者として、「空桶谷弁人」「新浦寿文」「白岡得善」などと名があげられていますが、これでは、それぞれ「柄谷行人」「三浦朱門」「平岡篤頼」という実際の人物であることがすぐに思い浮かびます。

また、文芸誌『潮流』の編集者番場は、「純文学の作家なんて食べていけない」と渋る、覆面作家の唯野をなんとか文壇の表舞台に立たせようと口説きます。

 「『PR雑誌への執筆、その他対談講演座談会、こういう種類の収入が馬鹿にならんのですよ。一回の講演料と原稿料百枚分が同じというのは文芸誌の編集者として忸怩たるものがありますがね。したがって、だからこそ、せめてわたしとしては、おいしいことがまだまだいっぱいあるその世界へ唯野先生をご案内したい。』」

筒井康隆, 前掲書, 2000, pp56

さらに、番場が、掲載された唯野の小説『象牙』を「芥兀賞」候補として推薦したいという申し出をしても、身元がわかるから嫌だと頑なに唯野は断ります。文壇政治も、学内政治もどちらも全く興味がないとする彼は、少々アイロニカルな表現を使って自分の考えを説明します。

 「『その社会で食っていこうとすればどうしても不純になります。それはもう大学だけで沢山。そして大学において言語に対する実験のゲームが場所を持ち得ない以上、純粋に文壇外社会から純粋に享楽的に純粋に小説のみ書いて文学に参加する。これがおれの純文学』」

筒井康隆, 前掲書, 2000, pp56-57

そして、今度は「読経新聞」の学芸部長の井森という男に唯野はつきまとわれることになります。彼は、早治大学の非常勤講師になりたいがため、文学部の教授に近づいたのです。

 「大新聞の文化部とか学芸部とかいったところの部長クラス、次長クラスには、大学教授の肩書きがほしくてたまらぬという人物が多い。一方では大学教授にもジャーナリズム複合観念(コンプレックス)があり、こういう教授たちに対して新聞の文化欄とか学芸欄とかに書かせてやるからと話をもちかけ、そのかわり自分を大学の非常勤講師にしろと売り込むのである」

筒井康隆, 前掲書, 2000, pp99

井森は、やがて教授達に賄賂を渡し、受け取らない唯野には、無理矢理、新聞の連載コラムを書かせることになるのでした。

こうして、物語は、中盤から後半にかけて、牧口の教授運動、学内の講師昇格問題からの乱闘騒ぎ、唯野の「芥兀賞」受賞へと展開していき、面倒をおこすことなく、大学の正規ルートにのりながら、覆面で小説による実作を行いたかった唯野の思惑が、予期せぬ方向へと動いてきます。

この一連のエピソードでは、ほとんどの大学関係者は、人間的には非常に幼稚で、閉鎖的な人物として登場しており、それを取り巻くマスコミ関係者も、アカデミズムの権威を利用しようとするハイエナのようなものとされています。

唯野は、そうした世界から一歩引いた人間として存在していますが、面と向かってこの体制を壊そうという意志は持ち合わせていませんし、最後は、作家であることが暴かれたものの大学に籍をおいたまま、あれほど嫌がっていたサイン会に出席するという、静かな結末を迎えました。

主人公の考えが作者の意図をそのまま投影するというのは、あまりにも浅はかな解釈ではありますが、あえてこうした展開と結末にしたのは、作者自身が、本作でジャーナリズム的な側面から、大学組織、マスコミを糾弾しようとしたわけではないからでしょう。

この点は後述しますが、ここでは、「純粋に」文学研究をしたかった主人公が、反抗するわけでもなく、かといって素直に組織に迎合するわけでもなく、物語としては、権威というものに対して、曖昧な立場で着地したことを確認しておきます。

メタフィクションとしての「文学理論」

本作は、もともと大江健三郎が、イギリスの文芸評論家のテリー・イーグルトンが著した『文学とは何か』を、岩波書店を介して、作者に送ってきたことから始まったと筒井本人が語っています。『文学とは何か』は、現代に至るまでの文学理論の概説が書かれており、それは恰好の入門書でありました。

ということは、作者はまずはこの文学理論の概説の内容を書きたかったわけで、後に結果的に大学やマスコミの内幕を明かすような物語が並列されたということになります。

この講義の内容は、①印象批評、②新批評(ニュー・クリテイシズム)、③ロシア・フォルマリズム、④現象学、⑤解釈学、⑥受容理論、⑦記号論、⑧構造主義、⑨ポスト構造主義、となっており、この数字はそのまま小説の章立てになります。

内容は学生に向けた饒舌な唯野教授による、専門書としては比較的読みやすい『文学とは何か』をさらにわかりやすく、日本の例も入れた講義となっています。

詳細は本作に譲り、ここではポイントを説明していきます。

以下は、唯野教授における各理論の概要と評価です。

①印象批評

象徴(シンボル)による美学理論の流用や、伝統などの経験主義、この経験主義から派生した印象批評の亜流である規範主義による理論。

こうした閉鎖的な価値観で文学を自分の「面白い、面白くない」で解釈するやり方は、日本では知識が浅い批評家が多くて閉口するとしています。この立場にあっても小林秀雄までの教養があれば認められるが、多くの者は、その域に達していないとして、かなり悪意をもって実際のモデルがいるであろう批評家を揶揄していきます。

また、逆に本作のきっかけを作ってくれたことに敬意を表してかどうか、「印象批評」に対する意見として、実名で大江健三郎の言葉をあげています。

 「『文学理論は必要です。評価する・あるいは否定する根拠なしの、あいまい(、、、、)主義的な批評にさらされているわが国の作家たちには、それもとくにこれから小説を書き・発表する若い人びとには、文学理論にたつ批評がなされることほど望ましい話はないはずです。気分次第で賞めたり叱ったりする親ほど教育的でないものはないように、あいまい(、、、、)主義的な批評が若い作家をよく育てるとは思いません』。」

筒井康隆, 前掲書, 2000, pp42

②新批評(ニュー・クリテイシズム)

印象批評における美学理論への批判で、歴史、心理学、文化人類学などの社会的な問題を使って、文学を解釈。政治的な方向へ行くことがある。また、文学を「生き方」の指南として宗教的な観点で捉える見方も。さらには、科学的な数字で計る「行動心理学」のモデルを流用する動きがあった。

こうした文学を自分達の価値観で固定し、文学を理想化する見方にも、唯野教授は批判的でした。「文学とまったく関係ない人の方がみんな善良」だと嘯きます。また、科学的な手法をもって文学を解釈しようとしても、詩などの短いものしか対応できないので一般化できないと切り捨てています。

③ロシア・フォルマリズム

内容には関わらず、日常言語を文学的な技巧をもって「異化」。印象批評のように美学を拠り所とすることなく、かといって新批評のように社会的な内容を囚われることなく、文学の形式・技法の洗練にこだわる。

ロシア・フォルマリズムのような「ことばにこだわって『日常言語だけで書かれている』と批難する批評」は、笑いとばせというのが、唯野先生の評価です。ここでも、モデルがいると思われる批評家を「言葉遊びやパロディ」が理解できていないと揶揄しています。

④現象学

世の中の現象をみようとすると主観で支配されてしまうから、一度、「判断中止」をして、己の「純粋意識」を得ようとするフッサールの哲学を流用。現象学批評は、主観を廃して形式のみに目を向けるロシア・フォルマリズム(③)、逆に「生きる」という純粋な観念に着目するという点で新批評(②)にもつながり、その立ち位置は混沌とする。

現象学批評自体は、「これまでの批評理論の悪いところばかりを集めたものだ」としているのですが、現象学から派生して、ジュネーブ学派が築いた、「批評家の好みに左右されない」「作家の精神の深いところの構造をつかむ」実績は認めています。

また、面白いことに、現象学は(筒井康隆という作家を含め)「文芸批評家よりも小説家の方が役立っている」としているのです。

⑤解釈学

フッサールの弟子であり、師と考えを違えたハイデガーの哲学を流用。人間の内なる「純粋意識」を軸にしたフッサールに対して、世界との対話によって人間の存在が確立されるとしたハイデガー。その世界には、過去や歴史的なものが付随する「時間」が含まれ、いずれくる「死」についても了解しなくてはならない。文学理論としては、ハイデガーの後継者である哲学者ガダマーが、過去の文学の「伝統」に敬意を表した上で、現代において歴史の流れにそって別の形で了解することを掲げる。伝統を重んずる点で、印象批評(①)に類似。ただし、フッサールの後継者であるハーシュは、同じ解釈学の立場でも、作者が作品にこめた意味は一定不変であり、解釈は作者の意味するところに限られるとする。

解釈学、そのものについては明確な是非を下していません。ハイデガーやガタマーの「歴史性」については、その個人史に委ねがちであること(それがハイデガーのファシズム信奉につながったこと)については言及しています。ただし、ガタマーによる文学理論の功績としては「文学テクストの意味とは何か、それと作者の意図とはどう関係づけられるのかといったような問題を提起した、ということだけにあったように思う」としました。

⑥受容理論

文学は、作者と読者の共同作業であり、文学作品は、年齢や時代に囚われない読者が常に存在する(「内包された読者」)。小説でわからない箇所を読者が肉づけすることによって美的価値が生まれ、なおかつ肉付けの仕方は良し悪しがあるという考えと、そうした判断はつけられないので、読者がこれまでの社会的な慣習や規範的な見方に、新たな批判意識をもたらすことに重きを置くものがある。また、文学作品を時代時代でどのように受け止められたのか読者中心の受容史をつくったり、さらには「真の作者は読者である」と唱えたりする者も。

「内包された読者」というモデルを作ること自体が困難で、読者の全てが作品の通読者であることすら確定できず、また、読者が自由な解釈ができるといっても、「学者だけでなくて、批評家、出版社、編集者などが作っている文学制度の中で決められてしまう」のであって、これを打ち破るには、文学のみならず、社会的に現実に目を向けなくはいけないと言っています。

⑦記号論

言語学者ソシュールの理論。伝える内容と言葉の関係は、恣意的(強い因果関係はない)である。言語の歴史的な流れをみる必要はなく、言語体系における記号と記号との違いを「共時的」に研究。この記号論は、後の構造主義で応用されることになる。

記号論は、「文芸批評なのだけど、科学だ」と嘆くくらいで特に大きな批評はありませんでした。ただ、記号論のような複雑な理論を流用することによって、批評家は小説家に文句を言わせないようにしていると毒づいています。

⑧構造主義

物語も言語構造を分析するように、文学に法則をみつけて、内容の深層構造を明確にし、体系化する。

過去の純文学の価値はなくなり、作家の個性も無視されてしまう、「宗教のかわりに現代人の宗教となった科学、その科学を装った文学理論」としています。

⑨ポスト構造主義

階層的なイデオロギーを作ってしまう言語の構造、思考があることを前提にして、逆にそれから脱構築しようとする考え。この主義に立てば、文章における書き手が、イデオロギーを主張するがあまり、逆に混乱してしまうところを指摘できる。

この理論については、唯野教授は、「イデオロギーなどに囚われた信念のあるひとの間を軽やかに駆け抜けてしまう不死身の立場」と評しています。ただ、結末を知りたいがために、ストーリーを追って内容を吟味しない一般的な読み方は、この世界では通用しないとしています。また、これは実名をあげていますが、文芸評論家の渡辺直己がこの手法をとって本を出したものの、読み込みが甘さと、この理論の趣旨にもとる、作品の良し悪しにつながる評価をするような発想を批判しています。そして、学生には、作家の筒井康隆の名前を出して、『ポスト構造主義による〈一杯のかけそば〉分析』という素晴らしいパロディがあると薦めます。

さて、9つの文学理論について唯野教授の解釈を合わせて振り返ってみたのですが、流れをみていくと幾つか唯野の思惑がみえてきます。

まず、文芸評論家に対する批判です。それぞれの文学理論の解説をすると同時に、同じ手法をとっている評論家へ数々のダメ出しをしているのです。エピソードの部分でも評論家に対して触れている箇所が少しはありますが、この講義の中では痛烈なまでに多数の評論家を取り上げています。

指摘しているのは、あくまで唯野仁教授の講義であるから、メタフィクションの手法を用いて、筒井康隆という作家は別物として話題に持ち出すことによって、これは作者の意見ではない(わけはないのですが)、と主張できる「戯れ」をしているのです。

この小説を読んで本気で怒るようでは、それこそ気持ちにゆとりがないのでは、とでもいうように。

また、文学理論全体の評価においては、作家でもある唯野教授が、読み手からの規範の押し付けや、科学的な分析によって個々の作家性を失わせるような理論には好意的になれないのは当然のことです。ただし、印象批評の小林秀雄や構造主義のノースロップ・フライなど常人をはるかに超えた教養をもっている人間の評価は高く、認めるところはあります。

しかし、何よりも許しがたいのが、文学評論に向き合っているとはいえないのにも拘わらず、上から目線で作品を評価する評論家達なのでしょう。

・エピソードと講義をつなぐ「新たな文学理論」

冒頭で、例外はあるものの、エピソードと講義は別個のものとして読解できるとしましたが、両者をつなぐ大切な要素は一つあります。

それが、主人公が大学教授であり続けたい理由です。唯野は、編集者の番場に「小説を書きたいというのは自分の野心のうちのほんの1パーセントにすぎず」、残りの99パーセントは次のことにあると言います。

 「『新たな文学理論を確立したいという野心です』」

筒井康隆, 前掲書, 2000, pp221

そして、「そのためには、学界を基盤にしておかなくてはならず、大学の後ろ盾がない人気作家となってしまっては、せっかくの立派な理論もマスコミにいいように弄ばされて終わってしまう」と続けます。

先ほどの講義の「受容理論」のところで、素晴らしい文学理論の考えがあっても「学者だけでなくて、批評家、出版社、編集者などが作っている文学制度の中で決められてしまう」と、唯野が指摘したことを触れましたが、彼は、大学から離れてしまうと、自分の思想が何ら防御もなく生身のまま提供され、それが他の力によっていいように使われてしまうことを恐れているのでしょう。

野心の話に戻りますが、唯野教授は、第二講の「新批評(ニュー・クリテイシズム)」の講義の最後に、自分の批評の対象は『虚構』であるといい、本作では最終講となる、第九講の「ポスト構造主義」でも次のような発言をしています。

 「『今での文学理論というのは歴史、宗教、哲学、美学、言語学、民俗学、政治学、心理学といった、あらゆる分野から借りてきた借りものの理論が多かったわけだけど、虚構の、虚構による、虚構のためだけの理論というものがあり得るかあり得ないか。むしろ虚構の中から生まれた、純粋の虚構だけによる理論でもって、さっき言ったようなあらゆる分野の理論を逆に創造してしまうことさえ可能な、そんな虚構理論は可能か。』」

筒井康隆, 前掲書, 2000, pp363

実際に、本作であげられた9つの文学理論においても、他の学問の思想を流用して出来上がったものです。

一方で、広義ではノンフィクションも文学となりますが、文学を「小説」ととらえると、「虚構」(フィクション)であることは揺るぎない事実です。だからこそ、本作のようなメタフィクションとしての仕掛けができ、学内政治のシニカルなテーマを戯画化した物語が成立するのです。

この「虚構理論」について、これから感想で、『文学部唯野教授』でいかなる表現がされたのか、検証したいと思います。

『文学部唯野教授』――感想

本作は、実在する大学、人物をモデルとした小説です。本文中には、例えば、大学内の用語である「雑役助手」「学部長選挙」など、事実に即した注釈がつけられています。

しかし、話には、大学内でエイズの疑いのある助手が、講師の道を閉ざされたことを機にメスで体を血だらけにしながら学内で暴れ回るといった事件も挿入されます。このように、過去に例がなく完全なる創作部分もあります。

そして、何といっても、エピソードと文学批評講義をセットにして展開する物語の構造自体が、一般的な小説よりも実験的な色合いを濃くしています。

これらの点に留意して、学内政治の真相という、本来ならば社会的な題材にもなりそうなテーマと、逆に専門的でアカデミックな「文学理論」を組み合わせた、本作が、「虚構」の名のもとどのように効果をもって、私達に読書の感動を与えることになるのかについて考えていきましょう。

『文学部唯野教授』のモデルとなった人物は?

本作の主人公唯野仁は、早治大学の教授です。これが東京の私立大学「早稲田」「明治」の両大学の名前からとられていることは言うまでもないでしょう。モデルとなった大学は、比較的わかりやすく、「江戸川公園」「神楽坂」など、唯野達が行動した地名から、新宿区西早稲田にある「早稲田大学」であることが示唆されています。

しかし、当然のことながら、実際の早稲田大学とは違った描写もあります。同大学の文学部は、新宿区戸山にあって少し他学部と離れていますし、学内には早稲田大学にはない「医学部」があることが書かれています。

作者は、大学関係者に綿密な取材を行ったものの、本作で「早稲田大学」の学内政治を暴くことを意図していたわけではなく、あくまで私立の総合大学として、読者にイメージを喚起させやすいという条件から、早稲田大学を主体に設定したのでしょう。

では、この大学に勤務する「唯野教授」にモデルはいるのでしょうか?

これには、本作の底本ともいえる、テリー・イーグルトンの『文学とは何か』を翻訳した、現東京大学名誉教授の大橋洋一ではないか、という話もありますが、作者は自著『読書の極意と掟』で、大橋とは「『文学部唯野教授』がベストセラーとなった後、神戸の自宅で会った」と記しています。従って、唯野教授のモデルが、大橋洋一である可能性は低いです。

本作には、解説で述べたとおり、(非常にわかりやすい形で)実在する人物をモデルとした人がでてきますが、文学理論講義の中では、実名でも数多くの現存する人々が登場します。なかには、渡部直己のように、最初、「股辺直己」と出てきて、最後には実名という人もいます。

作者の筒井康隆までもが、講義にメタフィクションとしてでてくるわけで、こうして、実名と作名が混然とし、虚実入り混じってくるのも本作の「妙」で、唯野仁のモデルに興味がわきます。しかし、結局、造形のヒントとなった人物はいたかもしれませんが、そのままモデルとなった人は特定できませんでした。

唯野が、作者の代弁者としての役割を担っているのは事実です。

特に日本の文芸評論家に対する憤りは、そのまま作者の声といえるでしょう。

一方で、本作は、大学政治を糾弾するほど強い意志をもって発表されたものではありません。本作が注目されることで、大学内の問題が表面化しましたが、あくまでそれは結果としての話です。

創作者、研究者が抱える、アカデミズムやマスコミ、文壇の諸問題は、実際に看過できないものですが、本作で作者が一番、実践したかったのは、文学の「虚構」の中で、文学批評を展開するという、いうなれば、自分の体を自分で解剖するがごとき神業を実現することでした。ですから、先の問題は、それを実行するのに有益な題材という位置付けととらえた方がわかりやすいでしょう。

こうした点からも、唯野教授が実在すると考えるよりは、彼は、文学の虚構を楽しませてくれる「狂言回し」として造形されたと、とらえた方がよいかもしれません。

・「虚構」の魅力を語る文学理論とは?

唯野教授は、エイブラハム・リンカーンの言になぞらえて、「虚構の、虚構による、虚構のためだけの理論」を打ち立てると宣言しました。

この「虚構」を考えるにあたって、2つの側面に注意しなくてはいけません。

まず、「事実」を認識するという行為が、実に脆いものであるいうこと。これは、「第四講 現象学」におけるテーマでした。本作は、この第四講の講義から内容が難しくなります。

エピソードと文学講義の関連は薄いと言いましたが、ここは例外で非常によくできていて、第四講のエピソードで、立智大学の講義の人気がでてしまったことが、友人の牧口の教授招聘運動の妨げになるかと危惧して、「講義を難しくしなくては」という、唯野の独白が入ります。現象学を十数頁で文芸批評として表現するのですから、実際に難しくなるのは当たり前なのですが、物語として流れもつくったのです。

さらに、「第五講 記号論」で、概念を伝達する「言葉」自体も、本来は明確な力をもっていないことが説明されたのです。

ですから、後ろ向きにとらえてしまえば、もともと「事実」を認識し、伝えるという行為がいかに不確かなものかという現実を前にして、あきらめに到達するわけです。

しかし、現実の日常のコミュニケーションを成立させていることは多いわけですし、これがなければ経済活動、社会活動が崩壊してしまいます。要は、太宰治ではないですが、世の中に蔓延する菌にいちいち気にしても仕方がないように、人間のコミュニケーションの脆弱さに囚われて、会話を怖がり、普段の生活に支障をきたしてもよくないという話です。

とはいえ、物事がうまくいかなくなるのは、この当たり前のように伝わると思っていたコミュニケーションが壊れてきた時です。本作では、トラブルの萌芽がみえてくる「第四講 現象学」のエピソードにつながってくるのです。

人はいずれ死ぬことがわかりながら、それを直視しないのと同じように、物事の認識や言葉の共有が実は大変困難であることを知りながら、気をとめずに暮らしているのですが、いざ、危機に陥ると、この厳然たる事実に戸惑うこととなります。

そのコミュニケーションの揺らぎを解消する、処方箋となるのが「虚構」なのです。簡単にいってしまえば、優しい「嘘」をつくことで、コミュニケーションを復権させるのです(その逆に崩壊していく事実をむしろ強調することもあるのですが)。「事実」を追求すると凝り固まった人達に「遊び」を提供するのです。

つまり、文学は脆弱な基盤に立っていることがわかりながら、押し付けられる「事実」にがんじがらめになった人達の救済の道を示すこともあり、それが「虚構」の魅力でもあります。

本作のエピソードの部分は、大学が舞台ではありますが、ここでは「組織と個人」というかなり普遍的なテーマが根底にあります。つまり、旧態然とした大学組織と、その折り合いをつけていきたい唯野という個人が葛藤していくことです。

ですが、本作のユニークな点は、文学の「虚構性」の必要性と魅力を平行して訴えるというメタフィクションの構成をとっているので、表現としては、一見ばかばかしく描かれていても、そのエピソードが力を増してくるのです。

ただし、この構図にはまるためには、読者も唯野教授の文学講義を、腰をすえて聞くことが要求されます。リンカーンが謳った民主主義にしても、ただ茫然と過ごしていて「民権」が確保されないのと同じように、「虚構」による文学の魅力を味わうためには、現実のコミュニケーションにおける「失望」という踏み絵を経て、その脆弱さと真摯に向き合わなくてはならないのです。本作を熟読すれば、この過程を辿れることになるでしょう。

・作品の深層をつかむアプローチとは?

しかし、「虚構」である小説の深層を下っていくには、矛盾した言い方になりますが、「現実」の知識となる武器が必要です。本作においては、それは文学的教養であり、理解するのには大学特有の「常識」を知る必要がありますが、これは本作に記された注釈により入手できます。こうした点からも、作者のパロディや笑いを取り入れる作風からドタバタな展開や底の浅そうな登場人物達に騙されそうになりますが、本作は実に丁寧に書かれた作品といえるでしょう。

笑いを軸に物事の真相を辿っていくという意味では、作者とも交流があった井上ひさしがいましたが、例えば『吉里吉里人』などを読むと、同じ作風といっても違いがあることがわかります。

井上ひさしの場合は、米づくりなど農業への保護や反戦などの社会的、政治的テーマの骨格は、いかに「ふざけた」表現を用いても明確にします。一方で、作者は、そこまでのメッセージ性を打ち出すことはありません。繰り返しになりますが、本作は、「文学理論」の興味からスタートしたのであって、大学政治の糾弾を目的としたものではないのです。

従って、階層の深部においては、人間の本質的なところでの視点で、作者も井上ひさしも同じところに達するのかもしれませんが、そこにいきつくまでの階層には違いがあり、それが作家の大事な個性ということになります。読者にとっては、こうした個性に留意していくことも一つの楽しみです。

また、本作では、唯野教授が随所でいっていた「虚構」における文学理論の確立であったにしても、その深層に読者が行きつくためには、再読、再再読が求められます。場合によっては、理解を深めるために、こうした「書くという行為(エクリチュール)」をすることも必要になってきます。

特に本作のような示唆に富んだ作品においては、自分の文章によって「虚構」と向き合い、その感想を整理し表現してみるとよいでしょう。

文学に心を寄せる者にとっては、必須の書ともいえる本作で、その芳醇たる可能性を見出してみてください。

★参考文献
筒井康隆『不良老人の文学論』、新潮社、2018
筒井康隆『読書の極意と掟』、講談社、2014
筒井康隆『短篇小説講義』(増補版)、岩波新書、2019
筒井康隆『文学部唯野教授のサブ・テキスト』、文藝春秋、1990
筒井康隆『文学部唯野教授の女性問答』、中央公論社、1992
筒井康隆『誰にもわかるハイデガー 文学部唯野教授・最終講義』、河出書房新社、2018
テリー・イーグルトン『文学とは何か』、大橋洋一訳、岩波書店、1985
ロラン・バルト『物語の構造分析』、花輪光訳、みすず書房、1979

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まつもとあゆむ

千葉大学文学部文学科文学理論専攻。自分も含めた読者が本を通して導かれる小宇宙、その無限の世界で様々な読み方に出会えることをいつも期待しています。あまり固定ジャンルに囚われないように本を読んでいますが、個人的な好みは「ビターエンド」の作品です。本も大事ですが、本から得た刺激を実社会に生かしてこそ、本の価値が生まれると信じているので、皆さんにそれが伝えられることも意識しています。本来、書評というのは誰でもできるのですが、「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく(以下略)…」といくのは大変で、その修行として、まだ道四分の一ですが執筆中です。